アルカイド

 帝都アリルの郊外へと出ると、灯りは全く見えなくなっていた。

 星だけが照らす闇の中、イリスは、ぼんやりと燐光を放つ背を追いかける。

 風景は暗闇に閉ざされてよくわからないものの、足の裏の感触から、ここはアリルから伸びる『街道』であることがわかる。

 整備された石畳の街道ではあるが、人ひとりいない。

 もちろん、このような時間、このような場所を歩くものは少数派ではあろう。閉ざされた闇の深さと、民家の明かりすらほぼないことからみて、山に向かって伸びていく街道のひとつだと思われた。

 やがて。農村地域をすぎたのであろう。

 あたりに黒い木々が迫るように茂り始めた。

 会話はおろか、木の葉が揺れる音すらない。聞こえるのは、イリス自身の足音だけだ。

 ゆっくりと道が登り始め、山に入ったようだ。

 淡い光の中、黒々と影を作る道の脇の木々が息苦しさを作る。

 <彼>は、やがて街道を離れ、細い道に入った。あまり人が行き来する道ではないのだろう。むき出しの岩がそびえ始め、道の勾配がきつくなる。足裏に岩のような硬さを感じるようになってきた。

 そして。

 <彼>は、岩肌の前で、唐突に立ち止まった。暗闇の中でに大きな影がのしかかってくるようだ。

 <彼>の伸ばした手から洩れる燐光に、岩肌がキラキラと反射する。どうやら、その岩は鏡石でできているらしい。

「このへんでいいだろう」

 <彼>がパチンと指を鳴らすと、グワンと、大気が歪んだ。

「来なさい、イリス」

 のびたその腕が、イリスの腕をつかむ。抵抗する暇はなかった。

「え?」

 ぐにゃりとした感覚。イリスは、岩のに引き込まれた。

 そこは、鈍く光る鏡石で囲まれたような部屋であった。

 ぼんやりと周囲が発光している。

 <彼>と、イリス以外、誰もいない空間だ。

「私を、どうするの? ―― レザル」

 イリスは静かに問う。

 くすくすと、<彼>は笑った。

「私は、ザルクですよ。イリス。君を娶るのは、私です」

 イリスは、<彼>に引き寄せられる。腕に触れられた場所に痛みが走った。

 人の手とは思われぬ、冷たい――冷たすぎる感触。

「いやっ!」

 ほぼ反射で、イリスは<彼>の胸を突き飛ばした。触れられた場所の衣服に霜がついている。

「あなたが、ザルク公子だとおっしゃるのであれば。私には触れないというお話でしたよね?」

 イリスはゆっくりと後ずさる。<彼>の目が、イリスを捉えた。輝きを増して、目をそらしたくても、それを許さない。

 逃げ場はどこにもなかった。

「そうとでも言わねば、皇太子が道を踏み外すのが目に見えていたでしょう?」

 くすくすと<彼>が笑った。

「私はね、レザルから譲歩をひきだしたのです。帝国の為に、ゼクス殿下とあなたを引きはなすこと。生きている間、あなたが孤独にさいなまれないように、私がそばにいることを」

「レザルから譲歩?」

 イリスは剣の柄に手を当てながら、さらに後ろへと下がる。

「本当は、挙式まで待つつもりだったのですがね。愚かな妹が賢しげにさえずり始めましたし、魔界あちらの生き物は常に空腹で、待ってくれなくて、予定が狂ってしまいました」

