第4話

 朝になると――失われたはずの左腕が伸びていた。

 さらに次の朝になると、5本の指も生えていた。

 さらに次の朝になると、鉤爪までしっかりと伸びて、僕の左腕は完全に元通りになっていた。

 雨は止んでいた。

 廃墟は静かだった。

 そして虹色をした森の木漏れ日の下で、僕は空腹だった。

 瓦礫の椅子に腰かけて腹を抱えながら、僕は何となく姉を思った。


 お姉ちゃん。

 

 ショートカットにした髪、薄手の白いワンピース、なめらかな肌、愛らしい口元。

 姉は光。姉は喜び。存在する幸福。

 姉がピアノで弾いてくれるパッヘルベルのカノンが僕は大好きで、あのしみじみとした平凡な感じを愛していて、人生の通奏低音のようにそれが継続して響いていてくれたならば、どんなに良かっただろう。

 猫のミッキーはどうしているだろう。片目のミッキー。

 僕以外の人が餌をあげてもちゃんと食べてくれるだろうか。

 子猫の時に僕が廃墟で拾ってきたのだ。

 日本一幸せな猫にしてあげなければならないのに、僕はこんな風になってしまった。

 万葉集が読みかけだった。

 何となく大伴坂上郎女が好きで、あんなお母さんがいたらいいなあと思っていたのが随分昔のような気がする。

 目の隅で何か動いた。

 木漏れ日が風に揺れたのではない。

 細長い物。

 蛇か?

 いやもっと小さい。

 ちょろっと動いた。

 トカゲだった。

 僕は何も考えずに手を伸ばした。

 捕まえたそいつをすぐに口に放り込んだ。

 バリッ、バリッ、バリッ。

 少し生臭い。

 あんまりうまくない。

 こんなのでも腹の足しになるのであろうか。

 陰鬱である。

 もっとうまい物が食いたいと思った。

 ちょっと歩く。

 ネズミを見つける。

 食ってみる。

 トカゲよりはましな気がするが、やっぱりうまくない。

 犬を見つけた。

 廃墟の野犬。

 捕まえて八つ裂きにして食う。

 量が多いのはいいのだが、やっぱりあんまりうまくない。

 薄汚いワンピースを着たメスゾンビのオバサンが物欲しそうな顔をしてこっちを見ていたので、犬の肉はオバサンに投げてしまった。20歳過ぎのぱっとしないオバサンだった。

 歩いても歩いても、どうにもこうにもイライラするので、僕はパジャマも下着も脱ぎ捨てて全裸になった。

 ふーっと気持ちが落ち着いた。

 また日陰に行って、獣らしくうずくまった。

 『LAWSON』などという看板のかかった平屋建ての廃墟がある。その屋内から屋根を突き破って名前の知らない大樹がそそり立っていた。

 その木陰に横たわりながら、僕はあの内田の肉の素晴らしい芳香を鮮烈に思い出していた。

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