第9話『上層』へ
『あの子は……アスカは〝ネクスト〟になることを決意した。自分で望んで〝ネクスト〟になった。古いやり方で、あらゆる苦痛に耐えて、自我を失うことなく、あの子は人類の革新たる存在になった。すべては復讐のためだ。耶麻人を殺された復讐のため、あらゆる痛みに耐えると、あらゆる非人道的な行為に耐えると、あの子は自分で決めたんだ。そうして本当にそれを乗り越えてしまった』
そんなことが、現実にありうるのだろうか。
〝ネクスト〟の初期研究は知っている。光輝の記憶野に、その内容はすべて刻まれている。異常と言える研究の対象になったのは、数千に上る子供たちだ。そして〝壊れた〟のも同数になる。あんなものに耐えられる人間がいるとは思えない。〝ネクスト〟を生み出すために行われた初期研究の内容は、それほどに酷い。奇跡が起きること、それを望むことすらバカバカしくなるほどだ。
もし、本当に乗り越えたのだとしたら。
光輝は考えた。
『あの子は復讐のためだけに生きている。兄と慕った耶麻人を殺した『七同盟』を自らの手で葬ること。それがいまの彼女のすべてだ。そして、それが終わった後は、お前だ』
強靭、強固という言葉でも足らない、想像することすら困難な、恐るべき意志。それがなければ、〝ネクスト〟にはなれなかったはずだ。光輝は無意識にカルテを握りつぶしていた。
『耶麻人がそうする道を選んだとはいえ、あの子は耶麻人に直接手を下したお前のことも憎んでいる。お前の命まで届いたとき、あの子の復讐は完結する』
それほどの敵意。それほどの憎悪。非人道的の極致である施術を受けてなお、決意を失わない怨嗟。瓦礫の中に咲いた小さな花のような笑顔に、いまはそれが宿っている。それを宿してしまった。
『そうだ。女は、アスカ、あの子だ。お前と耶麻人が拾い、『
これほどひどい現実もない。
光輝はもう一度思った。
光輝の手の中で、アスカのカルテが皺と歪みを深めた。
『きっと、なぜ手を貸した、とお前なら言うだろう。わたしは進んで手を貸した。彼女を〝ネクスト〟へと進化させる施術を施した。脅されたわけでもないし、強要されたわけでもない。しかし、いまさらかつての研究を再開したいなどという願望はない。これは本当だ。
あるとすれば、そうだな、わたしもアスカと同じだった、ということだ。凶暴な復讐心を抱え、それを実行に移すことも出来ず、ただ抜け殻のように生きていた、ということだろう』
灰谷教授の声が変わっていた。自信に満ち、対する人間のすべてを見透かして来る、あの教授然とした声ではなくなっていた。光輝は顔を上げてスピーカーを見た。
『お前を光輝と名付けた理由は話したな。来栖君がもう一人の〝ネクスト〟を耶麻人、と名付けた理由と同じだよ。わたしにとっても、来栖君にとっても、お前たちは息子だった。わたしたちが〝ネクスト〟の研究を秘密裏に継続したのは、初期段階での目的とは大きく異なる。ただ息子を取り戻したかったのだ。『強化』に殺された息子を。耶麻人を。光輝を。『強化』などに負けぬ肉体を持った、生物として完成された肉体を持った至高の存在として。そして光輝、お前は戻って来てくれた。来栖君の息子、耶麻人君もまた、戻って来てくれた』
自分と耶麻人は〝ネクスト〟として生まれた。
試験管の中で受精し、人工子宮の中でいまと変わらぬ姿になるまで育てられた。
ベースとなった遺伝子にはネクスト計画の主任研究員の灰谷教授と来栖教授の遺伝子が使われた。自身のものであるから、最も手に入れやすかった、という理由だったそうだが、本当のところはそうではない。
自分と耶麻人を生んだ後期ネクスト計画は、生命の法を打ち破り、不可能を可能にして死者を取り戻そうとする、二人の研究者の壮絶な決意と復讐心によって継続されていたのだ。
そうだ。知っている。知っているが――
光輝は流れてくる声そのものを見るように目を細めた。
『だが、またしても『強化』によって命を奪われた。お前は戻って来てくれたが、何も語らず心を閉ざし、来栖君はまた『強化』に息子を奪われた。我々は二度も息子を『強化』に奪われたんだ。そんなことが脆弱な精神しか持たない我々のような人間に堪えられると思うか? わたしたちは堪えられなかった。そして〝戦争〟の際に負った傷が来栖君までもわたしから奪った。来栖君は『強化』を呪いながら死んでいったよ。そのこともまた、わたしに強烈な復讐心を抱かせた。
正直に言おう。わたしはアスカを利用したんだ。アスカの復讐心を利用し、手を貸すことで、わたしはわたしの復讐を果たそうとしたんだ。
