第四章 魔人の花嫁
縁談
妖魔蟲が現れた原因は、おそらく庭園の鏡石ではないかということになった。
門が開いた原因そのものは全くわからない。そもそも『封印石』として魔力付与されていない『鏡石』は、何の力もないはずだ。実際、あのあと、イリスは何度も現場に訪れたものの、傷が痛むこともなかった。
封魔士たちが何度調べても、何の気配もつかめない。
勝手に開いた門が閉じたとはいえ、原因の痕跡が残っていないというのも不思議な話だ。
はっきりとした結論が出ない以上、イリスは早々に帝都を去るつもりでいた。もっとも、まだ謎が解けていない今、イリスの一存で勝手に帰るわけにはいかない。魔術院の人間たちは、イリスの封魔士として知識を買ってくれているし、唐突に調査から離脱しては、不審に思われるであろう。『魔人の花嫁』であるという事実は、クアーナ公国のみならず、ゼクスの名誉のためにも伏せておかねばならない。
そんな折、皇帝から呼び出しを受け、イリスはドキリとした。
ついに帝国からの放逐を言い渡されるのかと覚悟をしたのだが、皇帝ファルタに呼び出されたイリスを待っていたのは、意外な人物であった。
「ザルク公子……」
予想もしていなかった人物を目にして、イリスは息をのむ。
案内された皇帝執務室には、ファルタと、ザルク、イリスだけがいた。
しんと静まり返った部屋は明るい日差しが差し込んでいるにもかかわらず、どこか寒々としていて、重い空気が立ち込めている。
「ウエルデン公子のザルクが、スワイン公の喪が明け次第、そなたを娶りたいらしい」
皇帝の言葉に、イリスは目を丸くする。寝耳に水だ。
思わず、ザルクの方を見るが、その瞳には何の感情もみえなかった。
「兄からは何も聞いておりませんが」
イリスは、慎重に口を開く。ザルクは、イリスの秘密を知っているのに、なぜだ、と思う。
そもそも。通常、皇族や公国の貴族の婚儀は、まず家同志の約束を交わしたのち、皇帝にそれぞれの家が申請し、皇帝が許可をするということになっている。
家同志の約束は、『慣例』であって、法律的には決まってはいないものの、直接皇帝を介して申し込みなど、聞いたことがない。
「……だろうな。ラキサスからは何も聞いてはおらん」
ファルタは嫌味のようにそう言って、ちらりとザルクの方を向いた。
ザルクの表情に動揺どころか、変化はまったくみられない。
「クアーナ公女であるイリス殿は英雄です。醜いという噂ゆえに、敬遠されてはいたものの、先日、噂は払しょくされ、皇太子妃の最有力候補なのはご存知ですよね」
ザルクはふっと口元を歪めた。
「イリス殿の傷が、普通の傷であれば、彼女ほど皇太子妃に相応しい女性がない事は、私も認めます。だが、彼女の傷は普通ではない」
「……知っている。しかし、言葉を返すようだが、皇太子妃だけでなく、公爵妃にもなれぬ」
ファルタの言葉に、ザルクは頷いた。
「もちろん存じ上げております。ですが、私が、イリス殿と『白い結婚』をすると申し上げたなら、どうですか?」
「白い……結婚?」
ザルクの瞳は冷ややかだ。まったく心を感じない事務的な口調。
イリスの背筋がゾクリと冷えた。
「そなたのメリットはどこにある?」
ファルタの目が鋭い光を帯びる。真意の見えないザルクを容赦なく、射るように見た。
「イリス殿は英雄です。公国の民がまず喜びましょう」
ニヤリと、ザルクは笑う。
「私には、身分の釣り合わぬ、愛しい女がおりましてね。イリス殿が妻の座にいてくれると、いろいろと都合が良いのです」
形だけのお飾りとしての妻。愛のない結婚であれば、愛し合うことのない結婚であれば、魔人の影響は受けぬのかもしれないとは思う。
「帝国としても、国の英雄であるイリス殿を、帝国から放逐したくはないでしょう?」
「でも。私の死後……絶対にザルク公子に危険が及ばないという保証はないのですよ?」
