第6話 全てが次へ進む

「……ネスタか」


 男の首は、血の色に汚れていた。だがそれは男の血ではない。つい先ほど、この武器で命を絶った、執事の血である。

 自身が最も得意とする暗器、指と指の間から伸びた血の滴る細い糸のような鋼鉄製ワイヤーを相手の首に巻き付けたシルヴィオ・ネスタは、しかし、相手のその超越者然とした言葉に肝を冷やした。


「……トヤマは、死んだか。彼は、いい執事だったのだが」

「……そのトヤマを使って」


 ネスタはワイヤーを伸ばした右手とは反対の左手で、手挟んだ細葉巻を燻らせた。その時には、冷えた臓腑は熱を取り戻している。数多くの死地を、数多くの煉獄れんごくを、ネスタは歩いてきた。相手が絶対的強者であっても、自我を失わないだけの冷静さは持ち得ている。


「同盟を潰したのは、お前だな」


 この物言いは、正確ではないだろう。だが、ネスタは敢えてそう言った。そうでなければ、いま、眼下に広がるトーキョーの街で起こっている混乱は、もっと早期に治められたはずなのだ。

 相手の背後には、夜のトーキョーの、明るすぎる街が広がっていた。夜の来ない街。その中心にあって唯一、宵闇を湛えた天上の室内で、ネスタはもう一度、細葉巻を吸った。

 

「……犯人が元『crus.クルス』であろうがなかろうが、〝ネクスト〟であろうがなかろうが、いまのトーキョーで『七同盟』を暗殺するなどという行為は不可能だ」


 この指先に後僅か、力を入れるだけでいい。それだけで、相手の首からは正真正銘、この男の血が吹き出し、千切れて落ちる。血とオイルが綯交ないまぜになった液体を撒き散らして死ぬ。それは間違いないことだ。何千、何万という暗殺を成功させてきた、伝説的な暗殺者であるネスタの経験が、そう告げていた。


「もし、可能だと仮定したとしても、それはデューイだけだろう。ロベルトは部下に優秀な強襲型個体を多数有していた。ラジーに至っては、本人が強襲型だ」


 だが、ネスタのもっと深い部分……本能が、絶対の結果を是としない。それがなぜなのかは、当然、相手がこの男だからだ。

 この天上の一室に置かれた円卓を囲む『七同盟』に上下関係は存在しない。ただ全員が、意識的にも無意識的にも、一人の男を盟主と仰いでいた。それが、この男。


「誰かが手引きした。あの三人目の〝ネクスト〟が動きやすいように。これだけの騒ぎになってなお、指示や指定をしても、『七同盟』の組織の誰からも、それが何らかの策略だと思われないのは、この街で一人だけだ」

「……今夜はよく喋るな、ネスタ」


 白いコートを肩からかけた男は、首に暗器の鋼線を巻き付けたまま、ネスタの方を向いた。鋼線が首に食い込み、表面の皮膚を薄く裂く。鋼線を伝っていた執事の血に男の血が交ざり、さらに男の皮下潤滑油と一緒になって、どす黒く変色しつつ流れ落ちた。


「暗殺者を廃業にして、探偵でも始めるつもりか?」

「……お前がどういうつもりで『七同盟』を潰そうとしたのかは知らん。だが、考えはしなかったのか、シン」


 シン・フェルナスが横顔で問い、その横顔にネスタは問いを返した。シンの表情は変わらない。


「ミネルヴァとカラエフが死んだ。これで『七同盟』はおれとお前、二人だけだ」


 もしシンが十五年という時間を置いて、このトーキョーを自身の組織のみで支配しようと考えたのであれば、他の同盟連中を殺害させるように仕向けたことには納得が行く。だが、それはシンが、の話である。あの頃のシンは、野心に満ちていた。あらゆる策謀を駆使し、時に強襲形式『強化ブーステッド』の自らの実力までも行使して、欲するものをその手に納めていた。だからこそ、この男は魔都の全てを手にしたのだ。

 しかしいまの、この超越者の雰囲気を身に纏うシンに、そんな野心がまだ存在しているとは、ネスタにはどうしても思えなかった。あの〝戦争〟以降、この男は変わった。それは魔都トーキョーを得て、世界の全てを得たからなのか、とにかくシンの考えは誰にもわからなくなった。超越者は常にどこか遠くを見ていて、それが何なのかは、他の『七同盟』の誰にもわからなかった。この推理に間違いはない。ただ、それを立証するには、シン本人の動機が、あまりにも不十分だった。


「もちろん、考えた」

「……では」


 だが、それは捨て置ける。ネスタはここへ、わざわざ自身の推理を披露しに来るような、探偵などという種類のくだらない存在ではない。シンにいま、あるかはわからない野心だが、少なくともネスタにはある。世界の犯罪の中心都市であるこのトーキョーを手中の納めることは、即ち世界を手に入れることと同じだ。


「おれかお前、どちらかだということも、考えたわけだな?」


 ネスタがそう口にしたのと、シンが笑ったのは、ほぼ同時だった。口角が異様とも思えるほど持ち上がり、口が裂けたような不気味な笑みを見せた時、シンの輪郭が曖昧に揺れた。