お前はわたしを呪っているかもしれないな。なぜこの世に産み落としたのか、なぜこんな身体を与えたのか、なぜ大切な存在に自分と同じ運命を背負わせたのか。わかってもらえるとは思っていない。そもそもお前には、わたしと親子であること自体、実感を持てないだろう。だが、例え一方的であるとしても、お前はわたしにとってたった一人の息子だ。かけがえのない宝だ。その息子の友が殺され、息子の精神が殺され、その上、古き友人まで奪われたわたしには、あの子の復讐に同調する以外の選択肢を持つことができなかった』
そこで雑音が混ざった。何かを破壊する大きな音が響く。
『ここが嗅ぎつけられたようだ。おそらく、ミネルヴァだな…… もう時間がなさそうだ。
光輝。最後にお前に頼みたい。
アスカを止めてくれ。
何をいまさら、身勝手な、というだろう。あの子を復讐の兵器にしておいて、何をいまさら、と。その通りだ。だが恥を承知で頼みたい。わたしの人生そのものが恥だ。恥じ入ることしかして来なかった。来れなかった。それを承知で、お前に頼みたい。アスカを止めてやってくれ。あの子はまだ若い。肉体が〝ネクスト〟となったいま、常人よりも遥かに長い時間を生きることにもなる。わたしにその感情を利用され、復讐に身を投じているが、まだいくらでも自分の人生を歩むことができるんだ。
わたしはこの年まで生きて、自分のしたいことをしてきた。それが誰かのためになると思ってもいた。だが、実際には不特定多数の誰かを犠牲にして生きているだけだった。多くの犠牲だ。もう数えることも出来ないほど、多くの犠牲だ――』
灰谷教授の声が遠くなった。変わって破壊音が近くなる。シュー、と何か空気が漏れているような音がする。撃ち込まれた催涙ガス弾だろう。
『もちろん、復讐したい気持ちが消えたわけではない。『七同盟』を、『強化』を許す気にはなれない。だがそれは、どんな手段を使ってでも、わたし自身が自分の手で行うべきことだったのだ。アスカのように若く、新しい世代に残すべき狂気ではなかったのだ。わたしにはそれが分からなかった。こうして自分の最後を悟って、ようやく気付くことができた。
不甲斐ない。本当に不甲斐ない、若者たちに手渡す何も残せなかった男だ。これをお前に頼んでいること自体も、不甲斐ない限りだ。
あの子まで犠牲にしたくない。だから頼む。恥とわかって頼む。アスカを、止めてやってくれ。守ってやってくれ。あの子は残りの四人を葬るために『上層』へ向かった。お前なら……』
灰谷教授の言葉はそこで途切れた。一際大きな音が最後に響き、この地下空間に敵が雪崩込んできた瞬間を想像させた。それを最後に、スピーカーは沈黙した。
光輝はしばらく動かなかった。動けなかった。
さまざまな想いが渦巻いていた。それを整理し、次に何をすべきなのかを考える時間が必要だった。そのために、指の一つも動かせなかった。
灰谷の想いは聞き遂げた。独善かもしれないが、何かを取り戻そうとする男の悲痛な叫びだった。
遺伝子的には父親である、だがそうは感じたことのない相手。しかし、奇妙なことに、光輝はいま初めて、自分と灰谷教授は本当に親子だったのだ、と感じていた。遅すぎる後悔に身を焦がすこの鈍さは、親譲りなのかもしれない。
「……『上層』か」
光輝はつぶやいた。その声が石化の呪いを解いたように、身体は動きを取り戻した。コンクリートの天井を仰ぎ見る。その目は天井を抜け、地上を超えて、さらに上の〝大地〟を見ていた。
復讐に動いているのがアスカであるならば、光輝はアスカを止めなければならないと考えていた。そしてそれは現実だった。アスカは父の施術を受け、新たな肉体を手に入れ、復讐に身を置いている。
アスカを守らなければならない。これで二人目だ。逝ってしまった人の想いを、二人分背負うことになった。それは重圧であり、同時に目的を達成させる意思を強固にするものでもあることを、光輝は知った。
行くしかない。友との約束を守るために。父の願いを叶えるために。アスカを追って、『上層』……『強化』たちの街、敵の本拠地、魔都トーキョーの中心街『上層』へ。
二人分の魂に背中を押されたように、光輝が意を決した瞬間だった。地下空間に大きな音が響いた。まるでその決意が鍵となったかのような、それさえも生体認証されていたかのような、絶妙なタイミングだった。
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