第5話 シン・フェルナス

「お待ちしておりました。ハイタニコウキ様、アスカ様」


 天井全てが強化ガラスで覆われた広く、薄暗い部屋が、扉の奥に現れた。敷き詰められた毛足の長い蒼い絨毯の先、部屋の中心には巨大な円卓が据えられていて、声の主はその脇に立っていた。燕尾服を身に纏い、黒い蝶ネクタイを締めた白髪の紳士。だが、その燕尾服の内側の白いシャツは赤黒い染みが付着している。首には包帯が巻かれ、同じく額も白い帯が包んでいた。そのどちらも、シャツに付いた染みと同じ色の斑点が見てとれた。あれは、自身の身体から流れ出ているものだ、と光輝はすぐに判断した。その染みが、『強化ブーステッド』特有の、オイルが混じり混んだ血であることは、見た瞬間に理解している。


「コウ兄、あれ……」


 光輝の背後で、アスカが何かを見つけた時の声を出す。アスカに促されて、光輝も部屋全体に注意を向けた。


「……ネスタ」


 血塗れの紳士とは円卓を挟んで反対側の足元。そこに遺体が転がっていた。その身から流れ出た『強化』特有の赤黒い液体に身を浸し、痙攣ひとつしない身体は、『強化』としては訪れること自体稀なはずの死が、その個体に訪れていることを伝えていた。僅かに垣間見得る顔には、見覚えがある。シルヴィオ・ネスタ。『七同盟』のひとりであり、世界最高の暗殺者である男の亡骸であった。


「久しいな、ハイタニコウキ」


 声の調子は暗い。しかし低くはなく、よく通る。その声帯を持つものの、意思の強さのようなものを感じる声音で名前を呼ばれ、光輝は背筋に冷たいものが走る感覚を味わった。、と考え、当然のことだと理解した光輝は、恐る恐るネスタに向けていた顔を上げ、声の主を見た。


「……なんで……」


 背後でアスカが掠れた声を吐き出した。同時に驚き、身を震わせる気配が伝わる。この目で見ずともわかるほどの動揺が、アスカを身体の内奥から揺さぶっている。


「……そうだな、シン。十五年ぶりだ」

「コウ兄!」


 アスカが叫び声を上げる。そうしなければ居られないから出した大声。正気を保つための、悲痛な抵抗が、光輝の鼓膜を突き刺す。

 声の主、シン・フェルナスは円卓の向こう、幾段か高くなった床の上で、窓辺に立ってこちらに背を向けていた。背中は腰まである銀色の髪で覆われ、やや細すぎる、すらりとした長身をが包んでいる。肩越しに振り返った端正な、どこか憂いを湛えた表情をした顔は、確かに久しぶりに見た顔だった。


「あれが、シン? シン・フェルナス? 何を言ってるの? だってあれは……」

「……そういうことだ」


 アスカに答えながら、光輝は蒼い絨毯を踏み締めて前に出た。長い毛足が足音を消す。トヤマが恭しく腰を折り、光輝に道を開けた。


、シン」

「十五年もあればな。快適なものだ」

「それでいよいよ事を進める気になった、と」

「そんなところだ。それにその子もいる」


 やはりそうか、と光輝は奥歯を噛み締める。つまりアスカがこの魔都に〝ネクスト〟として現れた事が、シンの望む混沌を生んだのだ。いや、もしくはその〝ネクスト〟になる道程さえも、この男の画策かもしれない。意図的にプロフェッサー・グレイたちの情報を操作し、裏から手を回して、グレイたちが活動しやすくした可能性すらある。


「……どういうこと、どういうことなの、ねえ、コウ兄!?」

「……十五年前、あの〝戦争〟の最中」


 光輝はアスカの方は見ず、徐に腰のホルスターからデザートイーグル〝テンペスト〟を抜いた。その音に反応したのか、シンがゆっくりと振り向いた。


「『七同盟』と呼ばれる犯罪組織の長たちは、自分たちがこの自由貿易都市トーキョーを支配し、思いのままに動かすための、最後の障壁となった反『強化』組織を、共闘して排除しようとした。その内容は『強化』の支配によって行き場を失くした子どもたちが主だったメンバーの、反抗組織と呼ぶには、あまりにも頼りないものだったが、旧政府の指導者たちが名を連ねる組織であるため、軽視することはできなかった。それに、おれたちがいた。おれたち〝ネクスト〟が」


 シンの銀髪が揺れ、振り返った右手には長い剣が現れている。片刃の剣……アスカの得物と同じ、高周波ブレードの刃を持つ、刀だ。


「それがあの〝戦争〟の最中での『七同盟』の長たちに共通した考え方だった。排除すべき存在を排除して、この都市を手に入れる。そう考えていたはずだ。


 完全に向き合うと、シンの左手にも刃が現れた。現れたように見えたが、実際にそうなのだろう。


「……この男だけは、シンだけは、違った。シンだけは、もうひとつ、別の目的のために動いていた。『crus.クルス』を排除し、〝ネクスト〟を排除し……そして、自分が〝ネクスト〟となる」

「じゃあ、あれは……」


 光輝はあの日の光景を思い出す。十五年の間、光輝を苛んだ光景だったが、いま脳裏に描く絵は、これまで思い出したどの映像よりも強く現れた。

 絶叫。

 銃声。

 硝子が割れる音。

 血と脳漿が混じりあった、体液としか呼ぶことのできない液体が、割れた大窓の向こうへと帯を引く。

 風を受けて揺れる。そのコートも、大窓の向こうへと消えていく。

 耶麻人の身体が、ゆっくりと落ちていく。


「あれは、耶麻人の肉体だ。……中身は違うが」

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