封印の間
封印の間の入り口の扉をゼクスはゆっくりと開く。
持っていたランプをかざすと、封印石が光をぼんやりと反射した。
「特に変わったことはなさそうだな」
レキナールが封印の間の灯りを灯していく。部屋の大きさは、クアーナや、エリアリナのものよりかなり大きい。封印石は、鏡石と輝石で作られており、形状的にはエリアリナのものに近いだろう。
空気はひんやりと冷えて、特に瘴気は感じられない。
「全く異常がないですね」
「宮殿に、妖魔が現れた理由は、ここにはないように見えるな」
二人の会話を聞きながら、イリスは戸口から一歩下がった位置で、部屋を眺める。
本来、城に妖魔が現れたのであれば、封印の間に異常があってしかるべきだ。ほころびなくして、奴らは現れないものである。
「入ってもよろしいでしょうか?」
二人が頷くのを確認して、イリスは呼吸を整えて、足を一歩踏み出した。
ピリリとした封印の魔力の感覚が肌に触れる。まだ、頬の傷は痛まない。
円形に作られた部屋の中央におかれた白金の石の前に、イリスは立った。
細かな輝石を等間隔で埋め込んで描かれた床の陣から力を感じる。
まっすぐに見据えた石が、わずかに曇りはじめた。
ゼクスとレキナールが身構えたのを、イリスは目で制する。
ぼんやりと浮かび上がる銀の瞳。暗い藍色の髪に、青白い肌を、イリスは自分でも驚くほど冷静に見つめた。
――弱い。
常ならば痛むはずの頬の傷は、痛まない。ねぶるような視線も、肌を這うような感覚もない。
イリスは、大きく息を吸いながら、白金の石に右手を伸ばした。
石に映し出されたレザルは、いつになく不鮮明だ。門の開く気配も、封印石に引き込むような力も感じられない。
イリスの指が、おそるおそる石の表面に触れたその時、パチンッと、火花が散り、ぐわんと空間が歪んだ。そして、ぼんやりとしていたレザルの瞳に、イリスの姿が映し出された。
ゾクリ、と肌に冷気が走った。
『イリス』
声とともに石の中に門が開き、手を引こうとしたイリスの手を、目に見えぬ何かがからみ、引っ張った。
「我に流れし聖なる血よ」
身体を持っていかれそうになるのをぐっと踏ん張りながら、イリスは声を張る。
「力よ。魔を退けたまえ」
イリスをからめとっていた目に見えぬ鎖が断ち切られ、レザルの姿がかすんだ。
そして、レザルの姿の向こうに、別の誰かの姿がすけるように重なる。
「え?」
イリスが息をのむより早く、門が急速に閉じて、石の表面は、何事もなかったかのように何も映さなくなった。
エリアリナの時に比べ、あまりにもあっけない。
しんと静まり返った封印の間の空気は、元通りにピリリとした魔力をはらみつつも清浄なものへと戻り、灯された炎がゆらゆらと揺らめくだけだ。
「……どういうことだ?」
ゼクスが呟く。
「帝都の封印が強固だというのは、間違いはないとは思うのですが」
イリスは腰を落とし、足もとから感じる輝石で刻まれている陣に指で触れる。
鏡石の封印石とは明らかに違う、『魔』を拒む陣は、イリスに強い力を与えてくれている。
「それだけでは、ないような気がします」
そもそも、魔人の力が、これほどまでに弱かったことはかつてなかった。
「とりあえず、一度、イリス様は外へ」
レキナールにうながされ、イリスは封印の間を出た。
ゼクスがふたたび、封印を施すのをじっと眺める。
おだやかすぎるほど、静かで、封印に隙一つない。
封印の膝元である宮殿で、『妖魔蟲』が現れた理由がわからないままだ。
「おかしいですね」
封印を終えて、部屋を出た三人は、ゆっくりと階段を昇る。
暗い回廊は、静かで、レキナールの声は思った以上に響いた。
「第一印象でも、封印は、むしろ強まっているかのように感じました」
「ああ。妖魔蟲が出現した理由が、まったくわからん」
帝国内で、妖魔蟲が出現するのは、封印石の置かれている場所から遠い場所、たいていは人里離れた山中である。城というのは、妖魔から人々を守る最後の『砦』なのだ。
そんな場所で、なぜ、妖魔蟲が現れたのか。
「そのことと関連があるのかどうかはわかりませんが……レザルの力が、弱まっているような印象を受けました」
「……エリアリナの時とは、全然違ったな」
「ええ」
イリスは、自分の姿を捉えたレザルの視線を思い出す。
「力が……全然違いました。帝都の封印の強さと言ってしまえば、答えは簡単ですけれど、そうなると妖魔蟲が出現した理由と矛盾します」
「そうだな。それに……」
ゼクスは階段を昇る足を止め、大きく息を吸う。
「門が閉じる瞬間に、レザルの姿が違う誰かに見えた。あれは何だ?」
「わかりませんけど……あのようなことは初めてです」
イリスは首を傾げた。
「……とはいえ、こんなふうに最後まで私が門を閉じられたこと自体が、大侵攻以来、初めてですので参考にはならないかもしれません」
先導するレキナールの足が止まる。
「あの姿……どこかで見たことがあるような気がいたします」
「レキもか……俺もだ」
それが誰かは思い出すことはできないようで、レキナールとゼクスは、回廊を再び昇り始めたのだった。
封印の間から出て、三人は城の長い廊下を歩いていく。
既にパーティの客は帰されたが、騎士と封魔士たちが駆り出されている。夜中に近いというのに、窓から見える庭園には篝火がたかれ、城の内部も厳戒態勢だ。
