第4章 歴史に残らぬ、始まりの軍師

第20話 女王と軍師

 その日、あらゆる生物が沈黙に徹する雲越えバビエーカ山に、あり得ない一群が足を踏み入れた。

 

 メルディーナ率いるシャルオレーネ王国軍である。

 

 彼女らは、白一色のこの風景に相応しくなかった。

 だからだろうか一人、また一人と脱落していく。

 

 降り注ぐ雪は静かに――

 それでいて、生きとし生ける者たちに明確な死を刻む。

 

 冬の嵐は冷たく、時の流れすらも凍り付いたように、死体は死体のままそこに在り続ける。

 つまり、彼らは何処にも還ることができなかった。いつしか雪に覆われるだろうが、温かくなれば無残な姿を再び晒しだすことになり――繰り返す。

 

 そう、ここで死んだ者は安らかに眠ることさえ許されないのだ。

 

 そんな彼らを黙って置き捨て、メルディーナ率いる王国軍はバビエーカ山を踏破していく。


「……アイズ・ラズペクトは、きちんと役目を果たしたようだな」

 

 先行する偵察部隊からの報告を聞き、メルディーナは誇らしげに呟く。


「まさか、このような道が作られているとは……」

 

 言葉だけでは信じられなかったのか、ラルフは実物を見るなり、驚愕を示した。


「ますます、シャルオレーネ王家を妾で終わらせるわけにはいかなくなった」

 

 そこに架かる橋は一種の芸術品であった。

 王家との盟約が繋ぐ、冷たい氷の橋。

 雪によって白く染め上げられ、風景と一体化したその様はまさしく奇跡の御業そのもの。


「しかし、この橋は渡れるのですか?」

 

 ラルフの指摘はごもっともだった。

 これは近衛兵すら知らなかった、王家のみに伝わる秘密の抜け道。


「さて、な。少なくとも、グスターブは渡れないと思っていたようだが」

 

 アイズ・ラズペクトの存在を教えた時、かつての将軍は鼻で笑った。

 そのような盟約が、未だ生きているはずがない。よしんば生き残っていたとしても、軍勢が渡れるほどの強度はあり得ないと。

 事実、他の者たちも信じられないのか、誰も渡ろうとしなかった。


「妾が試すしかあるまい」

「それはなりません」

 

 即座にラルフが諌止するも、

「退け、ラルフ。これは命令だ」

 絶対の意思を持って、メルディーナは下がらせた。


「これは、王の為に用意された橋。妾が渡らずして、どうする?」

 

 また、士気の問題もあった。

 この道行きに従うのはおよそ三万を超える軍団だが、全員が訓練を受けた兵士ではなかった。

 誰もが王女の語る夢物語に付いて来てくれたとはいえ、いつ醒めるかはわかったものではない。

 これから先、待ち受けているのは過酷な現実なのだ。

 だからこそ、王女でありながらもメルディーナは比較的最前線に身を置いていた。


「妾は信じる。かつての盟約を――」

 

 誇らしげに言い放ち、メルディーナは氷の橋を渡っていく。

 彼女の身の軽さでは、吹き荒れる風に流されるほど危ういにもかかわらず、威風堂々と足を進める。

 下は見えないほどの奈落だが、それは彼女が生きる現実と同じだった。

 

 父を切り捨て、どうにか繋がった命。

 

 それでも、グスターブはここで妾が尽きると思っている。

 氷の橋の存在を知っても、彼は戦略的に利用しようと考えなかった。そもそも戦好きのあの男は、行軍で兵を死なせることさえ嫌っていた。

 メルディーナとて、兵を無駄に死なせるのを望んでいるわけではない。

 

 ただ、生きるにはこの道しかなかったのだ。

 

 アトラスに辿り着く前に半分近い兵が死ぬとわかっていても、それ以上を犠牲にしてでも王女は生き残る覚悟でいた。

 

 その意思に追従するかのように、いつの間にかラルフが傍にいてくれた。

 それを当たり前のように、メルディーナは受けいれる。

 

 兵が続かなくとも、もう立ち止まるわけにはいかないのだ。たとえ二人だけであっても、進むしか道はない。

 

 だから、振り返る必要はなかった。 

 

 バビエーカ山では、涙すらたちまち凍ってしまう。

 そして絵物語の中では、その涙を持って氷の橋は完成した。

 

 けど、いったいどれだけの涙があれば、これほどの橋が作れるのだろうか?

