第24話 商いの心得
およそ十五日を要して、メルディーナ率いる王国軍はバビエーカ山を踏破した。
脱落者は八千人余り。たいはんが民間の志願兵とはいえ、決して少なくない犠牲を支払う羽目となった。
ただその甲斐あって、城塞都市アトラスは落とせる。
誰もが、奇襲さえ叶えば可能だと口にしていた。
しかしながら、メルディーナにはここからどうすればいいか、まったくもって見当がつかなかった。
アトラスは三枚の城壁に守られている。
最初の壁はバビエーカ山を越えたことで突破したも同然だが、残る二つはそうもいかなかった。
一の郭内であれば紛れ込むのも難しくない。ここは市場で賑わい、多くの市民が暮らしている為に検問も緩く、夜以外であれば自由に行き来できる。
引き換え、二の郭にあるのは教会や神殿、各種役所に一般兵たちの宿舎と演習場。
昼ですら移動が制限されており、用のない者は入ることすらできやしない。
よしんば侵入できたとしても、よそ者がいては目立って仕方がないだろう。
そして、三の郭に至っては正式な手形か紹介状が必要となってくる。
もっとも、こと用兵に関しては誰も王女に期待していなかった。
なので、この件に関してはラルフを筆頭とした近衛騎士団が動いていた。
女王を検討されていただけあって、王女は軍事教育を受けてはいるものの、所詮は十二歳の少女。
また、覚えなければならないことは他にも沢山あった為、その実力は微妙であった。
腰に
そのことを知っている近衛騎士は微笑ましく、知らない志願兵は感嘆の眼差しでメルディーナの剣舞を眺めていた。
実戦はともかく、型だけはラルフからも合格点を貰えるほどの腕前である。
王女は一切の声も出さず、剣を振るっていた。
一目で、それが鍛錬とは違う動きだとわかる。緩やかでいて流麗。見ていて、厳粛な気持ちにさせられる。
だからこそ、見張りの近衛騎士も止めなかった。
深く長い息を吐き出し、メルディーナは剣を収める。
次いで、扇子を取り出した。
王女が舞うのは、ひとえに寒さを紛らわす為である。戦装束といえど、王女の礼装は防寒性に欠けていた。
一見して男装だが、身体のラインが浮き出るように細工されており、生地が薄いのだ。
旗印である彼女は機能性よりも、見た目を優先させていた。実力がない以上、仕方ないと多少の詰め物も入れている。
指導者になれないのなら、せめて崇めるに値する偶像になるしかない。
革命軍はおろか、帝国ですら惜しむほどに美しく――
父王を引き渡して以来、メルディーナからは年相応の可愛らしさが消えていた。証するように、誰も彼女のことを姫と呼ばなくなった。
「これは見事!」
扇舞が終わると、帝国の言葉で賛辞が飛び込んできた。
目を向けると、ラルフに付き添われて見慣れぬ男が立っていた。
「メルディーナ殿下。いや、女王陛下とお呼びするべきですか?」
徹底した防寒具からして、顔は定かではない。声色からして中年ではないようだが、決して若くもなかった。
軽いお世辞に対して、メルディーナは小さく微笑んだ。
「そなたの好きなように呼ぶがいい」
寒さとは別種の冷気に襲われ、男は身震いする。
「……では、女王陛下と呼ばせていただきます」
目の前の少女にすべてを賭けても損はないと、彼の才覚が告げていた。
ここに来るまでは帝国と秤にかけていたのに、今では完全に振り切ってしまっている。
顔合わせが済むなり、ラルフは王女に経緯を説明した。
「そうか。そなたは祖国を裏切るのか」
「失礼ながら陛下、俺に祖国なんてありません。俺は金で売られ、金で自分を買った解放奴隷なんで」
そういって、男は夜のような髪を晒した。
「どちらに感謝しているかと訊かれれば、帝国と答えますがね。シャルオレーネにいたんじゃ、俺の一生は鉱夫で終わっていたでしょうから」
十六年前、男はシャルオレーネ王国に徴兵された。
その後、帝国の戦争捕虜となり売られたものの、今では商人として自由に生きている。
「知っていますか、陛下? シャルオレーネでの暮らしは奴隷より辛いって?」
「すべての奴隷が、そういうわけでもあるまい?」
周囲を目で制してから、メルディーナは答える。
聞いているのが近衛騎士だけとはいえ、今の発言は聞き流せるものではなかった。
「そりゃそうですが、それでもマシですよ。現に、俺のように解放された人がいるわけですから」
ゼロと一の差は大きいんですよ、と男は商人らしい言葉で返す。
「もう、俺が信じられるのは金しかないんです。命を賭けて雪山に登ったのも、騎士様に見つかって逃げなかったのも、こうして貴方様を陛下とお呼びするのも――すべて、儲かると思ったからでして」
男は少しだけ嘘を吐いた。
シャルオレーネ王国で革命が起きた時の衝撃、気遣っていた王が実の娘に裏切られたと知った際の複雑な感情。
その王女が僅かな兵を率いてバビエーカ山へ向かったと聞き、いてもたってもいられなくなったこと――
「裏切るとか裏切らないとか、そういう問題じゃないんです」
王女の笑みに、かつて王や王妃に抱いたのと同じ畏怖を感じ、結局は自分がシャルオレーネ王国の民であると思い知った一切を心に秘めたまま、これをただの商談として扱う。
「そうか、ならばこれをやろう」
メルディーナは漆黒の髪を飾っていた簪を抜き取る。
ラルフを筆頭に近衛騎士たちが止めようとするも、王女はこれまた目で制した。
「――この望みに生きる。そういう意味が籠められているらしい」
それは王女の生誕を祝して、東の島国から贈られた物だった。金の枯れ枝の先端に一枚、翡翠の葉が付いた造形。
「商人ならば、売り時を間違えることもあるまい?」
現状では品に出した途端、帝国兵か革命軍が入手先を問い質しにくる物騒な代物。
「もちろんですとも」
それどころか、所持しているのを知られただけでも、命の危険が伴う裏切りの証拠品。
そのような代物を売るとすれば、時を経て亡国の王女の形見となるか――
「いつか必ず、女王陛下に買い戻していただきます」
メルディーナがシャルオレーネ王国の玉座に付いたその時であった。
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