Chapter.3

超越者

第1話 いま、ここにいるのは誰だ

「〝デア・フライシュッツ〟から得られた情報を精査しましたが、犯人につながる情報源にはなりませんでした。但し、すべて正確な情報であったことを付け加えておきます。〝デア・フライシュッツ〟は本当に何も知らないのかもしれません」


 カラエフ・ストラエフは椅子に深く身を預けた。机越しに、彼の優秀な部下が報告を続けている。


「戦闘部隊を引き連れて『旧市街』へ降りていた〝毒蛇〟が『上層』へ戻りました。活動時間は約二十時間。行動内容は不明です」


『中枢』の一部を担う街、シナガワにあるタワービル。その最上階に存在する彼のオフィスの椅子は大きく、座り心地はもちろん最上級だ。


「襲撃者に関わりがあることは間違いないな。他には?」

「『旧市街』と『上層』を結ぶシャフトのいくつかに異常が見つかりました。いずれもセキュリティが無効化され、通行記録が破壊されています」

「襲撃者の通用口か。なるほど、ミネルヴァが『旧市街』へ降りたこととも一致するな」


 執務机の向こうには、何もない。何も置いていないオフィスの広すぎる空間があるだけだ。巨大な両開きの扉が実際よりも大きく見える。彼の忠実な部下は、その前に立っていた。


「はい。やはり襲撃者は非強化か、その保護を受けていると見て間違いありません」


 カラエフは自分の右腕と言っていい部下、ドミトリーの姿を改めて見た。顎と鼻下に蓄えた髭とは反比例して、頭頂部にわずかに髪が残るだけの頭。鋭い眼光は彼の職能の高さと強い意思を感じさせる。事実、彼にできないことはほとんどない。できないとすれば、何かを手に取ったり、持ち上げたりすることぐらいだろうか。その身体は半分透けている。


「異常が見つかったシャフトはいくつある?」

「お待ちください」


 一瞬、ドミトリーの姿が歪んだ。まるで旧世紀のブラウン管テレビに走るノイズのように、彼の姿そのものがぶれた。ドミトリーが検索をかける時の常だった。


「八から十一あります。三つの誤差は元々のメンテナンス不足の可能性があります」


 そう機械音声を紡ぐドミトリーの横に、彼の背丈と同じほど大きな地図が現れた。トーキョーの全景図だった。その地図に、赤い点が光っている。数は八。残り三つはオレンジ色で、それが断定できない箇所だろう。光は大体等間隔にトーキョーを取り囲んでいる。


「これを使っているとなると、襲撃者は『旧市街』を移動し、必要な時にはトーキョーのどこへでも、すぐさま現れることができるでしょう」


 神出鬼没、か。

 ドミトリーの言葉に、カラエフは口元に当てた指を噛んだ。初めの二人、ロベルトとデューイが殺されたとき、目撃者は誰もいなかった。その場に居合わせた『強化』全員が殺されていたことが主な原因だが、その直後にも、怪しい人物を目撃した人間がいない。襲撃者はどうやって逃走したのか。これでその理由がわかった。


「襲撃者の目的は明らかにおれたち『七同盟』だ。残ったのは四人。〝城〟から降りてこないシンは除くとして、おれ、ミネルヴァ、ネスタ。襲撃者の次の目標は、誰だ……?」

「約七割の確率で〝毒蛇〟が襲撃者の次の標的でしょう」


 ほとんど独り言のつもりで口にした言葉を、ドミトリーは拾い集め、データと照合して確率を弾き出してくれた。優秀すぎる部下だ。


「なぜだ」

「イタリアマフィアとカラエフ様の所在を掴むのは難しいでしょう。シン様を襲うには〝城〟へ潜入しなければなりませんが、そこまでのリスクを冒すとは思えません。それに比べ、〝毒蛇〟は派手に動いています。性格上の問題もあり、あれが行くところには必ず痕跡が残ります」

「すると次に襲撃者が現れる可能性が最も高いのは……」


 カラエフが指で指し示した動きに呼応して、地図の一部分が明滅を始めた。トーキョーの南西の一帯がオレンジ色に輝く。


「〝毒蛇〟の支配地区です」

「あそこにはアレがあったな」

「アレ、と申されますと?」

「十五年前の遺産だよ」

「検索します、お待ちください」


 非の打ちどころがないほどよくできた部下は、素早く情報をかき集めている。また一瞬姿がぶれた。


「〝塔〟でしょうか?」

「そうだ。あそこは『crus.』たちにとっては聖地と言えるかもしれない。襲撃者が何者であれ、『crus.』に関わりのあるものならば、いつか姿を現すのではないか、と思ってな」

