第2話 亡霊など、この世にはいない

 二十二世紀、『強化』が支配する都市を真横から見ると、多重構造の洋菓子のように見えるだろう。天を突き刺すビル郡に支配者層である『強化』が住まい、それら一つ一つの建物間を移動するため、彼らが作った〝大地〟がある。その下には、被支配者層の『非強化』たちが住む前世期からの街並み、『旧市街』が広がっている。


〝大地〟――数百メートル単位の高架に支えられた空中回廊は、『非強化』から空を奪い、常夜の世界を作り上げた。一部『強化』の街に上がり、生活することの出来るものもいたが、ほとんどが汚物と同義の扱いを受ける地下……本来の大地である『旧市街』のスラムで暮らしている。


 かつてシブヤと呼ばれていたここも、その例に漏れない。自らの支配地域の地下スラムに降りたミネルヴァ・ハルクは、日中にも関わらず濃い闇と湿気、独特の臭気に顔をしかめた。


 シンとの会合、そしてその直後、ラジーのオフィスに押し掛け、真犯人の正体を暴いてから半日。導き出された答えは、ミネルヴァにここへ降りなければならない苦痛を迫った。


 うすら寒い、生活感を一切感じさせないシンの宮殿とは真逆の、生活の残滓が打ち捨てられた地下世界。独特の臭気は、あらゆる汚物が発する臭いだった。『旧市街』のライフラインは、機能を停止して久しい。排水溝からもれるアンモニア臭、ろくに身を清めることも出来ない『非強化』たちの体臭、汚物。さらには『強化』の街から捨てられる、さまざまな廃棄物。それらすべてが混然一体となって醸し出す、強い生き物の臭い。それが『旧市街』の臭いだった。汚らわしい、とミネルヴァは紫煙を吐き出したが、その芳しい匂いさえすぐさま汚されてしまった。


(全班、配置につきました)


「わかった。指示を待ちな」


 スリットの深い血色のドレスをなびかせ、一歩前に出たミネルヴァは、部下からの通信に答えながら、眼前の建物に目をやった。


 ゆるい円柱の建物は、入口も窓も全て破られ、割れたガラス片ばかりが目につく。『強化』の街に空の大半を埋められている『旧市街』に風が吹くことはほとんどないはずだったが、朽ちたカーテンが時折、窓の奥で揺れている。その姿は、かつては若者向けの衣料品を販売する商業ビルだったというこの建物で働いた店員たちの亡霊にも見えた。


 亡霊。


 その言葉が浮んだ瞬間、いかんともしがたい苛立ちを感じたミネルヴァは、まだ半ばまでも吸っていない煙草を吐き捨てた。


 亡霊など、この世にはいない。


 現に亡霊と疑われた犯人は、この中にいるのだから。


「あぶりだしてやるよ……!」


 周囲にいる部下たちに聞こえない程度の声で吐き出したミネルヴァは、右手を上げた。その手が真っ直ぐ振り下ろされるのを合図に、五つの班に分かれて建物の周囲を取り囲んだ部下たちが、突入を開始する。


 手始めに打ち込まれた催涙弾が白い帯を引き、割れたガラスの間から建物内部に消えてゆく。その着弾を待って、先行突入を任された二つの班が建物入口を目指し、ミネルヴァの横をすり抜けていった。

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