 いったい、どれほどの民に涙を流させれば――

 

 無意味な想像だが、メルディーナは唇を噛みしめる。

 

 ――これが現実なのだと。

 

 妾は――いや、我々シャルオレーネ王家はこれほどの涙を民に流させてきたのだ。


「……ラルフよ、童は絶対にシャルオレーネ王家を再興させてみせる」

「えぇ、信じております」

 

 もう冗談とは口にせず、ラルフは剣を捧げた少女に準じる発言をした。





「しかし、バカみたいに寒いな北は」

 

 コリンズがぼやく。北方帝国に住む人間からすれば、彼はバカみたいな厚着姿であった。


「これからもっと、寒くなりますよ」

 

 まだ冬は始まったばかりだと、傍らに控えるリンクが告げる。

 二人は騎乗したまま、並んで会話をしていた。


「なるほど。だから、スーリヤの奴はあんなにも喧しく育ったのか」

「どういう意味ですか?」

 

 関連性が掴めずリンクが尋ねると、

「あの薄い肉では、この寒さを防げまい?」

 反応に困る回答をされた。


「だから凍えぬよう、きゃんきゃんと動き回る」

 

 本人が聞いたらそれこそ喧しい事態に陥りそうだが、スーリヤは前線の騎兵部隊にいるので心配はいらなかった。


「寒いのでしたら、コリンズ様も出ますか?」

「よいのか?」

「えぇ、どちらにせよわたくしたちの勝利は揺るぎません」

 

 容易く、リンクは口にした。


「いや、遠慮しておこう。〝軍師殿〟の最初の意見を尊重したい」

 

 皇子にしては殊勝な態度だが、リンクは居心地が悪かった。

 傍にいるだけでもあり得ない事態だというのに、こちらに意見を求め、あまつさえ尊重するのだ。

 

 ――軍師。

 

 リンクたちにとって耳慣れない役職は、南方帝国が制圧した他国が登用していた制度らしい。

 なんでも、軍を指揮する君主を補佐する役職。その立場は恐れ多いことに、総指揮官と対等ないし上位とのこと。

 誕生した由来こそ馬鹿らしかったが、そのような軍師に指名され、リンクはコリンズの傍らに控えていた。


「ディルドの奴も、それを望んでいるはずだ」

 

 幸いにも、東方帝国の皇子ディルドは模擬戦に参加していなかった。

 さすがというべきか、教官らと肩を並べて胸壁の狭間クレノーから戦場となる平原を見下ろしている。


「買い被り過ぎだと思いますが?」

 

 コリンズ曰く、リンクが策を弄するからディルドは総指揮官から降りた。


「始まる前から勝てると断言できる時点で、買い被りもクソもあるか」

「そうは言われましても……」

 

 普通に勝てるのだから仕方がないと、リンクは冷静に判断していた。

 こちらはブール学院の生徒と、コリンズの麾下きかの者たちを足して総勢千人余り。

 対して、アヌス士官学校はディルドが総指揮官を譲ったことにより総勢千人足らずと、数においては劣勢に立たされていた。


「実戦ならまだしも、これは模擬戦ですので。それにあちらの本命は勝利ではなく、コリンズ様に恥をかかせること」

 

 教官から実戦を意識せよと強く言い渡されていながらも、リンクに従う気はなかった。


「で、そうだとしたらどうなるんだ?」

 

 表情からして、この男はわかっている。

 わかっていて、とぼけている。


「後手に回ります。彼らにとって、勝利は当然のモノ。さすれば、普通に勝つだけで満足するとは思えません」

 

 勝手に任命しておきながら試す物言いに、リンクは面倒くさいと思いながらも応対する。


「まず、こちらの策を看破しようとするでしょう」

 

 結局のところ、最終的な決定権はコリンズが持っている。それに多くの人間は、本気でリンクが作戦を立てるとは信じていないだろう。


「そして一つ一つ、確実にこちらの動きを潰しにかかる」

「無様に足掻かせて潰す、か。確かに、阿呆どもの考えそうなことよ」

「そこで、後手に回ること自体が失策と思わせる動きをこちらは取ります」

「軍師殿も性格が悪いな」

「失態を晒したと自覚すれば、あちらは挽回しようと躍起になるでしょう」

 

 元々の総指揮官がディルドである以上、代わりの者が比べられるのは必至。


「そして、現実の戦においても騎士と貴族は勝手に動くと相場が決まっております」

 

 命令に従っているだけでは、自分の功績にならない。

 その心理に加え、総指揮官に無能の疑いがもたらされれば、兵たちが指揮系統を無視して動き回る可能性はいっそう高くなる。


「それに、コリンズ様は誰かに認められたいとはお思いにならない」

 

 リンクは城壁を見上げ、

「彼らの評価など、どうでもよろしいですよね?」

 無自覚に酷薄の笑みを浮かべる。


「くっ、くくくっ。やはり、おまえは面白い。あぁ、そうだな。あんな奴らの評価など、心底どうでもいい」

 

 釣られるように、コリンズも笑う。


「――大いに軽んじらせよ」

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