あわただしさの中、一組の男女がパーティの控室になっていた扉から出てきた。
男は、すぐにゼクスに気が付いたらしく、丁寧に頭を下げた。
ウエルデン公子のザルクだった。相変わらず陰鬱な雰囲気をまとってはいるものの、いつになく凛とした自信に溢れているように見える。
隣に控えているのは妹のオリビアだが、こちらの場合は、いつもの自信に溢れた様子ではなく、突然の父の訃報でぼんやりとしているようだ。
「父上には会われたか?」
ゼクスは、ウエルデン公子のザルクに声をかけた。
ザルクは無言で頷く。
「突然のことで、大変だと思う。原因等はこれからの調査となるが、気を落とさぬように」
「お気遣いはご無用でございます、殿下。妖魔蟲ごときに後れを取る父が悪いのです」
ゼクスのお決まりの悔やみ言葉に、ザルクは酷薄な笑みを返す。
一歩下がった位置に控えている妹のオリビアが、驚愕の表情で顔を上げた。
「もとより、『封魔』の血をひくからこその、血統。それを忘れた公爵など国の恥さらし。父一人の命で済んだのであれば、安いものです」
ザルクの表情は意図が読めなかった。
年が近いとはいえ、ザルクとはそれほど交流があったわけではない。
だが、こんな物言いをする男であったろうか。
陰鬱な印象しかなかった男ではあったが、こんなにも冷たい目をしていただろうか。肉親をここまで侮蔑するような男であったであろうか。
「とはいえ。腐ってものウエルデンの領主ゆえ、丁重に葬儀は行うつもりではおりますゆえ、殿下にもご参列のご足労をねがうことになりましょう」
そういって、ザルクは丁寧に頭を下げ、それからふっと口元を歪めた。
「それにしても、殿下。『魔人の花嫁』をおそばに置くのは、趣味が良いとは言えませんな」
「ザルク公子、違います。私と殿下は」
イリスが慌てたように口を開いた。
「何が違うと? 二人の間に何もないなどと、誰が信じると?」
くすくすと突然、ザルクは笑い出した。どこか自嘲めいた響きがあった。
「本当に何もありません! 殿下は私の境遇に同情してくださっているだけ。変な勘繰りは、殿下に対して失礼でありましょう」
「同情ね……」
ザルクは突然、カツカツと歩みを進め、イリスの頬の傷に手を伸ばした。
「簡単にこの傷から逃げられると思っているわけではなさそうですな」
「何が言いたい?」
思わずイリスとの間に割って入ろうとしたゼクスを、冷やかな目でザルクは見返した。
「わかっておられぬのは、殿下の方のようですな。これ以上、花嫁を手元に置かれるなら、私はウエルデン次期公主として、世間に申し上げなければならないことがありますが、よろしいので?」
「兄上、何をおっしゃっているの?」
皇太子相手に恫喝まがいの口をきくザルクに、オリビアは驚きを隠せず、声を震わせたが、ザルクは意に介したようすはまったくなかった。
「ザルク公子、ご心配には及びません。私、自分の立場はわきまえておりますから」
イリスは、伸ばされた腕を手に取り、ゆっくりとそれを外した。
「今回の妖魔蟲の調査が終われば、私は帝国から出て行きます。殿下がどなたを妃に望まれるかは存じませんが、それは私ではありません」
「それは、上々」
満足げにザルクは笑い、ゼクスに再び礼をして歩き去った。
理解しがたい兄の行動に戸惑いを隠せないオリビアが慌てて後を追う。
「……あのような酷薄な感じのおひとでしたでしょうか?」
後姿を見送りながら、レキナールがぽつりと呟いた。
「まるで、別人のようです」
「……父を失って、動転している、というわけではなさそうだが」
ゼクスは首をひねる。動転しているには、あまりにも冷静で、冷徹すぎた。
「何にいたしましても……私は、早々に国に帰る方がよろしいですね」
イリスの唇がさびしそうに呟いた。
月のない空は暗く、降るように星が瞬いている。
帝都の屋敷にある庭木の葉には、露が降りていた。
手際よく、父の葬儀までの相談を大使と終えると、ザルクは、ひとり庭に降りた。
もともと、政治的雑務については、ザルクがとり行っていたのだから、それほど混乱はないだろう。父がいなくなって困っているのは、ウエルデン公国ではなく、ともに権力を手にしようとしていた輩だけだ。
かつてないほどの解放感がザルクを満たしている。
内政を顧みず、権力闘争にあけくれ、ひっ迫する財政の中、贅沢をやめなかったスワイン・ウエルデンはもういない。
なぜ、自分はあのような俗物に抑圧され、いいように使われていたのであろう。
ザルクを無能だ、愚図だと罵っていたあの男は、もはやウエルデン公国では必要とされていなかったことに気が付いていただろうか。
父の死を知ったウエルデンの大使が、たいした動揺も見せなかったことを知れば、あの世で歯噛みして悔しがるに違いない。
もっと早くこうなれば良かったのだ。
四肢にかつてないほどの、力がみなぎる。
自分を縛るものは、もはや何もない。もう、何も我慢する必要はないのだ。
そう……欲しい女も。
ザルクの口に笑みが浮かぶ。
手に入らぬものなど、この世には存在しないという確信が胸に満ちていた。
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