オリビア・ウエルデン

 窓から見える空は朱に染まり、部屋の中は影が濃くなってきた。

 外から入ってくる風は、冷気をふくみはじめ、庭に植えられている木々の葉を揺らす。

 窓際の椅子に腰かけ、イリスは夕闇につつまれていく空を見上げた。

 ジムサに、兄、ラキサスに婚約受諾のむねを連絡するように頼んだ。それが、イリスの意志ならば、ラキサスは、おそらく反対はしないであろう。

 ウエルデンは今、服喪中であるから、すぐに結婚がとり行われることはない。少なくとも、ザルクが公爵となるまでは、ない。しかし、逆にそれがもどかしくも感じる。

 時がたてば、決意が鈍りそうな気もしなくもない。

 イリスはクアーナでゼクスと話した夜を思い出す

『君は、汚れていない。魔人が勝手に、君を選んだだけだ』

 あの言葉が、どれほど自分を救ったのであろう。

 思えば。あの時、既に、ゼクスに心惹かれてしまっていたのだ。

 日暮れとともに冷えていく風に包まれる身体を自分で抱きしめながら、ゼクスの温もりを思い出す。

『俺が君を守りたい』

 その言葉は、この上もなく嬉しかった。

 でも。

「私も、あなたを守りたい――」

 これは、『逃げ』であろうか。

 他には何もいらないというゼクスは、イリスとともに生きることで将来おとずれるであろう悲劇さえ、受け入れるつもりだったのに違いない。しかし、自分はその手をとらなかった。

 ゼクスのため、というよりは、ゼクスを必要としている人間が、自分一人ではないことを知りすぎているせいもある。

「クアーナに帰ったほうがよさそうね」

 イリスはひとり呟いて立ち上がる。

 ここにいてはだめだ、と思う。

 その手の温もりを覚えている間は、ゼクスに会わないほうがいい。

 会えば、また迷う。胸が騒ぐ――結論は、変わらないけれど。

 イリスは荷をまとめはじめた。

『人生を謳歌せよ』

 アルカイドはそう言った。

 魅かれる気持ちに蓋をすることは、楽しむこととは違うかもしれない。でも――イリスは自分の選択を間違っているとは思わなかった。



 城の廊下に、明かりが灯され、床に濃淡の影をうつしていた。

 ウエルデン公爵が亡くなって以来、落ち着きのなかった城も、それなりに平穏を取り戻しつつある。

 レキナールとともに、ゼクスはレキナールの執務室へと向かった。

 オリビアは、今、ルパート共にそこにいるらしい。

 封魔隊の副長であるレキナールの執務室のある区画は、封印の間からほど近い位置にあって、比較的、皇族たちの移住区に近く、人の出入りは少ない方だ。

 扉を開けると、肩掛けを羽織ったままオリビアはソファの片隅に座っていた。

 その傍らに立つルパートは、不機嫌そうに外を眺めており、お世辞にも会話が弾んでいたとは言い難い雰囲気だ。

 灯された灯りによって、影は一層濃くなっている。

「お待たせいたしました」

 そう言って、レキナールは頭を下げ、ゼクスを先に部屋に通した。

 顔を上げたオリビアは、目の下にクマがあり、瞳もややおちくぼんでいた。艶やかだった肌も、荒れ気味だ。

「どうした?」

「ウエルデン公邸に『門』が開くと言い張っている」

 ルパートはそう言って、ふうっとため息をついた。

「事実よ! 私、兄に見殺しにされるの」

 キッとルパートを睨みつけながら、オリビアが叫ぶ。

「見殺し?」

 オリビアはゆっくりと頷いた。

「兄は、父を嫌うように、私を嫌っていましたわ。だから……」

「ちょっと、待ってくれ。門が開くのと、ザルク公子の話とどうつながっているか説明してくれ」

 ゼクスは、オリビアを制するように口をはさむ。

「レキナールさまは何も話してくださってないのね」

 オリビアは、ふうっとため息をついた。どうやら、ゼクスには既に話が通じているものと思っていたようだ。

「最近、公邸にいると、肌がざらつくのです。それで、ふと思い立ち、封魔士に相談しようとしたら、屋敷に詰めていた封魔士は全員、父の遺体とともに、ウエルデン公国へとすべて旅立ったと」

「全員?」

 公邸には、まだザルクとオリビアがいるというのに、不用心といえば不用心だ。

 もっとも、各公国の公邸に封魔士がいるか、と言われれば、帝都においての封魔は帝国の管轄になるから、封魔士が必要かといえば、いらない。それに、そもそも、公爵の血筋はすべて封魔の技を身につけているのが当たり前なのだ。警護というなら、どちらかといえば、剣のたつ武官がいたほうが良い。

