第3話 取引
あの日、一部の勇んだ『
現場は『強化』たちが本拠を構える商業ビル群の一画。聳え立つビルが空中廊下で繋がる、『強化』の先進的な街並みの中では、やや小さい部類に入るビルだった。その小ささゆえに、光に満ちた『強化』の街の只中にありながら、物影の闇に沈む、後ろ暗い取引をするには最適の場所と言えた。公共の治安維持が死に絶えて久しくとも、多くの犯罪組織が覇を競い合うトーキョーでは、その内容を周囲に悟られないために、やはり犯罪取引は犯罪取引然とした場所で行われていた。この場所が現場だと言われ、光輝は何ら違和感なくそれを受け入れた。
踏み込むと、そこは血の海だった。実際に取引が行われた、という上層階へ向かう途中の段階から、床はおろか壁、天井にも、赤い血の筋が不気味な紋様を描いている。何人分もの死体がその血に浸かるように倒れている姿を見たが、そのうちの半数は『強化』だった。武器取引を行っていた『強化』とそこを襲撃した『crus.』の戦闘の後……というには奇妙な気がした。
『非強化』である『crus.』メンバーたちが、ほぼ同数の『強化』を打ち倒すためには、それ相応の条件がいる。『crus.』たちは〝戦争〟勃発後、確かによく戦った。それなりに対『強化』の戦闘にも馴れてきていた。だが、それはあくまで〝塔〟の地の利を活かしたゲリラ的な戦いであったからだ。この取引現場の襲撃は、始めこそ奇襲であったかも知れないが、そこから後は正面切った戦いになったはずだ。そうだとすれば、『crus.』側の死体がもっと多くなければならない。
救援を求めているものたちも、もう殺されているかもしれない。光輝は手遅れを理解した。
耶麻人に、光輝は抱いた感覚を伝えた。おそらく耶麻人も気づいていたはずだ。だが、耶麻人は止まらず、光輝はその背に続いた。結局、二人は『crus.』メンバーたちと共にビルの最上階へと登り詰めた。
最上階は、壁やパーテーションの一切ない、駄々広い部屋がひとつきりあるだけの場所だった。光輝たちが踏み込むと、そこに救援を求めていた『crus.』たちは、確かにいた。ただし、全員が死体か瀕死の状態で、部屋はやはり血塗れの状況であった。
光輝と耶麻人に従った少年たちが、瀕死の仲間を助け上げようと近づくと、次々に腕を、脚を、首を、四肢を切断されて転がった。部屋はあっという間に光輝も耶麻人以外に動くものはなくなり、始めから部屋にいた瀕死の少年たちと同じく、苦痛に呻く少年たちの声だけが響いた。
それが、『七同盟』の一人、イタリア系マフィアの長であるシルヴィオ・ネスタの暗器による仕業であることを、光輝は後になって知った。シルヴィオ・ネスタは、元々天才的な暗殺者であり、表立った殺しは一切しない男だった。真っ向勝負であれば、『毒蛇』と言われたミネルヴァや『狂犬』とその暴れぶりを恐れられたカラエフには及ばない、と言われた。だが、殺しの腕では、ネスタの右に出るものはいなかった。誰もネスタに殺されたことすら、知らぬまま死ぬ。闇から闇へと渡り、死を振り撒く。そういう男だった。
このときも、光輝は仲間を殺した相手が誰なのか、わからなかった。人間を超えた感覚を持つ〝ネクスト〟であっても、ネスタの存在を捉えることはできなかった。耶麻人も同じようで、二人とも駄々広い血塗れの部屋の中で、身動ぎひとつできずにいた。
ネスタの気配の代わりに存在を発したのは、白い壁だった。飛び散った赤い血が不気味な紋様を作る壁、正確にはその手前に、光の板が浮かび上がった。同時に落とされた室内照明が、一瞬辺りを暗くすると、南に向かって開かれた三メートルを越える大きな窓から差し込む『上層』の街明かりがこの部屋の光源になった。『強化』の街明かりは夜を作らないほど明るいが、この頃はまだ数が少なかったからか、部屋の中に浮かび上がった光の板の方が強い存在感を示した。
光輝と耶麻人は窓の外へ向けた視線を、光の方へ戻した。それはディスプレイであり、何かの映像が映し出されるであろうことは予想できた。だが、一瞬後に映し出された映像は、予想できるものではなかった。
映し出されたのは、アスカだった。静かな寝息を立てるアスカの姿が映り、それに続けて、〝塔〟内部の、様々な映像が流れた。顔見知り、毎日言葉を交わす住人たちが続けて映り、その頃に光輝はこの映像の意味を察していた。
『この機会を作るために、多くの同胞を殺さねばならなかった』
だが成功した、とディスプレイから聞こえた声は言った。なるほど、そういうことか、と光輝は納得する。このビルに転がる、無数の『強化』の死体。『crus.』とやり合ったにしては被害が大きすぎるのは、同胞殺しの結果だ。『crus.』メンバーを殺し、さらに同胞を殺すことで状況を不確定にし、光輝と耶麻人をこのビルの奥へ奥へと……罠の奥へ奥へと誘ったのだ。
『お前たちを〝塔〟から引き離す。その為であれば、安い犠牲だ』
光輝は自分の奥歯が、ぎりっ、と立てた音を聞いた。超越者然とした言葉は、冷淡に告げる。
『お前たちがいないいま、〝塔〟はわたしの手の内にある。……わたしは、お前たちと取引がしたい。どうだ』
ディスプレイに男の姿が映る。
美しい銀髪を持つ、鋭い目付きの男だった。
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