第8話

 また雨が降っていた。

 中野通りと呼ばれている廃墟を通る街道だった。

 2人組の男だった。

 驚くほど呆気なく俺は男の一人を仕留めて……そうして立ちすくんだ。

 俺の動きの異常さに戦意を喪失したか、もう一人は戦わずして逃げた。

 雨に煙る男のうしろ姿。

 その逞しい逃げ足にぼんやりとした敬意みたいなものを感じながら、俺は足元の仕留めた獲物に目を落とした。

 男の首筋から大層血が流れている。

 俺の鉤爪が裂いたのだ。

 俺はうずくまって、男の首に顔を埋めて

 ――――その血を吸った。


 甘い。


 信じられないような、陶酔的な味わい。


 ただの血がどうしてこんなにうまいのか。

 

 これは最高クラスのジュースだ。

 何という名前の果物を搾ればこれに匹敵する飲み物になるのかは知らないが。

 飲みながら……俺は目が眩んだ。



 俺は街道から森の中へと獲物を運んだ。

 何匹かのゾンビが近づいて来る。

 俺がチラリと流し目を送ると、そいつらはすごすごと引っ込んで行った。『大統領』とか『大臣』とか見覚えのある顔もあった。

 俺は桜の大樹の陰まで獲物を運んで、そこで男の着ていた服を脱がせた。

 脱がせるというより引き裂くと言った方が正確であろうか。

 ともかくもそうして男を裸にさせた。

 20歳前後だろうか、若々しく引き締まった肉体だった。

 肌は汗と雨に濡れて艶々と光っていた。

 胸や肩の筋肉が盛り上がって、反対に腹筋はよく締まっている。

 豊麗な陰毛に縁取られた下腹部の器官が少し立ち上がって見えるのが不思議だった。

 男の全裸の体に俺の全裸の体を重ねて、そうして俺は男の首の肉を食いちぎった。



 あの薄汚いワンピースを着たメスゾンビのオバサンが遠巻きにこちらを見ていた。

 物欲しそうな目をしていた。

 俺は獲物の内蔵を口にしながらオバサンに目でうなずいた。

 オバサンは嬉々として飛んで来た。

 手にナタみたいな物を持っていた。



 孤独の反対語って何だろう?

 分からない。

 よくよく考えても分からない。

「孤」というのは親のいない子供のことで「独」というのは子供のいない老人のことだとか。ようするに誰か家族がいるのは人間にとって当たり前のことであり、そういう当たり前のことは言葉にもならないらしい。だから孤独の反対語は存在しない。

 ただ孤独だけが存在する。

 喉の奥から変な声を漏らしながら、オバサンは俺と同じように獲物の腸をズルズルと吸った。

 それはもう、まさしくウインナソーセージのような深い味わいで、俺もオバサンも言葉もない。

 肝臓とか腎臓とか膵臓とか、名前を知っているわけではないが、臓器の一つ一つは味も風味も異なっていて、何か豊麗であった。

 今まで人間時代を含めて、俺はこれほど豪華な食事をした記憶がなかった。

 食いながら俺は自分が出世したような気分を同時に味わっていた。

 20歳過ぎのオバサンは獲物の下腹部の器官を食って、満足げに舌舐めずりすると、今度はナタを取り出した。何をするのかと見ていると、獲物の首を打ち落とした。

 その生首を地面に立てるとナタを高々と振りかざして獲物の頭蓋骨を叩き割った。

 頭蓋のひびの所に白魚のような指を当てると、黒々とした頭髪ごと頭蓋が外されて、中から薄い膜に包まれた脳髄が現れた。

 ピンクがかった灰色をした物で、身の毛のよだつほどに気色悪い。その不気味さが俺の食欲をそそった。

 オバサンは器用な手つきでその脳髄を取り出すと右脳と左脳と半分に分ける。「あげる」と言わんばかりの目をして俺にその半分を差し出した。おいおいオバサン、この獲物は俺が狩って来たんだよ。まったくこのオバサン、自分で狩りをするわけでもないのに食い方だけは詳しいらしい。

 俺は食ってみた。

 その脳髄。

 驚いた。

 甘いのである。

 まるでプリンである。

 俺の呆気に取られた顔を見てオバサンがケラケラと笑った。奇跡の果実は2人で食っているとすぐになくなってしまった。幻の味わいだった。

 いつの間にか雨は小止みになっている。

 またゾンビ共が何匹も遠巻きに見ていた。

 俺の獲物はまだ半分ぐらい食える所が残っていたが、俺は立ち上がってその場を去って行った。何匹かのゾンビが俺の食い残しめがけてどっと走った。

 桜の大樹の陰の命の饗宴。バリバリ、ムシャムシャと咀嚼する音そのものに喜びが漲る。

 オバサンが俺の後ろに追いかけるみたいについて来た。何を思っているのかは知らないが、後ろから俺の手を握った。

 20歳過ぎのオバサンの手を握りながら歩いていると森が切れて、彼方にアコアグタムの町の城壁が見えた。うっすらと霧雨に煙るその姿は、中世の難攻不落の戦闘要塞みたいに見えた。

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