愛がなくとも。婚儀という形をとれば、結びつきはできる。実際、アレンティアは、書類上の結びつきすら恐れるようにした形跡があるのだ。
「何も未来永劫、私の妻でいろとは言いませんよ。ゼクス殿下が妻をめとり、しばらくしたら、あなたは『死んだ』ことにして、どこへなりとも旅立てばよい。妻に先立たれた公爵が、愛人を後妻にするなら、身分差は最初ほど厳しいものではなくなります」
ザルクのいうことは、それなりに筋が通っている。
「何より、我が父はあまりにも無様な死にかたをいたしました。我が公爵家の威厳を保つためには、イリス殿の名声が必要かと」
「……策士だな」
ファルタが眉を寄せた。
「それで、皇太子妃には、妹を推すのか?」
「滅相もない」
ザルクは表情一つ変えずに、否定した。
「オリビアは容色を磨くのに必死で、ろくに封魔の修行をしていない。いさめるどころか、それをけしかけた父が悪いのですがね。どう考えても、帝国を背負っていけるだけの器量は持っておりません。皇太子妃に相応しい女性は他にいらっしゃるかと」
「そなたは、スワインとは違うと、言いたいのだな」
ファルタは、鋭い目で無表情なザルクを見てから、視線をイリスに移した。
「……どう思う、イリス」
「わかりません」
イリスは思わず、そう答えた。
「即答、いたしかねます……少し、お時間を下さい」
「これ以上ない、好条件だとは思いますがね」
ザルクの言葉は尤もだ。政治的にも、いままで冷え切っていたクアーナとウエルデンの仲も改善するであろうし、何より、二つの公国を結ぶ縁談というのは、国民も納得するであろう。
愛を交わせないという後ろめたさも、ザルクが他にいとしい女性がいるというのであれば、感じなくても良い。
その女性が形式上の妻の座につけないことを悲しむのでなければ、イリスとしてはこれほどの好条件はないと言っても良い。
それでも。
イリスの脳裏に、ゼクスの顔が浮かぶ。絶対に、手を取ってはならない相手だと頭ではわかっている。
英雄という肩書を守りつつ、公爵妃という地位をイリスが得ることは、帝国にとって悪いことではない。
ならば、なぜ、ゼクス以外の男の妻になるということに、これほどためらいを感じるのか。
妻となっても、肩書だけのものだ。帝国の為になるということは、しいては、ゼクスのためにもなろう。
「兄に相談をしたいのです。申し訳ありません……」
イリスは深く頭を下げた。
「まあ、それは仕方ないでしょう」
ザルクは口の端を緩めたものの、目は相変わらず感情がこもらないまま、そう言った。
「私が公爵になる、その日が来るまでには、お答えをいただきたいものです」
それだけ告げると、ザルクはファルタの許可を受け、部屋を出て行った。
「悪い話ではない……とは、思う」
ザルクの出て行った扉の方に目をやり、ファルタがそう告げる。
「はい」
「まあ、ゼクスは反対するだろう……頭が痛いことだ」
ファルタはそう言って、右手を額にそっとあてながら、首を振った。
イリスはそっと、目を閉じる。拒絶する理由はない。しかし、なぜか躊躇われるのは、自分の覚悟のなさなのだろうか。
その答えは、どうしても見つからなかった。
「ザルク公子がイリス公女と結婚?」
ルパートは、眉をよせた。
ゼクスは、自分の執務机の椅子に座ったまま、頷いた。
部屋に入るのは、ルパートと、レキナール。ゼクスの気のおけない人間だけだ。
柔らかい日差しがさしこみ、テーブルには香り立つラパ茶の湯気が立っている。
「全てを承知で、『白い結婚』をしないかと、持ちかけたそうだ」
白い結婚。つまり、『形式』だけの、身体のつながりのない、清い結婚。
ゼクスもイリスを守るために、一度は考えたことだ。レキナールに反対され、イリスにそれを告げることはなかったが。
「それで、イリス公女は?」
「即答はできかねぬと、言ったらしい」
ゼクスは、ファルタに聞いたことをそのまま伝えた。
