第2話 天上の『七同盟』

「ラジーがヘマったって?」


 神話の魔女、メデューサを彷彿とさせる頭髪は、長く、高く、その頭上で、まさに生あるもののようなうねりを見せている。ねっとりとした光沢を放つ、赤い口紅を引いた唇が歪み、呪いさながらの罵声を漏らす。


「ああ。これで三人目だ」


 血色のドレスを大蛇の口腔に喩えるならば、深いスリットの間から覗く白い素足は、さしずめ毒蛇の牙か。隣に立つ妖艶を描いた絵画の完成形のような女の姿を、サングラスの視界に収めつつ、わずかにストライプブラックのスーツを正したカラエフ・ストラエフは、しかしそんな女の姿に男としての感覚を抱くことはなかった。彼女とは付き合いが長いから、というのがその理由ではなく、その牙が大蛇すらひれ伏す恐るべき猛毒を秘めていることを知っているからだ。


「わずか二週間足らずだ。トーキョー七ブロックの統治者が半分も消えた」


「デューイやロベルトはともかく、ラジーは強襲型の『強化』だったはずだろう。そうそう簡単に殺されるもんかねぇ」


 そこでドレスの胸元から取り出した長い煙草を銜え、火をつけた魔女は、一服目の紫煙を呪いそのもののように荒々しく吐き出した。煙草を手放せず、ほぼ常時吸っていなければいられない彼女だが、その吸い方はお世辞にも品位のあるものではない。だがそれでも、本来ならば艶めかしさを漂わせる手先や唇が、持ち前の妖艶さを欠き、ただ粗雑に過ぎる吸い方に終始しているのは、少なからず彼女が動揺している現れなのだろう、とカラエフは気づいた。

 ちん、っという乾いた音を立てて、眼前の扉が開いた。八十階の最上階フロアまで通じる専用エレベータに、カラエフは緋色の魔女の背中に続いて乗りこんだ。それまで背後に控えていた、二人の部下、合わせて三十余名の『強化』護衛たちが続いて乗り込んで来ることはない。このエレベータは、七人の『強化』以外が利用したことは、その誕生からいままで、ただの一度もないのだ。

 まったくの無音で、魔女とカラエフを乗せた鋼鉄の箱は、上昇を始める。その速さは一瞬にして数百キロを超えている。


「どう思う、ミネルヴァ」


「あんたもそれを聞きにきたんだろう。私達の盟主様にねえ……」


 口元に浮かべるのは嘲笑だ。ミネルヴァ・ハルクほど、盟主である男のことを軽んじ、嘲笑うものはいない。

 仲間ではなく、同盟。あくまでもその姿勢を崩さない野心家の魔女は、隠すことなくその牙をぎらつかせていた。

 変わらんな、とカラエフは鋭角な印象の強いサングラスを直した。その手できれいに剃り上げた頭を撫でた時、突然殺風景なエレベータの景色が一変した。

 エレベータの周囲を強化ガラスが包むようになるのは地上四十階からだった。目的地点の半分で、既に高空から見下ろすことになる魔都トーキョーの姿は、訪れた夜の闇を打ち払う、狂気とさえいえる人工の輝きを放っていた。幾度となく目にし、わかっている光景であっても、カラエフはその夜景に目を奪われた。この街を手にするために戦い、実際に手中に収めた現実を新たにする景観を見つめながら、同時に視界の端にいるミネルヴァを意識した。

 ミネルヴァは変わらない。この街を手にする前、手にした時、そして、手にした後も。誰よりも強くあるために、誰よりも狡猾であり、誰よりも悪辣であり、誰よりも陰湿である。それはおそらく、求める強さの中に、生物的、暴力的強さ以外にも、権力や象徴的な強さも含んでいるからだ。そういった意味では、確かにまだ彼女の目的は達成されておらず、既にその域に達している人間の下へ、このエレベータは走っている。あの男を追い落とさねば、ミネルヴァは変われないのだ。

 未だ半ばほどまでしか吸っていない煙草を捨て、結い上げた髪を直すその横顔は、昔となんら変わらない、何かに対する強烈な苛立ちを皮の下に収めたものだ。おれは変わらずにいられなかった……という感慨がカラエフの脳裏を掠めた時、エレベータが減速する感覚が伝わった。