「周辺のセキュリティとそれ以外も含め、すべての画像情報を掌握します」


 頼む、とカラエフが言ったときには、部下の姿はすでになかった。ホログラムで作られた疑似映像体は消え、だだっ広いオフィスにはカラエフだけが残された。


 椅子から立ち上がったカラエフは、自分のオフィスを眺めた。無味簡素で特徴もない、灰色のカーペットが敷き詰められているのみで、自分が使っている執務机以外の調度品は皆無だった。十五年前のあの日、自分は何を手に入れたのか。それを考えるために見渡してみたのだが、そこにあったのはやはり、空虚さだけだった。


 あの日を境に手にしたのは、この虚しさだ、とカラエフは悟る。いや、そんなことは十五年前のあの日から知っている。再認識した、と言うべきだ。


 あの日を境に手にしたものは、『七同盟』という地位。麻薬と武器の製造、販売を手広く扱う貿易商社ストラエフ・カンパニーの繁栄。魔都に暮らし、働く、一万人を超える部下。目に見えるうちでは、それらを一度に手にしたことになるだろう。


 だが、同時に手にしたものがある。


 この虚しさだ。


 何者も信用できない、心の狭さだ。


 機械のナビゲーションを擬人化し、ホログラムで表示したドミトリー以外に、このビル内に部下はいない。護衛の戦闘用『強化』も出入口と地下駐車場に控えているだけだ。何者も信用できないゆえに、カラエフは傍に部下を置かなかった。いや、置けなかった。


 元々、その気質はあった。近いようなやり方は〝戦争〟以前からしていた。だがここまで悪化したのは、『crus.』と戦った後、特に来栖耶麻人と灰谷光輝の二人と戦った後だ。


 あの二人の信頼、互いに互いを支え、気兼ねなく寄り掛かる魂は、どこから来るのか。カラエフにはわからなかった。わからなかったが、戦いながら猛烈に憧れた。焼けるような、焦げるような痛みを胸に覚えた。自分を含め、あらゆる『強化』が張り巡らせた策略、謀略といった汚い手をものともせず、二人の共闘で周囲を守りながら、不利な状態を戦い抜く〝ネクスト〟の姿に、老いぬ『強化』の身体で、老いたカラエフの精神は、何者も信用できない自分の孤独を嘆き、哀しみ、叫んだ。


 そして迎えた結末。


 あの瞬間、信用するものを持つ強さとその恐怖、信用するものを持とうと思わない弱さとその孤独を、カラエフは同時に見せつけられ、焦げた胸に深々と刻みつけられた。


 あの時から、自分は変わった。虚しさが常態となった。誰かを信頼したいと思う。あの〝ネクスト〟の二人のように生きてみたいと思う。だがその術は分からず、『七同盟』という権力の中では、相手に陥れられず、相手を陥れる策略を練る日々を続けるしかない。自分に媚び諂う存在はごまんといるが、対等に話し合う存在はいない。結局、誰も信頼するに値せず、この何もないオフィスに収まるしかない。自分には仲間と呼べる存在はこの先永遠に得られないだろう、と思う虚しさが胸の傷を埋め、その弱さがかつての野心や非情さ、『七同盟』随一と呼ばれた凶暴性を奪い去ってしまった。人の生き死にから遠く離れたいと思い、戦いさえも恐ろしく感じるようになってしまった。


 いま、ここにいるのは誰だ。


 カラエフは爪先に視線を落として自問した。カラエフ・ストラエフと呼ばれた男の残滓だろうか。それとも抜け殻か。自嘲の笑みが自然と顔に浮かんだ。


「お待たせしました、カラエフ様。対象地域すべての画像情報を閲覧できます」


 カラエフは顔を上げた。声と共にドミトリーの姿が戻って来ていた。


 鋭角なサングラスを持ち上げ、自嘲の笑みを消す。目に浮かんだ弱さを隠せるのは、サングラスの利点だった。

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