異界の門
ランプの灯りの下で、鮮やかなコバルトブルーが目を引いた。
――ああ。
イリスは、ベッドサイドに置かれていたドレスに手を伸ばした。ゼクスと踊ったドレスだ。
美しかったそれは、その後の妖魔蟲の戦闘で薄汚れ、一部、やぶれたり、引きつれたりしてしまった。
その後、洗って汚れを落としたものの、まだ補修はしていない。大侵攻からずっと、切り詰めてきたイリスにとってこの程度のダメージは、ダメージのうちに入らない。
だが、ドレスの補修をしたところで着るあてはないのだ。
たとえ、再び社交の場に顔を出さねばならないにしろ、さすがにゼクスとの思い出の品を、飾りの妻とはいえ、ザルクの隣で着ることは許されないであろう。
柔らかで着心地の良いその布地をイリスは抱きしめた。あの日、ゼクスが手に落とした唇の感触がよみがえり、身体がカッと熱くなった。
――未練、よね。
ひとりごちて。イリスはドレスを畳み、元の場所に戻した。
――諦めるのは、慣れてしまったと思っていたのに。
目にたまった熱いものをぬぐい、苦笑しながら、ふと窓の外に目をやった。
開かれたままの窓。いつのまにか風はやんでいる。
「ん?」
イリスは眉をひそめた。
常ならば、聞こえてくるはずの、外の音が全く聞こえない。
喧騒はおろか、木々のざわめきも、虫の声も全く聞こえないというのは、妙であった。
不意に。肌がざわつく感じがして、頬の傷が痛み始めた。
――異界の門?
ここは帝都アリル。普通なら異界の門など開いてはならない場所だ。
イリスは剣をとった。鎧もまとわない部屋着姿だが、そんなことは気にしていられない。
「イリス様っ」
夜更けに玄関から飛び出そうとするイリスを、ジムサの声が追いかける。
「門が開いているっ! 封魔隊に連絡を、急いで!」
イリスは、振り返らずに叫び、魔磁針を片手に走り出した。
――近づいてくる。
魔磁針の針が変化する。明らかに位置が移動していた。
――門が移動するなんて。
クアーナの公邸の門を出たイリスは、通りを歩いてくる人物に気が付いた。
闇は深く、門灯の明かりがわずかにその人の形をかたどる。
「誰?」
傷がチリチリと痛い。
静かだった。
聞こえるハズの、靴音さえ、聞こえない。開いているはずの門は、目視できない。
門が開いているというより、その人物から、異界の風が吹き上げてくるようだ。
「わざわざ、外まで出迎えに出てくださるとは、さすが我が妻ですね」
感情を感じさせぬ声だ。
「……ザルク様?」
門灯が人物を照らし出した。その姿は、間違いなくザルクであるのに、違和感を覚える。
肌はヒリヒリとし、頬の傷が痛む。
ザルクの瞳が赤い色を帯びている気がするのは何故なのか。
いつもより、肌が青白い色に見えるのは、気のせいか。
「ゆっくりと、手順を踏むつもりでいたのですが、そういうわけにもいかなくなりました」
ザルクは、そういって口の端をあげた。
何を言っているのか理解できなかった。
「私とともに来なさい、イリス」
ザルクはイリスに手を伸ばしてきた。
背筋がぞわりとする。
「どこへ?」
思わず一歩うしろに下がったイリスに、ザルクは笑みを浮かべた。
「あなたの好きなところでかまわないですよ」
そう言ったザルクの顔に、別の何かが重なる。
ザルクであって、ザルクでない『誰か』。
「……あなたは、誰?」
ザルクの短いくすんだ金髪が、闇に溶けるような暗い藍色に見えた。
伸ばされた青白い手がわずかに、鈍い燐光を帯びているようにみえる。
人の手は、暗闇でこんなにはっきりと見えるものなのだろうか。
瞳は、こんなに光るものであったろうか。
「あなたの、夫となるべきものですよ」
にやり、とザルクは笑う。
イリスの全身の肌が泡立った。ザルクが微笑みをうかべるたび、冷気が生まれる。
「ここで、門が開いても構わないのですか?」
どこか楽しんでいるような、そんな口調で、そう告げる。
「門が開く?」
イリスは目を見開いた。
ザルクの身体と大気のすきまに異界の風が吹き上げている。いまにも大きく開きそうな『門』をザルクの身体が栓をしているようにも見え、にじむように瘴気がこぼれていた。
「まさか……」
イリスは息をのむ。
ある可能性に気が付いて、背筋が凍りついた。傷の痛みが、その推理を裏付ける。
そこに『門』があり、それを自由にする力を彼は持っている。<彼>が望めば、ここに大きな門が開く。
クアーナ公国を襲った『大侵攻』に匹敵、もしくはそれ以上の悲劇がおこりうる。それはすべて、<彼>の気持ち次第なのだとイリスは理解した。
「どうする? 私はどちらでも構わないが」
<彼>はそう言って、イリスに背を向けた。
「わかったわ」
イリスは頷いて、<彼>の後を追う。
――ここで、門を開くようなことになってはいけない。
どこまでいくのか。何を望むのか。
イリスは、頬の傷の痛みをこらえながら、その背についていった。
ウエルデン公邸は、どこにも灯りが灯されていなかった。
大使によれば、公邸には常に十人近くの使用人がいたはずである。門灯はおろか、塀の向こうに見える屋敷のどこにも灯がともされていないのは、異常だ。
