告白
――私は、どうしたらいいのかしら。
兄、ラキサスに縁談があった報告をしたためながら、イリスは窓の外を眺めた。
クアーナ公国としては、ウエルデン公国と関係回復は望ましいことだ。
ふたつの国の関係が回復すれば、ウエルデン側も国境近くの封魔に力を入れるであろうし、そうなれば、クアーナ側の負担も減る。現状、ウエルデンとクアーナの国境付近の封魔は、クアーナが一方的に背負わされている形なのだ。
いずれ帝国から去るにしろ、当初の予定のような『駆け落ち』的なおとぎ話より、隣国に嫁ぐというプロセスを得てから姿を消す方が、クアーナの民は納得できるようにも思える。
ふたつの公国の関係修復は、いずれ皇帝になるであろう、ゼクスのためにもなろう。
「イリス様、あの、その……」
ジムサが慌てたようすで、扉の向こうから声をかけてきた。
「どうしたの?」
あまりに様子がおかしいので、イリスはペンを机の上にそっと置くと、自ら扉を開けた。
ジムサは肩で息をしていながら、明らかに動揺しているようすで、口をパクパクさせている。
「殿下が! ゼクス殿下が、お見えになりました!」
「え?」
イリスは耳を疑った。
「ゼクス様が、ここに? レキナールさまと?」
「いえ。お、おひとりでございます。応接室にお通ししております」
ジムサが動揺するのも無理はない。
皇太子であるゼクスが自ら、クアーナの公邸に、しかも一人で来るなんて、あり得ない話だ。
イリスは大慌てで、応接室へと向かった。
「ゼクス様、お待たせいたしました」
慌てて扉を開けると、ゼクスは所在なさげに、ソファに腰かけていた。
身につけている服装は、封魔士のもので、常につけている皇家の印はない。顔を知らないものならば、帝都の封魔士だと思うかもしれない……という程度で、本人であることを隠そうとはしていない、あまりにも無防備な姿での来訪だ。
「ご用とあれば、こちらから出向きましたのに」
イリスは、そう言って頭を下げる。
「たいした用事じゃない。話がしたかっただけだ」
ゼクスの言葉に、イリスの胸がドキリと音を立てた。
「城に君を呼び出すと、周りの目もある」
それはそうかもしれないが、ひとりで公邸に来たことが知られたら、その方がゼクスにとってまずいことになるのではないか、と思ったりもする。
『花嫁を手元に置かれるなら、世間に申し上げなければならないことがある』
イリスは、先日のザルクの言葉を思い出す。
万が一に出も、イリスが皇太子妃になどという話が持ち上がった場合、ザルクはイリスの秘密をおおやけにするかもしれない。そうなれば、クアーナ公国はもちろんだが、ゼクス本人にも傷がつく。それは、是が非でも避けなければならない。
「ザルクが君に縁談を持ちかけたと聞いた」
イリスが向かい合わせに座ると、ゼクスはまっすぐにイリスを見ながら、口を開いた。
「君がどうしたいか、知りたい」
「……どうしたいと言われましても」
イリスは思わず目を伏せた。
「兄、ラキサスに相談して決めるつもりです。私の一存で決められるものではありませんし」
「それは政治的な意味の話だろう。俺が聞きたいのは君の気持ちだ」
ゼクスの黒い瞳がまっすぐにイリスを捕えている。胸が、痛い。
「……良いお話だとは思います。私にとっても、クアーナにとっても……そして帝国にとっても」
視線を膝の上におとして、イリスは口を開いた。
そう。悪い話ではない。ゼクスのためにも。心の中で呟く。
「……ザルク公子をどう思う?」
「え?」
ゼクスの問いに、イリスは思わず顔を上げた。
「仮にも、嫁ぐのだ……そんなに、驚く質問でもないだろう?」
「そ、そうですね。はい」
そのことをすっ飛ばして考えていた自分に、イリスは苦笑した。
仮にも『夫』になる人物について、何も考えていなかった。『夫』にしてはならない人物ばかりが頭に浮かんでいたなんて、おかしな話だ。