 ネスタは右手の指先に力を込めた。コンマ以下の速さで伝播した力の信号が、シンの首に巻き付いていた鋼線を引き絞ったが、特有の肉を裂く感触は返らなかった。

 ネスタはその場を退く。刹那遅ければ、ネスタは上半身と下半身を分かたれていただろう。殺意すら遅れて届く攻撃。跳躍しながら見た床には、白いコートを床に落としながら、その場にしゃがみこむことで鋼線の輪を潜り抜けたシンが、その右手から伸ばした刃で、ネスタのいた場所を切り裂いていた。

 ネスタは鋼線を引き付けたが、その長さは半分以下になっていた。見ればシンの左手にも刃があり、その手は首筋に添えられていた。左手の刃を首と鋼線の間に滑り込ませ、輪を広げていたのだ。

 シンの両手の刃がどこから出現したのかを、ネスタは観察する。見れば右手の刃は長く、左手はその半分に満たない長さだ。その刃にはどちらも握り込むための柄がなく、直接腕の中から伸びていた。


「……暗器か」


 ネスタは自身と同じく、肉体の中に忍ばれた武器を理解しながら、自分の暗器を展開した。途中から斬られた分のワイヤーを伸ばして、横にひと薙ぎする。それだけで、室内の壁に設えられた棚や調度品が破壊され、破片と粉塵が舞った。


「残念だ、ネスタ。お前は暗殺者のわりに、野心的でありすぎた。わたしの手駒であれば、殺そうとは思わなかったが」

「……なぜだ?」


 ワイヤーを展開し、ネスタが突進する。進行方向にあるもの、半径1メートル以内の全てが、ワイヤーに切り裂かれて原形を失う。その先にはシンがいたが、シンはやはり、顔色ひとつ変えなかった。


「なぜ、いまさらなんだ、シン」


 シンは応えない。代わりのように振り上げた両の刃で、ネスタの鋼線を弾いてみせる。声こそ上げなかったが、ネスタはその行為に驚愕する。暗器として長年愛用している鋼鉄製のワイヤーは、その細さから見た目ではわからないが、ダイヤモンドコーティングが施された、非常に強固なものだ。触れるものは全て切り裂く、と言っても決して大袈裟ではない鋭さを持つ。シンはその鋼線を、まるでただの紐のように弾いて見せたのだ。

 驚きはしても逡巡しゅんじゅんはなく、ネスタの身体は次の動きに移っている。弾かれた鋼線を引き寄せて、手首を返すと、鋼線はまるで生き物のように蠢いて、シンの背後に回り込んで飛び掛かる。しかし、シンはこれを背中に回した右手の長刀で弾く。さらに左手の刃を前に構え、ネスタの懐に飛び込んで来る。ネスタは振り上げた右脚の膝で打ち払って、再び距離を置いた。


「……わたしにとっては、いまさらなどではない」


 シンが両の刃を下に向けて腰を落とした。ネスタは鋼線の長さを調節し、シンと自分の間に展開させたが、その時点で身体の別の部位も動かしている。暗殺に失敗した時点で、勝ちは薄い。ネスタはシン・フェルナスという最強の『強化』と自身の力の差を、他人事のように正確に理解していた。そしてその薄い勝ち目をどうやって自分に引き付けるかを考えた、判断し、理解した。『強化』最高の暗殺者であるネスタの強さは、『潜伏ステルス』と呼ばれる、姿も、気配すらも完全に消し去ることのできる能力と、自身の命すらも他人事のように達観して見ることのできる、絶対的鳥瞰視点にあった。

 切り札を、切る。


「これからだ、ネスタ。いまさら、ではない!」


 シンの姿が消える。その刹那前、ネスタは全身のあらゆる部位に意思を通す。脳を発した電気信号が、ネスタの全身に装着された『内装兵器インプラント・ウェポン』に起動を促した。腕、脚、肩、背中。首から下の全てに仕込まれた鋼鉄製のワイヤー暗器が同時に起動し、ネスタの正面に殺到する。ある鋼線は壁となり、ある鋼線は振り下ろす刃となり、シンの動きを捉えようと蛇のようにうねり、飛んだ。生身の『非強化アンブーステッド』にはもちろん、戦闘特化型の『強化』ですら、回避困難な無数の線状攻撃は、確実にシンの進路上に溢れ、道を絶った。だが……


「……始まるのだ、これから。『強化』が作り上げた歴史すら、過去になる」


 シンの速さは、ネスタの切り札が展開される速度を越えていた。刹那の間に張り巡らされるワイヤーの速度を越えることは、『強化』であっても不可能だ。

 しかし、とネスタは考えた。わかっていたようにも思う。自身の背中までも貫いたシンの右手の長刀に視線を落としながら、ネスタは左手の指先に手挟んだままだった細葉巻を口に運んだ。

 。だからこそ、ネスタは暗殺を狙ったのだ。

 紫煙が肺を一周して口から出ていく。その時には、ネスタを貫き、脊髄を破壊した右手の一刀により胸から上が、左手の短い刃によって首が、それぞれに切り放されて宙に舞っていた。細葉巻の味を堪能しながら、ネスタは自身の死すらも、達観した視点で見つめていた。


「全てがネクストへ進む」


 ネスタが最期に聞いた言葉を口にしたシンは、口角が異常なほどに持ち上がった、不気味な笑みで笑っていた。

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