第6話

「逃げる?」

 リィンはマーカスの言葉を反芻するように聞き返した。

「そうだ! ここから逃げちまえばいい! お前は頑張ったんだ! それでいいじゃねぇか。この国が潰れるとしても、お前のせいなんかじゃねぇ! 仕方がないこと……そういう運命だったんだ!」

「うんめい……? これが運命……?」

 呆然としている様子のリィン。マーカスは、彼女の前に立ち、まっすぐ見据えてゆっくりと続ける。

「そう、運命だ。受け入れればいい。そうすりゃ、あとは気楽に生きていきゃいいのさ」

「運命……そう、運命です。これが運命なんです!」

 マーカスは、リィンが全てを受け入れたと思った。だから、彼女の言葉に自然と口元が緩む。

 だがリィンは、マーカスの意図とは違い、周囲を見回すような動作をする。

 一体何をしているのか……マーカスが訪ねようとした瞬間、リィンはおもむろに駆け出す。

 彼女は何かを拾い上げる。そして、自分の首元に当てた。

「マーカス様、全てはワタクシの一存です。この国を身勝手に利用した、愚かな女王の最期……どうか、見届けてください!」

 リィンは目を瞑ると、手にしたナイフを自らの首に向かって引きつけた。

 ザシュッ!!

 目を開く。

 ナイフには赤い血が滴っている。だが、それはリィン自身のものではない。

 刃を握る手。マーカスの右手から流れる血だった。

「このバカヤロウが!!」

 大きな部屋の中に、マーカスの怒声が響き渡った。だが、リィンは決して怯まない。

「これしか方法はありませんっ! 全ての咎はワタクシのもの! この国の民には責任はないのだと……ローデリアに申し開けば、あるいは!」

「奴らが、そんな言い訳を聞くわけねぇだろうが!」

「試してみなければわかりません!」

 マーカスは俯いてしまう。リィンの瞳が、あまりにもまっすぐに自分を見つめるから……とてもこれから死のうとしている人間の目には見えなかったからだ。

「もし……仮に! 万に一つ、そういう話が通るとして……どうしてお前がそこまでする必要があるんだ! 表を見てみろ! お前を責める連中が山のようにいる……何もかも、お前に押し付けて、安心しようとしてる連中だ! そんなもん、守る価値ねぇだろ!」

「それは……違います。民がワタクシを責めるのは、おかしなことではありません。統治者とは、そういう役割を担う者だからです」

「そんなもん、そう生まれついたってだけだろうがっ!!」

 マーカスはリィンからナイフを取り上げる。刃を持ったまま力を込めたため、さっきまでよりも多くの血液が辺りに散らばる。当然、リィンの顔にも飛んだ。

「お前はただ……王族として生まれただけだろう! そう……生まれただけだ! お前の気持ちは関係なくっ! なのに、どうして命まで懸けて……捨ててやらなきゃならないんだ! いいじゃねえか! 他の奴らが死のうが生きようがっ! 関係ねぇだろ!」

 息が切れる。言葉だけが続いていく。いくら叫んでも、言い足りないほどに。

 だが、リィンは静かに応じる。

「死のうが生きようが……ですか。本当に、あなたはヒドい人ですね。ワタクシのために怒ってくれるマーカス様とは、同じとは思えませんね」

 マーカスは下唇を噛む。わかってしまったからだ。この少女の気持ちは変わらないのだということを。

「こう生まれついた……そう、ワタクシはワタクシとして生まれました。ですが、ワタクシはワタクシとして……リィン=リーシア=リルムウッドとして生きると決めたのです。例え、それが唯一の道だったのだとしても、そう生きようと決めたのです! だから、逃げるわけにはいきませんっ!」

 ようやく理解した。

 リィンという少女に抱いていた感情……一体何に苛立っていたのか。

 ――俺は、こいつが……羨ましかったんだ!

 目の前にあるのは一本の道。ただまっすぐ歩く以外に選択はない。そんな運命を前に、マーカスは諦めるしかなかった。

 こうするしかない、これ以外に方法はない。全ては『仕方のない』ことだ、と。

 だが、この少女は違う。例え一つしか道がなくとも、自ら選んで進んでいる。

 女王になるしかない人生の中で、女王であろうとしている。

「なんだよ、それは……そんなの、ズルいじゃねぇか。俺は……俺にはっ!」

 逃げ出したい。それしか考えられなかった。

 竜を殺す時も、竜王を殺した直後も、罪人として追われている間も。

 ただ逃げることだけを考えていた。

「マーカス様が悩まれることはありません。これは全て、ワタクシの決めたことなのですから。ただ、できることなら、ワタクシの願いをサヤ達に届けてくださいませ」

 リィンは立ち上がると、マーカスが投げ捨てたナイフをもう一度拾おうとする。

「待て!」

 マーカスの声に、リィンはゆっくりと振り向いた。

「もう止めても無駄です」

「あるんだよ、もう一つ」

「え?」

「お前も、この国も……ミスリルも無くさずに済む方法が」

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