天人の谷

 朝。

 四人は、天人の谷へと向かうことになった。

 遺跡には、封印石の技術は、なかったようだ。

 古い地図の示す場所に向かう道は、人が通らなくなって久しいため、ほとんど失われていた。

 先頭に立つルパートは方角を確認しながらルートを捜す。地図と、陽の光の示す方角だけを頼りに進むため、思った以上に時間がかかった。

 山は険しく、木々は生い茂っているため、下草は少なかったが、そのぶん昼間だというのにずいぶんと薄暗い。

 鳥のさえずりや、獣の声が時折聞こえてくる。高低差も多く、体力でやや劣るイリスの息は、どうしてもきつくなってしまう。そのたびに、さりげなく歩調を落とすゼクスに、イリスは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「水音?」

 鳥のさえずりの中、規則的な水音が聞こえてきた。

「かなり深い谷になっている」

 先行したルパートが、後ろを振り返ってそういった。

 みれば、唐突に天が開けて、眼下にテラテラと輝く水面がある。谷の向こうは、やはり切り立つ崖になっていて、険しい山肌が見えた。

「ここから降りるのは、不可能だな」

 ルパートが谷底をのぞいて、そう言った。

「しかし、地図は、川沿いのようだ。谷に降りないといけない」

 ゼクスは、そう言って、辺りを見まわした。

「少し、谷沿いに歩いてみよう」

 古い地図を頼りに、四人は谷に添うようにして歩き始めた。

 やがて。しばらく行くと、激しい水音が聞こえてきた。

 どうやら、大きな滝があるらしい。

 地図によれば、『天人の谷』は、その瀑布のすぐ先であろう。

 四人はかなり苦労をしてようやく、滝壺のそばへとたどり着いた。

「すごいですね」

 イリスは、畏怖にうたれたように、滝を見上げた。

 ごーっと降り注ぐ水量、そして、落差も、天人の名にふさわしい。

「あれは?」

 水は、滝壺を過ぎると、なだらかな流れをつくり、さらに下流へと流れていく。

 青くきらめく水面の向こうに、白い天馬が群れをなして水を飲んでいるのが見えた。

「天馬だ」

 そして……。

「ひとがいる」

 天馬のそばに、白い衣をまとったひとが、そこにいた。



 流れるような長い金髪で、透き通るような白い肌。どこか作りものめいた整いすぎた線の細い顔。

 男なのか、女なのか、判別がつけがたい。人の容姿をしているが、人ではありえなかった。

 よく見れば、身体が宙に浮いていて、地に足がついていない。

 イリスは、足元の悪い岩場を走った。

 ゼクスたちの声がしたが、聞こえなかった。

 その者は、ふわりとイリスの方を見て、浮き上がる。

「待って!」

 叫ぶイリスに白くほっそりとした手を伸ばした。

『魔人の印』

 魔傷痕にふれ、そう言った。その声は、音にならず、頭に直接鳴り響いた。

 その声は、女の声としては低く、男としては高かった。

『解放を求めて、やってきたのか、人の子よ』

 抑揚がなく、感情を感じさせない声だった。

 イリスは頷きかけて……そのヒトでないモノの金の瞳に、魔人レザルと同種のモノがあるのを悟り、身体が氷のように固まった。

『違うというのか?』

 その声に、面白げな感情のいろが初めてうかぶ。高い知性を感じさせながらも、人とは明確に違う。

 魔傷痕に触れた指から、痺れるような冷気が流れてくる。全身をマヒさせるような痺れだ。

「イリス!」

 ゼクスが叫びながらイリスに駆け寄り、イリスの腕を引いた。

 その大きな手の感触にイリスは、我に返り、魔傷痕にふれている手を振り払った。

『その印から、解放されるために、我に会うために来たのであろう? 何をためらう?』

 ニヤリ、と、それは笑った。どこか酷薄な笑みだ。

「彼女を解放することができるのですか?」

 ゼクスにもその声は聞こえていたらしい。

『我のものになるならば、魔人から救うてやるぞ?』

「え?」

 イリスは、言われた意味がわからず、そいつを見た。