 再び乾いた音を立て、扉が開く。


 天井全てが強化ガラスで覆われた広い部屋の中心には、巨大な円卓が据えられている。それ以外にこれといったもののない部屋には、人一人が常時住んでいるはずだが、およそそれらしい生活感というものがない。いっそ倉庫のような寒ささえ漂わせる空中の王の間に、カラエフはそっと足を踏み入れた。


「ミネルヴァ様、カラエフ様、ご到着いたしました」


 柄にもなく、その声に肝を冷やした。敷き詰められた蒼い絨毯が、長い起毛でカラエフの足音を消した。その分だけ大きく響いた男の声に、そういえばあの戦いの後、執事を一人つけたのだったな、と思い出した。視線を巡らすと、薄暗がりの中に燕尾服を纏った初老の男を見つけることが出来た。

 八十階下の世界が放つ、下品なほど強烈な明かりと、下界ではもう拝むことの出来なくなった星空。この部屋ではその両者がぎりぎりのところで共存を果たしている。それ以外に光源を持たないが、それでも行動するには困らない。そんな薄暗がりの中で深く会釈した燕尾服が歩み寄り、奥へと促す。カラエフに続いてミネルヴァが、こちらはいかにも彼女らしく大股でエレベータを降り、二人は円卓に向かって歩いていった。


「久しいな。ミネルヴァ、カラエフ」


 一日に二度も背筋に冷たいものを感じるようになっては、おれもいよいよか。再び息を飲んだカラエフは、円卓の向こうに視線を飛ばした。

 窓辺に立つ背中は、腰まである銀色の髪で覆われていた。やや細すぎるような、すらりとした長身を純白のコートで包み、肩越しに振り返った端正な顔は、相変わらずどこか憂いを湛えて見える。光の加減のせいなどではなく、悟りの境地に達した聖人の静かな佇まいは、二十代そこそこの外見年齢とは大きくかけ離れていた。


「ネスタはまだなのか?」


 外見だけではない。この男が聖人でありようはずもない。残忍で冷酷。虫も殺さぬ顔をした優男は、だからこそ、ここにいるのだ。

 男の印象に自ら蓋をしたのは表情に出さず、カラエフは円卓の席に着いた。十五年前、『七同盟』結成以来、この部屋では自分の席であり続ける場所だ。座りながら問いかけた言葉に、銀髪の聖人はゆっくりと向き直った。視線がこちらに向いていないことに気付いたカラエフは、その視線を追った。

 しゅ、と何かをすり合わせる音が、冷気に満ちた部屋に響いた。闇の色が濃い壁際で、音が小さな炎に変わるのを見たカラエフは、その明かりが照らす半顔の印象を機械強化された網膜に焼き付けた。


「来ていたのか、シルヴィオ・ネスタ」


 問いかけても返事はなく、壁に預けていた背を離して一歩こちらに近づいただけだった。四人残った七同盟の一人はイタリア系の血を色濃く見せる彫りの深い顔を、わずかな明かりの下に晒した。強い陰影を刻む顔立ちだが、きめの細かい肌と寡黙な印象は、女性のそれを思わせなくもない。銀髪の聖人とはまた異なる中性的な優男は、終始無言のまま円卓に着いた。右目にかかる髪を気にして頭を振り、火のついた細葉巻を燻らせると、その手で縁のない眼鏡を押し上げた。


「ふん、相変わらず陰気なやつだねえ……」


 内包した毒を撒き散らしながら、ミネルヴァは新しい煙草に火をつける。わざとネスタの方向へ強くその伏流煙を吐き出したのは、カラエフの見間違えではない。


「それで、おれたちを呼んだってのは、どういうことなんだ、シン?」


 最高級の革張り椅子に深く座り、漆黒のネクタイを直したカラエフは、聖人に問う目を向けた。シン・フェルナスの純白の影は、いまは再びこちらに背を向け、強化ガラスの向こうにトーキョーの狂ったような街明かりを見下ろしている。その様は、まさに天上人のそれだ。背に翼がないことが不思議に思えるほど浮世離れした背中は微動だにせず、「トヤマ。例のものを」と言った声だけがどこか遠くから響いたように聞こえた。

 トヤマと呼ばれた初老の執事が歩み寄り、円卓に何かを置いてすぐに下がった。円卓を使っている理由は七人に上下関係がないことを示す手段だが、シンだけは別格だ。あの戦い以前からそうであったように、いまも盟主である彼の席は、それとなく上座に位置されている。何かは、その彼の席に置かれた。

