第8話 ASUKA

 商業ビルの中は、想像以上に荒れていた。

 窓だけでなく、使われているガラスはすべて割れ、剥き出しのコンクリートは場所によっては崩落している。しかし、考えてみればこの街自体、置き去りにされて数十年単位の時間が流れているのだ。このビルがこうして自立出来ていることさえも、奇跡と考えなければならないのかもしれない。その観点に立てば、中の荒れようなど、当たり前と捉えるべきだった。


 光輝は迷わず地下を目指した。こうしたビルの機械室は地下にあることが多い。彼の研究には、ある程度の電力が必要なはずだった。確信はなかったが、研究室があるとすれば、その機械室の近くだろうと思った。


 推理は的中した。かつてはどんな使われ方をしていたのか、荒れ放題のいまとなってはわからないが、妙に広い空間にグレイの研究施設はあった。


 部屋として仕切る壁はなく、書籍などの資料を収める背の高い棚が壁の代わりとして周囲を取り囲んでいた。むやみに広い空間に、そこだけ仕切られた仮設の部屋、といった印象だった。棚と棚の間に隙間がある場所があり、光輝はそこから中へ足を踏み入れた。


 中には照明が灯り、非常に明るかった。やはり機械室の自家発電装置を動かして電力を得ているようだった。激しく争った跡があり、床には書籍や書類が散らばっていた。もはや紙屑にしか見えないものもあり、それが銃撃によって砕かれたものだと光輝にはすぐにわかった。


 誰と誰が争ったのか。光輝は考えた。つい先ほど見聞きしたもの、『旧市街』の低い空に現れたまがい物の太陽、何かが爆発した光を思い出し、さらにミネルヴァが吐き捨てた言葉を思い出した。


 くそじじいがっ!


 あそこにグレイはいないよ。もうこの世にも、ね

 

 いま、だったのか。


 この部屋で争いがあり、プロフェッサー・グレイが連れ出されたのは、ほんの三十分も経たないうちだったのだ。


 そして、あの炎になった。


 またおれは、守れなかったんだな。


 あの時のように。


 虚脱感が光輝の身体を包んだ。お前は誰も守れない。頭の中で再現された爆発の炎の中にミネルヴァの顔が浮かぶと、高笑いを上げてそう言った。


『久しぶりだな、光輝。〝終戦〟の日以来だ』


 反射的に光輝は〝テンペスト〟を抜いた。誰もいないはずの部屋に突然響いた声は、すぐ近くから聞こえた。声のした方に銃口を向ける。


『といっても、これを聞いているということは、実際には会えず仕舞いだった可能性が高いな』


 そこには机があるだけだった。天板の上には何枚かの書類が散らばっている。難解な医学用語が羅列されたカルテだ。声は明らかにその机から聞こえていた。


『お前なら来るだろうと思っていたよ。このメッセージはお前の生体情報に反応して再生される。お前しか聞けない仕組みだ。だからお前にだけ伝えたい真実を残す』


 十五年という長い時間が経っていたが、光輝は忘れていなかった。この声はプロフェッサー・グレイの声だ。経年のせいか、生活環境のせいか、最後に聞いた記憶の声よりも、かなりしわがれた印象が強い。だが間違いない。グレイ……灰谷誠教授その人の声だ。


『お前がここへ来た、ということは、すでにある程度の情報は得ているということだろう。『七同盟』が襲われていること。ラジーが葬られた場所に置かれた『crus.』のメダル。目撃された老人と女。それらの情報を得ているのだとすれば、お前はすでに『七同盟』襲撃犯のおおよその見当をつけているはずだ』


 光輝は〝テンペスト〟を下げると、机に歩み寄った。書籍の棚に埋もれる机からコードのようなものが伸びていて、それが両脇の棚に繋がっていた。どうやら灰谷の落ち着いた声は、その棚に設置された極小のスピーカーから流れてくるようだ。生体情報を読み取って自動再生される仕組みということだったが、そのセンサーの役割をする機器は、巧妙に偽装されているのか、見当たらなかった。


『お前の考えている通り、老人はわたしだ。そして『七同盟』の二人を痕跡一つ残さず消し、強襲型『強化』であるラジー・ジャラル・マジフまで葬ったのは女。その女は光輝、お前と耶麻人と同じ種類の生き物だ』


 同じ人間だ、とは言わなかった。同じ『非強化』とも言わなかった。灰谷教授らしい、的確な表現だ、と光輝は思いながら右手に握った〝テンペスト〟をホルスターに収めた。


『〝ネクスト〟。人間という生物の肉体に秘められた能力のすべてを引き出すことのできる人間。外から内へ何かを補う『強化』とは違い、単体で生物として完成された人間。本当の意味での、人類という種の革新。それがお前たちだ。お前たちは人類の進化の最先端の存在としてこの世に生を受けた』


 光輝の手が机の上のカルテに伸びた。中央に人の画が描かれている。各部位を指し示すように線が伸び、その先には注釈が書かれている。該当する部分に対して行った施術の内容のようだった。医学用語が多く、使われている言語も世界の西から東まで、さまざまなものが混在している。内容を読み取るのはおそらく、書いた本人以外は不可能ではないだろうか、と光輝は思った。だが、その目はカルテのある一か所に吸い寄せられた。おそらくここで施術を受けた人物の名前と思われるものが、カルテの一番上に記載されていた。その部分だけははっきりと読めた。その名前は……


『〝ネクスト〟の研究が一度頓挫した理由は知っているな? 人の精神が、肉体の進化についていけなかったからだ。初め、我々は人の肉体を機械部品なしに強化することだけを主眼に置いた。薬による筋肉、骨格の改造。反射能力の鋭敏化。代謝機能の強化。さらには本能的恐怖を拭い去るための洗脳施術。肉体のリミッターを解除するためのあらゆる処置が試みられた。だが、そうしたすべてに耐えられる人間は存在しなかった。精神を病んでしまうのだ。完璧な肉体を手に入れた時、その人物はすでに人としての活動を終えている。だからお前たちが生まれた。胎児の状態、あるいは受精する精子、卵子の遺伝子そのものに施術を行うことで、人の壁を越えたのがお前たち二人だ。だが、三人目は違うぞ』


 ASUKA。


 カルテの一番上には、そう記載されていた。光輝の脳裏を、幼い女の子の姿が横切って行った。廃墟同然の建物の中を、微笑みながら駆けまわっている姿。その満面の笑顔。

 

 考えていた。


 予想していた。


 だがこれほどひどい現実もない。


 光輝は視界が暗くなったように思えた。

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