「ひどい臭いです」
レキナールが眉をひそめた。鼻をつく、不快な臭い。
「――いる」
門扉を同行した大使に開けさせると、闇に蠢いている『気配』がした。
大使を下がらせ、抜刀しながらレキナールに頷いて見せる。
「光よ!」
レキナールが叫んだ。
「天に輝く、蒼き光よ――輝け!」
レキナールの伸ばした手の先に青白い光球が放たれ、門扉の向こうが光の下にさらされた。
「妖蛇だ」
ぬめぬめとした光沢をもつ大きな蛇が門扉の向こうにいた。妖蛇としては小さい方ではあるが、大人が三人ほどの大きさはあった。強烈な悪臭を放ちながら、ぶるぶると全身をくねらせる。
そいつは何かを口にくわえ、食事の最中のようだった。ペチャペチャという嫌な音を立てている。
中庭の奥にある裏のドアはよく見れば半開きになっていて、庭の木はあちこち折れ、植込みの花は踏み荒らされている。
ゼクスは、間合いをはかる。妖蛇の急所は、頭だ。
「炎よ。天より使われし、蒼き炎よ」
レキナールが手を振り上げた。
「闇より生まれしものを焼き払え」
妖蛇の身体が蒼い炎に包まれる。苦痛にのたくりながら、そいつは身体をゆらした。
大地が震動し、足元がゆれる。
ゼクスは激しく叩きつける尾をよけながら、頭の方へと接近を試みた。
炎に巻かれ、呻き声をあげながら、そいつは口にしていたものをゼクスに向かって吐き出した。
ベチャリ。
悪臭にまみれた粘性の高い唾液とともに、人の身体の一部が、ゼクスの身体をかすめる。
肉が焦げる嫌な臭いに、そいつの粘液の臭いがまじる。鼻が曲がりそうだ。
「我が身に流れし、聖なる血よ。その血の契約により、我、乞い願う」
ゼクスは呪をとなえ、輝き始めた刀身に力を込めた。
「闇より出でし彼奴等を骸とせん」
ゼクスは一気に走り、跳んだ。そして、炎に包まれたままのそいつの頭に剣を突き刺して、力を注ぐ。
ぐああっ
声にならない絶叫が夜の闇を揺らし、そいつの身体が大地に倒れ込んだ。
「門は、開いているか?」
ゼクスは、肩で息をしながら、レキナールに問う。
「いえ……魔磁針は反応ありません」
動きを止めた妖蛇から、剣を引き抜きながらゼクスは辺りを見まわした。
妖蛇の悪臭にまぎれてしまっているが、血臭もしている。先ほど妖蛇が吐きだしたものに目をやって、ゼクスはさらに顔をしかめた。
かつて人であったモノの一部だ。
荒れ放題の庭には、妖蛇が残した体液と、生々しい血液が木々を濡らしている。
「……何が、どうなっているんだ?」
ゼクスは眉をひそめた。
静まり返った闇に、その問いに、答えるものは何もなかった。
妖蛇の骸を異界に戻し、公邸内に入ると、中はさらに酷い有様であった。
おそらく、妖蛇は、部屋の中に現れたのであろう。そこら中が破壊され、血臭がただよっている。
貪り食われた残骸だけでは、何人が犠牲になったのか、無事なものがいるのかさえ、判別がつけがたい状態だ。
ただ、物音一つ聞こえないこの状況では、おそらく生存者はいないと思われる。
部屋の荒れ方は、屋敷すべてにおよび、公子、公女の部屋も例外ではなかった。
破壊が一番ひどかったのは、公子の部屋で、妖蛇の痕跡から見て、『そこから』現れたように思われた。
「この状態では、ザルク公子がご無事かどうかは、判別できませんね」
レキナールが厳しい顔で呟く。
「門の痕跡は完全になくなっている。こんなふうになくなるには、誰かが念入りに閉じないと」
「閉じたのは、ザルク公子でしょうか」
「わからん」
妖蛇の粘性のある唾液による臭いが漂っていて、息苦しさを感じる。
門を閉じたのが、ザルクだとするならば、門を閉じたあとに、妖蛇にやられてしまったということだろうか。
「ゼクスさま!」
いっしょに来ていなかったはずの人物の声に驚いて、ゼクスはふりかえった。
「ルゼ?」
歴戦の勇者であるはずの、ルゼは肩で息をしていた。よほど急いで来たのだろう。
「クアーナ大使から『門が開いた』という封魔隊に通報が入りました。周囲を調査いたしましたが、現在、門は確認できていません」
言いながら、呼吸を整える。
「問題は、それを追ったと思われる、イリス公女も、所在が確認できていないのです」
「イリスが?」
イリスは魔の気配に鋭敏だ。魔磁針が感知できないほどの気配でも気が付くことはあるだろう。
しかし、それにしたって、周囲を捜索すれば、開いた痕跡を確認できないはずがない。『門』が動くことはないのだから――。
ガシャン。
倒れかけていた家具が、不自然な重みに耐えかねて、床に倒れ落ちた。
――門は、動かない?
ここには、門の痕跡は全くない。まるで、どこかに消え去ったかのように。
ゼクスの胸に、漠然と嫌なものが広がる。
もし、門が移動するとしたら、イリスはそれを追うだろう。どこまでも――。
そうだとしたら。イリスを捜すのは、容易ではない。
「ルゼ、ここを頼む……俺は、一度、城へ戻る」
「城?」
「一つ考えがある」
ゼクスの胸に、一つの決意が生まれた。
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