 メダルであるようだった。直径二十五ミリ。厚さ最大箇所で二ミリ。薄闇でも強化された目には十分に見て取れる大きさのメダルには、何かの紋様が朱色で描かれているようだった。


「ラジーが死んだ部屋に、それが置かれていたそうだ」


 シンが短く言った言葉は、カラエフには半ば聞こえていなかった。紋様を確認して息を飲んだ。これで肝を冷やす体験は今日一日、それもこの短時間で三度目だが、こればかりはしかたがなかった。前二つとは根本的に違う、虚をつかれただけではない、真実の恐怖が冷気の塊となって現れたのだった。円卓を挟んで正面に座ったネスタが同じようにして息を飲む気配がはっきりと伝わり、間違いないのか、と自分の認識を確かにしたカラエフの鼓膜を、ミネルヴァの高笑いが打った。


「ばかにしてんのかい、あんた」


 激しい怒りをミネルヴァが拳と共に円卓に叩きつける。それを幕引きに、一瞬にして止んだ高笑いの残響が、室内に広がっていった。


「ばかにしてなどいない。ただ、我々には縁が深いものだ。我々の同志を葬った犯人を探しているのであれば、何かの手がかりになるのでは、と思っている」


「だが、シン」


 聖人は達観した気配を変えない。ただ冷静に物事を見据え、自分やネスタが言葉を失った恐怖も、ミネルヴァが叫ぶ以外に打ち払うことの出来なかった恐怖も見透かして、淡々と伝えるべきことだけを伝えていた。取り付く島もないその背に、カラエフは反論する声を上げた。


「あいつらは確かに……」


「そうさ。あいつらは確かに壊滅しただろう!」


 ネスタは相変わらず何も言わず、だがそれでも同じ思いでいることは深く背もたれに身体を預け直した表情からも明らかだった。この場にいる全員が記憶の底から掘り起こしたのは、一人一人がそのメダルを持ち、そのシンボルを旗印にしていたものたち。そしてそのものたちがどのような末路を辿ったのか、彼らに自ら手を下すことで、最終的にこの魔都の全権を握った自分たちには、鮮明すぎるほど記憶に残っている。


「だいたい、生きていたとして、あいつらに何が出来るって言うんだい」


 妖艶な毒蛇の咆哮は、すでにシンに向けられているものではない。まるで自らに言い聞かせるように、その牙を剥くミネルヴァの姿を、カラエフは自分の姿として見つめた。


「生きていたとして、『非強化』の寄せ集めに、こんな真似ができるわけが……」


 怒涛のごとき毒蛇の牙がふいに音を失ったのは、記憶の最奥に眠る、いままさに自分を駆り立てている一つの恐怖にたどり着いたからだ。ミネルヴァのそれがカラエフにもわかった。それは全身が粟立ち、強烈な発汗が襲う、身体現象まで同じだったのかもしれない。一切の言葉を失い、浅い息を吐いたミネルヴァが、ようやく自嘲の笑みを作るができたのは、長い沈黙の後だった。


「寄せ集めなんかじゃない。あの男一人……」


 うわごとのように漏れた声に答えるものは誰もいなかった。だがその沈黙が、彼女の示した〝あの男〟を想像し、その想像を理解し、同じ解釈に至るための時間であったことは、カラエフ自身、そしてネスタにしても同じであったようだった。相変わらず背を向けたシンだけは、その思考を読み取ることは出来なかったが、このメダルを見せるために自分たち三人を呼び寄せた真意は、〝あの男〟を指し示しているように思えた。


「あの、クルスならば!」


「だがクルスこそ確かに死んだはずだ!」


 ミネルヴァの口からこぼれた〝あの男〟の名は、まるでそれ自体が禁忌の呪文であるかのようにカラエフの身体を突き抜け、反射的に反論する声を上げさせた。

 そう。この場にいる誰もが想像した男。『強化』の王である自分たちにとって、潜在的な脅威と恐怖を与える存在である男は、既に死んでいる。十五年前、自分たちの目の前で。やつが死んだことで、最後まで抵抗していたやつの組織……いや、あれを組織と呼ぶのかどうかは怪しいが、とにかくやつを頂点にした最後の反『強化』組織は壊滅し、自分たちはトーキョーを治め、この地から世界を手にする目前まで迫った。やつの死こそが自分たちの繁栄の象徴であり、身の安全の証でもあるのだ。