「それで、私、魔磁針をつかってみました。どうやら、門が開いているみたいで。たいていはすぐ閉じます。でも……それって、父のときと同じなのではないでしょうか」

 オリビアの唇が初めて震えた。

「それに、気が付いたら……私、怖くて」

 すがるような目で、ゼクスを見る。

「ザルク公子に相談は?」

「出来るわけありません!」

 オリビアは、癇癪を起したように叫んだ。

「何故?」

 オリビアは、悔しそうに唇を噛む。

「封魔士を公国へ帰した理由を聞いた時、帝都にいる限り必要ないと言いました。たとえ、妖魔が現れたとしても、公爵家たるもの、自力で何とかするべきだと」

「……まあ、そうだな。うちも、封魔士は帝都に置かないね」

 ルパートが横から口をはさむと、オリビアはムッとしたように口をとがらせた。

「しかし、『門』が開くのは、普通じゃない。原因を探るためにも、ザルク公子に相談すべきでは?」

 ゼクスがそういうと、オリビアはさらに不服そうな顔になった。

「それができないから、殿下にご相談にあがったのです! どうして、わかって下さらないの!」

「このとおり、公女さまは、ろくにモノを話してくれん。事態の深刻さをわかっちゃいなくて、レキナールと二人で手を焼いていた」

 ルパートがお手上げ、という仕草でそう言った。

「オリビア公女、君は、帝都内で門が開くというのは、本来、俺に個人的に相談ってレベルではなく、封魔隊に調査要請すべき出来事だということは、理解しているか?」

 ゼクスは大きくため息をついた。

「場所が公爵の公邸内ということでは、封魔隊も無条件では立ち入れない。明らかに『穴』が開いているという確証があれば、別だが」

「ゼクス殿下は、封魔隊を仕切っておられるではありませんか」

 オリビアは不服そうだ。

「それにしても。公爵の許可なしで、調査隊は入れない。この場合、次期、公爵であるザルク公子の許可だな」

 ルパートが横から口をはさむ。

「私は、公女よ!」

 オリビアは叫ぶ。

「……落ち着いてください。ザルク公子に、ご相談できない理由はどこにあるのですか?」

 レキナールが静かに割って入った。

 オリビアは不服そうな顔をしながらも、気を取り直したように話し始めた。

「兄は、服喪中を理由に、私を社交界から引っ込めようとしました。そして、ウエルデンへ帰るようにと」

「それは……ウエルデン公の葬儀もあるから、当たり前なのでは?」

 呆れたルパートのほうをオリビアは睨みつける。

「よせ、ルパート。話が進まん」

 ゼクスに言われ、ルパートは肩をすくめて黙り込んだ。

「なんにしろ、兄は、逆らった私を蔑むような目で見るようになりました。兄は、私と目を合わせません」

 幼稚、といえば幼稚な理由だ。

「しかし、門が開くとなれば、重要事項だろう? 兄妹の関係が悪かろうが、話すべき事項は、話すべきだ」

「だって、門が開いているのは、私の部屋か、兄の部屋なのですよ?」

 オリビアは、そういって唇を噛む。

「兄が知らないわけがないのです」

「知っていて、放置をしていると?」

 ゼクスの問いに、オリビアは頷く。

 つまり、オリビアの話をまとめると、公邸に開く門について、ザルクは知っていて、放置している。まして、そのような状況にもかかわらず、封魔士を公国に帰してしまっていて、封魔経験のないオリビアを守る気はまったくないらしい。

「ひとつ聞きたいのだが」

 ゼクスは大きく息を吸った。

「ザルク公子が、クアーナのイリス公女に婚姻を申し込んだのは知っているか?」

「……ええ。大使から聞いているわ」

「では、ザルク公子に、身分違いの恋人がいるということは?」

「え?」

 オリビアはびっくりしたように目を見開いた。

「知りません。こちらに来てから、そんなそぶりは全くありませんから。いるとしたら、公国のほうじゃないでしょうか。でも、兄が、父に隠れて恋人を作っていたなんて、それだけで驚きます」

 ゼクスは、嫌な感じが胸に広がるのを意識した。

「正直、俺はザルク公子とは親しくない。だから、核心はないが」

 オリビアの顔を見ながらゼクスは問う。

「以前の印象では、ザルクというのは、愛人を囲ったうえで、『飾りの妻』を持てるような器用な男には思えなかったが、妹の君から見て、どう思う?」

 オリビアは首を傾げた。

「長年、兄とは離れて暮らしておりましたので、よくわかりません。ただ、そんな器用な真似が出来たのであれば、サリーナ様の縁談、父が存命のうちにお断り出来たと思いますし、逆に、飾りなら、サリーナ様でも充分なのではないでしょうか」

父親が死んで、葬儀の準備をしながら、ザルクが真っ先にした仕事は、サリーナとの婚約破棄である。

 もちろん、プライドの高いサリーナは飾りであることを良しとはしないだろう。逆に、イリスは飾りであることをこそ望む立場だ。

 皇族とのつながり強化より、公国間の関係修復のほうが大切だと思えば、この選択は政治的にも間違ってはいない。

「……話はわかった。ザルクに話をしよう。ところで、君は、ここまでどうやってきた?」

「ウエルデン大使と一緒に馬車で堂々とだよ。どっかの公女みたいに、単騎でふらりと来たりはしない」

 ルパートが口をはさむ。

「本人は、公子に内緒で来たつもりだろうが、まあ、おそらく筒抜けだな」

「な、なにを」

 オリビアが何かを言おうとするのを、ゼクスは目で制した。

「とりあえず、封魔隊で君の身柄を預かることにしよう」

「ゼクス、封魔隊って……」

「レキ、ルゼを呼べ。それから、ウエルデン大使もここへ。俺は用意が出来次第、ウエルデン公邸にでかける」

「おい、この公女様を信じるにしたって、今からかよ?」

「信じるならなおのこそだ。杞憂であればいいと思っている」

 ルパートにそう答えて。ゼクスは、窓の外に目をやる。

 夜の帳はすっかり落ちて、外は闇に閉ざされていた。



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