「……随分と豪胆な賭けをなさるお方だな、とは思います」
「賭け?」
「そうです。いくら形だけとはいえ、私の夫となることは危険です。愛した人と結ばれたいのであれば、もっと安全な方法はあるはずです」
そもそも相手が封魔士ならば、いくらでも方法はある。そうでない場合は、若干面倒にはなるが、養子縁組によって、身分を釣り合わせれば、絶対に不可能ということはないのだ。
イリスは手を伸ばして茶器を傾け、カップにラパ茶を注いだ。甘い香りが湯気と共に立ちのぼる。
「それに。ずいぶんとウエルデン公の死を恥じていらっしゃるようでしたけれど、今回のことでかえって、ウエルデンではザルク公子の能力の高さが評価されたという話も聞きます。私の名前なんてなくても、ウエルデンの民は、ザルク公子を新しい有能な公爵として祝福する様に思えます」
言いながら、イリスはカップをゼクスの前にそっと差し出した。
「ひとつだけ、私に手を差し伸べてくださる理由を思いつくとしたら、大侵攻以来、冷え切ってしまったウエルデン公国とクアーナ公国の仲を改善したいということでしょうか」
ふたつのとなりあう公国は、商人たちの行き来すら、少なくなってしまった。
「全体として。私にとっては、良いお話ですが……ザルク公子にとってのメリットは、それ程はないように思えます」
それだけ言うと、イリスは大きく息をつく。考えれば考えるほど、ザルクの意図は読めない。
「……鋭い考察だが、俺は、好きか、嫌いかという単純な話を聞きたいのだ」
「え?」
ゼクスの瞳に見つめられ、イリスの身体は縛られたように固まった。
「私は……」
胸が締め付けられるように苦しい。唇が震えた。
自分がザルクをどう思っていたとしても、ゼクスには関係ないではないか、と思う。
「嫌いではありません……」
ようやく、その言葉を口にする。だから、嫁ぎますといえば、終わる話であろうに、イリスはどうしてもその言葉が口に出せない。
イリスは視線を落とし、大きく息を吐いて呼吸を整えた。
「少なくとも、私の秘密を長年、黙して守って下さいました。クアーナにとっては、恩人です」
ザルクがひとこと真実を口にすれば、兄ラキサスは、イリスを追放しなくてはならなかった。そうなれば、イリスを英雄として崇拝しているクアーナの民に絶望を与えたに違いない。
「男としては」
「やめてください」
なおも鋭く問うゼクスをイリスは制した。
「むしろ、私の気持ちがないほうが、好都合ではないかと」
イリスはカップの中でゆらゆらと揺らめくお茶をみつめる。心が揺れる。
ザルクに好感を持てば、そのぶんだけ魔人に殺される確率が高くなる。他の女性を愛する姿を見れば、辛くもなる。
「頭ではわかっている」
ゼクスは、大きく息をついた。
「わかっているが……君がザルクの隣に妻として立つのが、どうしても耐えられない」
ゼクスは立ちあがり、ゆっくりとイリスの隣へと座りなおした。
至近距離から見つめられて、イリスの身体は自分のものでないように固くなった。
「特に……今のザルクは、君を託すには、危うくて」
「危うい?」
ゼクスは小さく頷いた。
「俺は、奴をよく知らない。スワイン公があまりにしつこかったから、同年輩でありながら、ザルクと話す機会は極端に少なかった」
社交界でも、スワインばかりが目立っていた。ザルクは本当に目立たない男だった。
モテすぎるわけでも、モテない訳でもない。人が周りにたくさん集まるわけでもないが、孤独に立っているわけでもない――そんな男であった、と、ゼクスは話す。
「しかし、今のザルクは、まるで人が変わったようだ。父親がいなくなり、気をはっている、というレベルではない気がしている」
イリスは、先日のザルクの冷たい顔を思い出した。
「……それは、そうかもしれません」