イリスは随分と戸惑っていたらしいと、聞いている。
「悪い話ではない」
ルパートはふんと鼻を鳴らした。
「公爵妃なら、皇太子妃より、ボロが出る確率が低い。ありかなしかといえば、あり、だとは思う」
言っている言葉に反して、口調はまったく納得していないようであった。
「ザルクは、オリビアを皇太子妃に推しはしなかったらしい。つまり、現段階では、スワインほど貪欲に権力を望んではいない」
「ザルク公子は、実は、ガーディさまのご息女、サリーナさまとのご縁談があったそうですが、父の死の服喪中なのを理由にお断りになったと聞いております」
レキナールがそっと口をはさんだ。
「……もっとも、ガーディさまのほうも、スワイン公が亡くなってしまって、あまり乗り気ではなかったのでしょう。実にあっさりと破談になったようで」
「サリーナね……。まあ、あのタヌキおやじに、無理やり押し付けられたのだろうが」
ルパートが思わず肩をすくめた。
家格、容姿はともかく、あまり噂は芳しくない女性ではある。
「……服喪を理由に断っておいて、服喪中に縁談を持ちかけるとは」
「俺はあまり、ザルクとは親しくはなかったが……」
ゼクスは、わずかな記憶をたどるように、額に手を当てる。
「非常に真面目で、どちらかといえば、気の弱い男だという印象があった」
「だな。父親の服喪中に結婚を申し込むほど豪胆な奴ではなかったと思う」
ルパートも小さく頷いた。
「ウエルデンに行った時の印象からすると、ザルクは仕事のできる男だったし、イリスの秘密も知っているのだから、このタイミングで、というのは政治的には有効であるから納得できなくもない。しかし……」
ゼクスは、この前の邂逅時にみせたザルクの冷徹な顔を思い出す。
「あれほどまでに、冷たい印象の男ではなかったと思う」
「まあ、それは、そうだな。父親の遺体と対面したとき、あまりに冷やかで、度肝を抜かれた」
スワイン死後のザルクの仕事は非常に有能で葬儀の準備なども混乱ひとつなく、順調に進んでいるらしいが、彼自身、父への侮蔑を全く隠そうともしておらず、周囲は戸惑いを隠せない。
「で、どうするんだ?」
ルパートが、ゼクスに問いかける。
「反対する理由はみつからない。イリスのためには、それがいいのかもしれないとは思う」
ふうっとゼクスは息を吐いた。
「しかし……あの男にイリスを任せるのは、危険な気がする」
「ゼクス様」
「同じ申し出を、レキや、ルパートがしたなら、俺は自分を抑えて納得しようとするだろう。イリスを説得しようとも思う……」
「……残念ながら、俺には無理だ。あんな美女をそばにおいて、手を出せないなんて拷問は受けたくはない」
ゼクスの言葉を茶化すようなルパートの言葉に、苦笑しながらも、その言葉にゼクスは頷く。
白い結婚で守ろうと思ったことがあったにせよ、イリスが拒絶しなければ、ゼクスはとうにイリスをその胸に抱きしめてしまっていたと思う。自分が皇太子でなければ、イリスとともに帝国を出る選択をしている。少なくとも、ゼクスにとっては、イリスはそれだけの価値がある女性だ。
「結婚で、イリスの秘密を守るにはかなりの覚悟が必要だ。いくら形だけとしても、影響が絶対にないとは誰も保証できないのだから。ザルクは、身分違いの女を愛していて、公国の体面を整えるためにイリスが必要だという……」
カップの中で、ラパ茶が波打っている。ゼクスはごくりとそれを飲みほした。
「だが……今のあの男に、身分違いの女の為にそこまでする『情熱』を俺は感じることが出来ない」
たとえ、それがイリスへの感情でないにしろ。
今のザルクに、そんな強い感情があるようには思えない。
「決めるのはイリス様、というようには思われていないようですね」
レキナールがゼクスの顔を見ながらため息をついた。
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