『非強化』でも『強化』でもないその肉体で、自分たちの前に立ちふさがった圧倒的な力。周到に策を練り、男……来栖耶麻人くるすやまとを葬った過去がカラエフの脳で鮮明に蘇り始める。額から激しい血と脳漿の帯を引いてビルを落ちて行く男の姿がはっきり見えたとき、烈火のごとき破壊音が、カラエフの意識を現実に引き戻した。


「ミネルヴァ!」


 ミネルヴァが椅子を蹴って立ち上がった音だと理解したときには、彼女はすでに高速エレベータの扉に向かい歩き出している。その背にカラエフは呼び止める声を上げたが、答えたのは声ではなく、新たな煙草に火をつけるマッチの摩擦音だった。


「くだらなすぎて時間の無駄。悪いけど、帰らせてもらうわ」


 長い紙煙草の甘い匂いを置き土産に、ミネルヴァは到着したエレベータの奥へ消えていった。エレベータが下界へと起動するわずかな駆動音を聞き、カラエフにはそれがミネルヴァの悲鳴であるように思えてならなかった。言葉で必死に取り繕ってはいるが、彼女は最も恐れている。だからこそ、いの一番にこの場を後にしたのだ。あのプライドの高い魔女が、残った男たちに心情を見透かされることになるとしても。

 彼女はおそらく、この天界から常世へ戻る途上、既に部下達に携帯端末から指令を下している。クルスを、そして彼の組織したかつての一大反『強化』組織、『crus.《クルス》』についての、いま現在の情報をかき集めさせている。そのはずに違いなかった。それほど、あのシンボルがもたらした情報は大きく、そして狭い。あまりにもある一点の可能性、自分たちにとっては恐れである答えしか導き出さないのだ。


「悪いがおれも戻らせてもらおう。それだけ聞ければ十分だからな」


 席を立ったカラエフは黒いネクタイを几帳面に整えると、サングラスの下の眼をネスタ、シンの順に向けた。誰も目を合わせようとはしなかったが、一様に『そうすべきだろう』と言っているように思えた。


「『crus.』の新生か、それともあの男……来栖耶麻人の亡霊か。それはわからないが、それでも三人が死んだのは事実だ。……調べるに越したことはない」


 反応はない。亡霊、という言葉を使った自身の迂闊さに、カラエフは自嘲の笑みに頬が引きつるのを感じた。だが、その言葉がどれほど的を射ているかは、思わずといった様子で視線を上げたネスタの表情が物語っていた。行動こそ起こさないが、すでにミネルヴァと同じ事を考え始めている視線には物思いにふける色があり、元々口数の少ないネスタがさらに影を纏っているように見えた。

 シチリアマフィアの血筋を代々受け継ぎ、生まれながらにしてファミリーのボスだったネスタは、自分と似たような部分がある。同じような境遇で『七同盟』に加わったが、これまで一度もまともに言葉を交わす機会はなかった。言葉を交わすどころか、いま初めて同じ事を同じように考えていると思える瞬間を迎えた。語り合えば分かり合える部分も多分にあるのではないか。もしかすると、自分の抱えている虚脱感と変化も、似たように抱えているかもしれない。

 密かにそんなことを考えたカラエフは、やはり自分は変わった、と再認識していた。その変わった自分を鑑みたとき、ミネルヴァのように闘争を剥き出しにしないネスタもまた、変わったのかもしれないとも思えた。

 いずれ言葉を交わす時間が欲しいものだ。席を立ったカラエフはそんなことを思いながらも、スーツのポケットに携帯端末の所在を確認していた。自分もミネルヴァと同じく、エレベータの扉が閉まればこれを取り出し、まず部下に連絡をするだろう。そして二つの指示を与えるはずだ。


 一つはミネルヴァと同じ、襲撃者の情報収集。


 そしてもう一つは、の情報だ。


 その男は『crus.』の一員であった。クルスを助け、クルスと痛みを共にし、常にクルスのそばにいた。それゆえクルスの事を誰よりも知っている。そして彼は同時に、カラエフが感じている変化をもたらした男でもある。


 貴様は、おれを裏切るなよ。


 カラエフはその男に向けた言葉を口中につぶやき、ミネルヴァを降ろして戻ってきたエレベータに乗り込んだ。

 周囲を覆う強化ガラスの向こうに見えるトーキョーの明かりを美しいと思うことはやはりなく、はっきりと感じさせる狂気に、先ほどは感じなかった底暗い禍々しさが付加されたように思えた。

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