「何を、言っているの?」

 イリスは剣を抜いて構えた。

「門だって、ここまで開けずに、待ちましたよね」

 <彼>はパチンと指を鳴らす。

 異界の風の刃がイリスの右腕を打ち、皮膚を切り裂き、血が飛び散った。

「――っ」

 痛みに耐えられず、イリスは剣を落とす。右腕から温かいものがしたたる。

 床に落ちたイリスの剣を、<彼>は足で払った。剣が、床を滑るように遠ざかる。

 イリスの血を見ても<彼>は、表情一つ動かない。

 恐怖ですくみそうになる自分を、イリスは必死で鼓舞した。

「私を、どうする気?」

「あなたは素直に抱かれればいい。男の手に触れられたかったのでしょう?」

 イリスがさらに後ろに下がると、背に壁があたった。鈍く光る鏡石に映る<彼>は銀の瞳だ。

 伸ばされた二つの腕に、イリスは壁に貼り付けられた。凍りつくような冷気がイリスを縛る。

 もはや逃げ場はなかった。

 血が流れている部分だけが温もりを感じる。全身が凍りつくように冷え、傷の痛みさえわからなくなってきた。

 冷たい指がイリスの身体をなぞる。おぞましい愛撫は、吐き気とそれ以上に冷たい痺れをもたらしていく。

 <彼>の目は、イリスを求めているようであっても、滴り落ちる血にも冷えて痺れていく身体にも興味はない。

 おそらく、イリスの生死ですらどうでもいいのだろう。むしろ、死の淵を覗くイリスの感情を至福と感じているようであった。

 <彼>は、ザルクなのかもしれない。しかし、その強大な力も、その心も、魔人そのものだ。

 元が誰であろうと、その存在は、殺りくと恐怖をもたらす。イリスを死へと導く。

 生きるためには、戦うしかない。

「わが身に流れる聖なる血よ。その血の契約により、乞い願う」

 イリスは震える唇で唱える。生半可な術では倒せない。捨身技の一択だ。命を賭しても、倒さねばならない。

「ほう。抵抗するので?」

 面白げに、<彼>が呟く。

「わが身よ。炎となり魔を打て!」

 イリスの身体が炎に包まれ、彼女を縫い止めていた腕を伝い、炎が<彼>を包み込んだ。

 自らを燃やし、相手を焼き尽くす捨身技だ。

 炎に巻かれても、<彼>はその手を離さない。イリスの心を絶望が襲う。

「……ゼクス様」

 尽きていく力の中で、イリスが思わず呟いたその時――空間が裂けた。



 封印の間は、いつものように静寂に満ちていた。

レキナールが丁寧に灯りを灯すと、封印石がやわらかく光を反射し、部屋が明るくなる。

 空気は冷えていて、この前のように、曇ることはない。当然、レザルの姿はどこにもない。

「レキ、さがっていろ……何があっても、口を出すな」

「ゼクス様、いったい何を……」

 心配そうなレキナールにゼクスはニヤリと笑い返す。

「天人と、取引する」

「天人と?」

 ゼクスはああ、と頷く。

「もし、俺の予想した通りなら、イリスは、ザルクの手におちている」

 そう言って、ゼクスは中央の白金の石の前に立った。

「――そして、最悪の場合、ザルクは既に人ではない」

「え?」

「魔人は影をおくる。アルカイドはそう言っていた」

 ゼクスは、目を閉じた。

 レキナールは部屋から出て、そのまま黙した。ゼクスが何をしようとしているか理解したというよりは、事態が急を要するということを理解したようだった。

 ゼクスの集中とともに、清浄な大気が封印の間に満たされていく。

「アルカイド、俺の力をやる。死んだ後なら、俺の魂もくれてやる――だから、力を貸してくれ」

 冷たい石の表面にゼクスは、その手で触れる。

「わが血に流れし聖なる血よ……命の光を」

 脳裏にアルカイドの姿を描きながら、かつて、イリスに教わった『癒し』の力を石に流し込んだ。

 力は、そのまま石へと流れこんでいき、白金の石が眩しい光を放つ。

『我の名を呼ぶのは、誰だ』

 男のものとも、女のものともわからぬ声があたりに響いた。

 白金の石に、長い金髪をした、つくりものめいた端正な顔が浮かび上がる。

「わが名は、ゼクス。人生を謳歌し、魔人に屈しないというならば、手を貸すと聞いた」

 アルカイドの目が興味深そうにゼクスを映した。

『そなたは、魔人の印のある娘ではないが』

「印がなければ、力は貸せぬか?」

 ゼクスは、挑むように、アルカイドを見る。

『あいかわらず、おそれを知らぬ男よ。おぬしならば、魔人の印の娘にこだわらずとも人生は謳歌できよう?』

 突き放すように、アルカイドは言った。

「妥協と諦めの中、平穏に生きる生気のほうが、好みなのか?」

『いちいち、攻撃的な男だ――まあ、嫌いではないが』

 アルカイドの作りものめいた顔に、はじめて柔らかな笑顔が浮かんだ。

『それで、我に、魔人を倒せと言うか?』

「いや。そうじゃない――イリスの居場所がわからない。捜してほしい」

 ゼクスは石に手を当てたまま、頭を下げる。

『娘は、それを望むかね?』

 いささか意地悪く、アルカイドがそう言った。まるで、イリスがゼクスを拒絶したことを知っているかのような口調だ。

「そんなことはわからない。だが、異界の門を追いかけていった彼女の行く先に、『幸福』が見えないのは、間違いない」

『ただ、捜せと言うのだな』

 アルカイドはゼクスに確かめるようにそう言った。

『なぜ、魔人を倒せと言わぬ』

「言えば、倒してくれるのか?」

 ゼクスは質問を返す。

「倒す気があるのなら、天人の谷で会った時に、そう言ったはずだ」

 ゼクスは決めつけた。

「天人も魔人も、人界が必要だという。ならば、おそらく、人界にとってもそうなのだろう?」

 人の感情を食らうものがあるのならば、その事にも意味があるのであろう。

 そして、ひとは、柔らかな感情のみ抱いているわけではない。魔人の望む昏い感情もまた、ひとの心だ。

『魔を滅するのは天人の役目、とは、言わぬのか?』

 アルカイドは、明らかに面白そうにそう言った。

「天人も魔人も、人界に来れば、穴が開くのだろう? 魔人を倒すのに、天人が大きく力を貸せば、被害が拡大する。違うか?」

 ゼクスの言葉を、アルカイドは何も言わずに聞いている。

「正直、力は欲しい。今のままでは、俺は彼女を救えない。だが、すべてを丸投げして、魔人から彼女を救っても、彼女をお前に連れていかれては、困る」

 クックッと、アルカイドは声を立てて笑った。そのような顔もできるのか、と、ゼクスは思わず目を見開いた。

『正直な男よ――そういう態度は、嫌いではない。報酬に、魂をくれると言ったか?』

「ああ。だが、俺の人生を豊かにするには、イリスが絶対不可欠だ」

 ゼクスは、迷いなく言い切った。

『よろしい。現在、彼奴レザルは、影に身を分けている。力は、魔界の身体と、影に二分しているため、普段より組みしやすい。だが――彼奴は、影の絶望を好んで喰らう。娘が影を拒絶すればするほど、魔人は狂喜する』

「影の絶望?」

『影に変異が起こり始めたら、迷わず、討て。我が名を使うことを許そう。しかし、彼奴が影を喰ろうてしまっては、ひとの子では勝てぬ。覚えておけ』

 言いながら、どこか宙を探るような視線を送ってから、アルカイドは眉を寄せた。

『彼奴は今、閉鎖空間に閉じ込め、美味なる恐怖を味わっているようだな……無理やり押し込むと、場が不安定になるが……人界に穴を開けるよりはよかろう』

 アルカイドがそう告げると。

 ゼクスの手は石の中に吸い込まれ――空間が裂けた。

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