「どういう意味です?」

 イリスの背筋が、ゾクリとした。美しい金の瞳は、イリスを嘗め回すように見る。

 みられるたびに、肌がざわつく。魔人レザルに対した時と同じ感覚に、イリスは恐怖した。

『我を、天人の影と知って、我を睨むか。命知らずな、人の子よ』

 そいつはくっくっと、笑った。金縛りから解かれたイリスは、いつの間にか、自分とそいつの間にゼクスが割って入っているのに気が付いた。

「ゼクス様、いけません」

 イリスは思わずそう言って、ゼクスの腕を引こうとするが、ゼクスは頑として引かず、そのままの体勢で、そいつを見上げていた。剣の柄に手が伸びている。いつでも、抜ける体勢でいるのがわかる。イリスは慌てた。

「私のことより、封印石のことを教えてください!」

 イリスはゼクスの前に出ようとしながら、叫ぶ。そいつの金色の瞳が透き通るように見開いてイリスの姿を映した。

『まさに甘露だ。そなたたちの生気は』

 そいつは嬉しそうにそう言って笑った。そして、はじめて、柔らかい表情をつくる。

『我らは、人の子の柔らかな感情を食す。魔人は、暗い感情を喰らう』

 まるで深呼吸する様にそいつは胸をひろげた。

『そなたたち、人の子の心の動きは我らの糧となる生気を生む』

「心の、動き?」

 ゼクスは首を傾げた。

『天界と魔界、そしてこの人界は、微妙なバランスで保たれている』

「あなたは、天人ではないのか?」

 ゼクスの問いにそいつは、微笑んだ。

『我は、この界に映した影だ。本来の力の半分もない。我らが、自ら『生気』を集めれば、穴が開く。魔人自ら『生気』を集めると穴が開くように』

「穴? 異界の門のことかしら?」

 イリスの問いに、そいつはニコリと笑った。

『そうだ。ゆえに、妖魔蟲や、影を使って、生気を集める。天人も魔人も、『人の子』が滅びることを良しとはしない』

 影と名乗ったそれは、遅れてやってきたルパートとレキナールにも目を向ける。

『だからこそ、アレンティアに教えた。生気を我ら影や、妖魔蟲が集めずともそれぞれの界へと流す方法を。生気が満たされれば、魔人の介入は減るということを』

 影は、懐かしそうにそう言った。

「生気を流す方法? それが封印石ということか?」

 ゼクスの問いに、影は無言で頷いた。

「では、魔人の花嫁は、どういう意味なのです?」

 レキナールが横から口をはさんだ。

『天人も、魔人も、人の子と比べたら長き年月を生きる。しかし、永遠ではない。天人も魔人も、人の魂と交わり、自らの魂をもう一度、生まれ直す』

「人の魂と交わる?」

 ゼクスの言葉に、影は頷いた。

『ひとの肉体は要らぬ。年齢はいくつでも良い。魂さえあれば』

 そう言ってから、影は苦笑のような顔を浮かべた。そういう表情を浮かべると、作りものめいていた顔に生気が宿ったように見える。

『ゆえに、天人は、選んだものを生前からつなぐことはしない。豊かに生きられるよう、手を貸すことはあるが』

 影の手が、そっとイリスの頬にのびる。

『反対に、魔人は、生前から自らの所有を宣言する。その怯えや恐怖が、彼らにとって甘美な味であるから』

「私の怯えや恐怖……」

 イリスは唇を噛む。では、封印石の前に立つたびに、姿を現していたのは、そのたびにイリスの中で湧き上がる嫌悪や、恐怖をあおるためであったのであろう。

『ゆえに、魔人は、花嫁と縁のあった魂をともに巻きぞえにする。苦痛に歪む魂が、さらなる美食であるゆえに』

 影はそう言って首をすくめた。

『魔人にあらがいたければ、人生を楽しむがよい。それだけで、奴には、苦痛であろう』

「そんな……」

 縁ある魂が巻き添えになると聞いて、人生を謳歌できる人間は少ない。イリスは、目を閉じた。

 魂が魔人のものになる……それを許容し、今、ここで死を選べば、誰の人生の邪魔にもならない。今まで、死を選べなかったのは、自らがクアーナ公国の民の希望だったからだ。もう、その役割は終わりつつある。