大侵攻のあと、クアーナにやってきたザルクは、もっと表情のある男性であった。
イリスの顔の傷を見て、驚きと同情、そして、恐怖さえ感じたようにみえたものの、気丈にイリスを『妻に』と言ったザルクと、先日のザルクは、結びつかない。
それでも。
「好きな女性と添い遂げたいというお話は、昔のザルク公子の面影と重なります」
「俺には……今のあの男に、身分を越えて恋をしている男の情熱を感じられない」
ゼクスは言いながら目を伏せた。
「……むしろ、君に執着しているようにも思える」
「まさか」
イリスを見るザルクの目に感情はなかった。憎しみも、愛情も何もない、『無』である。
「ザルク公子が私をそんな風に見ているようにはとても思えません」
逆に、そんなこだわりが少しでも見えるなら、イリスは迷いなく断ったであろう。
「そうだな。君に執着しているのは、俺の方か」
ゼクスが微かな笑いを口元に浮かべ、そう呟く。
「俺が皇太子でなければ」
「ゼクス様、やめてください」
イリスは、唇を噛み、顔を背けた。それ以上、聞いてしまったら、自分の何かが弾けてしまう。
「イリス」
ゼクスの腕がのびて、イリスの身体はその厚い胸に引き寄せられた。びくんと身体が震える。
温かな体温に抱きしめられて、逆流するような血潮が体内を駆け巡った。
「君が好きだ。俺が君を守りたい。何もいらない。君だけが欲しい」
イリスの頬に暖かいものが伝う。
「……ともに、帝国を出ないか」
囁くようなゼクスの言葉に、イリスの胸にかつてないものが満たされていく。
嬉しかった。
誰かにそばにいてほしかった。自分がずっと我慢していた感情が瞬時に満たされた。
――でも。
イリスは、ゆっくりとゼクスの抱擁から離れた。
涙は心を隠せずに、とめどなく流れる。止められない……けれど。
「私、ゼクス様とは行けません」
はっきりと、自分の心がどこに向いているか自覚してしまった。だからこそ、イリスは選べない。
「……私、ウエルデン公国に嫁ぎます」
「イリス」
「幸せになって下さい。私の分も」
流れる涙を止めることはできないまま、イリスは微笑んだ。
城から見える帝都は黄昏色に染まり始めている。
風は、ひんやりと冷え、肌を刺す。街並みのはるかかなたには、キシ山が黒ずんで見えた。
城のほぼ中央にあるこの塔からは、帝都アリルの街が一望できる。
ゼクスはぼんやりと、山脈に目をやる。山の向こうにある、エリの遺跡。そこで知った事実は何一つ、イリスを救えなかった。
――こうなるとわかっていた気がする。
イリスが、自分の言葉を拒絶する予感はしていた。
それでも、ゼクスは、イリスを守りたかったし、イリスを手にしたいと思った。
もしあの場で、イリスが自分の言葉を受け入れていたら、そのまま彼女をさらうように、全てをなげうって帝都を逃げ出しただろう。褒められた行動ではないにしろ、嘘偽りのない、自分の気持ちであった。
――幸せになって、か。
泣きながらゼクスを拒絶して、微笑みながらザルクに嫁ぐと言ったイリスの姿が、脳裏に焼け付いて離れない。
いつも人生を諦めていたイリス。偽りの結婚は すこしは彼女の癒しになるのだろうか。
「ゼクス様、こちらにおいででしたか」
レキナールが肩で息をしながら、そう言った。
「レキ、か」
相当に急いで階段を昇ってきたのであろう。額に汗も浮いていた。
「オリビア公女が、ゼクス様に至急、ご面会したいとのことです」
「オリビア公女が?」
そんな気分になれない、と言いかけ、レキナールの深刻なまなざしに気が付いた。
「どうした?」
「……ザルク公子のことで、内密にご相談があるそうです。非常に、やつれていらっしゃいます」
レキナールは、そう告げた。
日は、地平に落ちようとしていた。
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