『安易な死を選んだ魂は、魔人を満足させられぬ。ゆえにさらなる侵攻を生む原因にもなる』

 イリスの心を読んだように、影はそう告げた。

「どういうこと?」

『満足させられぬ魂では、新たな生を授かることが出来ぬ。むしろ、自らの劣化を招く』

「つまり、早急に別の魂を手に入れようとするということか?」

 ゼクスのことばに、影は頷いた。

『だからこそ、人生を謳歌せよ。もっとも、そうなれば、魔人は『影』を送り込むだろう』

 ニヤリと面白そうに影は笑う。

『それに屈しないというのであれば、手を貸さなくもない』

 影はそう告げると、天馬が高くいなないた。

『我が名は、アルカイド。縁があったら、また会おう』

 影はそう言って、止める暇もなく、ふわりと一頭の天馬にまたがった。

 ばさり、と天馬たちが、羽ばたきを始めると、ざわっと風が巻き起こり、水面が波立つ。

「待って!」

 しかし、引き留めようとするイリスの声は、飛翔をはじめた天馬の羽音にかきけされてしまった。

 天馬は、ぐんぐんと飛翔し、あっというまに青い空へと昇っていく。

 あとに残された四人は、しばらく天を仰ぎ、天馬が見えなくなるまで立ち尽くしていた。


「このあと、どうする?」

 エリの遺跡に戻ってきたルパートは、ゼクスに問う。

 たき火の炎が赤く燃え、パチリと薪がはぜる音がした。

 イリスは、少し離れた位置で横になり先に、休んでいる。鍛えているとはいえ、男三人とは体力の差もあるし、精神的にもかなり疲れたのであろう。

 レキナールが、イリスから教えられたとおりに丁寧にラパ茶をいれ、ゼクスとルパートに差し出した。まだ、イリスの域には達してはいないが、従来のものよりはずっと飲みやすくなった。

「帝都に戻る」

 ゼクスはごくりとラパ茶を飲みほした。

「影の話が本当ならば、封印石は、生気を魔界と天界に流すもの。俺たちの考えていたものとは違う。そして、いくら生気を流していても、『花嫁』を得ようとしている魔人は、当然、穴をあけてやってくる」

 ルパートは、そう言って大きく息を吐いた。

「お前の力不足ではなかった。もともと、俺たち人間が完全に魔を封じることはできないということだ」

「ラザナルの守りの陣に封魔の効果はある。イリスは……輝石に魔を封じる力が多いのではないかと言っていた」

 ゼクスはそう言って、燃える炎を見つめる。

「では鏡石のほうに、生気を流す力があると?」

 レキナールの言葉に、ゼクスは「確信はない」と言い置いて。

「しかし、それなら、封印石の中に門が開く理由にもなる」

 エリアリナの封印の間でおこった出来事の説明がつく。生気を流すということは、門は開いていないにしろ、どこかで魔界と天界につながっているということだ。

「……とりあえず、俺一人では判断がつかない。帝都で陛下に相談が必要だ」

 ゼクスがそういうと、ルパートはふいっと、イリスの方に視線を向けた。

「彼女はどうする?」

「連れていく」

 レキナールが無言で、ゼクスに抗議めいた視線を向ける。

「謎はまだ、解けていない」

「……お言葉ですが、帝都は彼女にとって必ずしも、優しくはないと思います」

 クアーナの公女、イリスの評判は『ふためとみられぬ醜女』。真実はどうであれ、頬に傷を負った彼女が、奇異の目で見られるのは間違いない。

「わかっている。だが……クアーナに帰したら……イリスは」

 ゼクスはそう言って、口を閉ざした。死を選ぶことはないであろうが、クアーナに戻れば、また封魔士としてひとりで戦い続けるに違いない。

「……気持ちはわかるが、お前は、皇太子だからな」

 念を押すようにそう告げるルパートに、ゼクスは無言で肩をすくめた。

「約束の期限は切れていませんが……自重はしてくださいよ」

 レキナールが諦めたようにそう呟く。

 炎の向こうに、疲れ果てて眠り続けるイリスの姿があった。

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