第14話 アイズ・ラズペクト
人目を引かないよう、リンクは通常の速度で書庫へと向かう。
それでも逸る気持ちがあったのか、ノックを忘れた。
「――っ!」
驚かせるつもりはなかったが、いつもの席に座っていたフィリスが音を立てて本を閉じる。
「ノックしろとは言いませんが、もう少し静かに入って来てください」
心臓が止まるかと思いました、とフィリスは朱の差した頬に手をやる。
「いったい、なんの本を読んでいたんだ?」
無視すると余計にうるさくなるだろうと、リンクは適当に応じる。
「べ、別になんだっていいじゃないですか……」
言葉尻が小さくなっていくも、リンクは気にも留めなかった。頭に左手をやり、記憶の書庫を漁りながら、瞳は忙しなく目的の資料を探す。
「そういうあなたこそ、そんなに焦ってどうしたんですか?」
「探し物」
「なら、手伝います。目の前で忙しなくされていると、落ちつかないんです」
彼女の身分を考慮すると、その気持ちはわからなくはなかった。
「なら、赤い装丁の本を集めてくれ」
「赤いって……本気ですか?」
日の光こそ当たらないものの、本の多くは痛んでいた。そもそも、ここは図書室に置いておけないようなモノを放り込んだ部屋でもあるのだ。
「本気だ。嫌なら手伝わなくていい」
「自分から申し出た以上、きちんと手伝います。それに、あなたがいると読書の続きができないので」
彼女がテーブルに置き去りにしている本の装丁は紫色だった。
リンクの記憶にある限り、あの手の色の本はどれも肉体の契りについて記していたはず。
それも男女に限らず、致すまでの手順や体位から始まり、果ては専用の道具や使用できる動物まで――
「なっ! なんですか!」
意味深な目線と表情から察したのか、フィリスは耳まで真っ赤にして叫び出した。
「いや、邪魔して悪かったなと思っただけだ」
「誤解ですからっ! 謝罪しなくて結構です。私はただ、最近スーリヤ様が疲れているご様子でしたので、それをどうにか和らげる術はないかと読んでいただけですっ!」
「つまり、おまえとスーリヤが――」
「不埒な想像は止めてください」
激しい羞恥に襲われていながらも、フィリスは剣を抜いた。
そこまでされて、リンクも自分の発言が不適切だったと反省する。
「……悪かった。この話は終いにする」
彼女の立場からして、主人の貞操に関する発言を許すわけにはいかない。たとえ慣れ親しんだリンクであっても、それは許されるモノではなかった。
「赤い装丁の本を集めればいいんですよね?」
「あぁ、そうだ。だけど、おまえの顔ほど赤くはない……っと、冗談は置いといて」
恐ろしい視線に制され、リンクは口を噤む。
「正確には『アイズ・ラズペクト』という記述を探している」
それがヘルメスの欲している本であり、彼が払う報酬であった。
「その言葉……私には記憶にありません」
毎日入り浸っているだけあって、フィリスは手早く指定の本を集めてくれる。テーブルに並べられたそれを、リンクが確かめる。
「そして、おそらくリンク=リンセントにも――」
独り言なのか、それとも質問なのか。
抑揚の欠いた声を漏らしながら、フィリスは動いていた。
「アイズは一年を通して最も寒い時期を表す言葉。つまり……冬。けど、ラズペクトも似たような意味だったはず……確か、寒さを表す言葉……」
冬の寒さ、冬の凍え、冬の
言い様は幾らでもあるが、意味は似たようなものだ。
すべてを積み終わったのか、フィリスも椅子に座ってページを捲り始める。
さすがに今回に限っては対面ではなかった。というより、本の量が多すぎて隣しか座る場所がなかった。
初めての共同作業に二人して没頭する。
……が、見つからない。
そろそろスーリヤも姿を現しかねないとリンクがドアに目をやっていると、
「スーリヤ様なら来ないですよ」
フィリスがぽつりと漏らした。
理由まで説明する気はないのか、それ以上は続かない。作業に集中しているのだろう。
「そうか」
負けじと、リンクも没頭する。
二人は次々とページを捲っては、閉じ、適当に放る。テーブルの上の本は徐々に減っていき、代わりに周辺の床に調べ終わった本が溜まっていく。
そうして、ついに見つけた。
「ありました! ……けど、これって?」
言葉が続かない上に本を手放さないものだから、リンクは無理に身体を入れて覗き込む。
と、そこに大きな字で『アイズ・ラズペクト』と書かれてあった。
そう、子供でも読めるような大きな字で――それは絵物語だった。
どうやら『アイズ・ラズペクト』とは、そこに登場する妖精の名前のようだ。
顔面が髪と髭で覆われている絵は、どことなくヘルメスを連想させるも……
「どういう意味だ……?」
口にした途端、
「近過ぎます」
フィリスが不満を口にする。
「それは悪い」
リンクは素直に謝ったかと思いきや、手は抜かりなく本を奪い取っていた。
「まさか、絵物語とはな……」
「いったい、どんな内容なんですか?」
今度はフィリスが覗き込んできた。耳に吐息が当たってどうにも落ちつかないのだが、表情からして仕返しのつもりなのだろう。
これでは集中できないと、リンクは二人で読める位置に置く。
「こっち半分、訳してくれ」
子供向けだけあって、翻訳は簡単だった。
細かい文法を無視して、先にリンクが内容を要約する。
「山間の町、大きな吊り橋、両側にある村、二人の男女……恋人同士。ある日、喧嘩する……けど、二人とも明日は謝ろうと心に決めていた」
「でも、吊り橋が落ちて会えない。哀しみに暮れる恋人たち。他の村人たちも悲しみ、涙を流す……その時、奇跡が起こる」
リンクの続きをフィリスが訳し、ページが捲られる。
「昔話に伝わる妖精『アイズ・ラズペクト』が現われた」
「……唐突ですね」
急な展開にフィリスが突っ込む。
「そりゃ、子供向けだからな。一応、恋人たちが仲直りの為に料理を作ったり、花を摘みにいったりするというエピソードもあるようだが……」
「それなら、省略しても問題ないですね」
そう言って、フィリスの番。
「アイズ・ラズペクトは村人たちが流す涙を凍らせて、橋を作っていく。でも、涙は足りない。だから、妖精は告げる。もっと、涙を流せと。そうすれば、橋ができると……」
途中から、彼女の声には嫌悪が滲み出ていた。
「村人たちは泣き始める。今まで言えなかった気持ち、想い、罪までも口にして、涙を流す。そして、ついに橋が完成する。吹雪にも負けない、冷たくとも熱い、妖精の加護を授かった橋が――」
ラストをリンクが読み終える。
フィリスのページには、大きな橋の絵が描かれているだけだった。
「……それで、めでたしめでたしですか?」
「あぁ、そうだ。氷涙の橋は永遠に溶けることなく、村人たちを祝福しましたとさ」
「最悪ですね」
含まれた風刺に気づいたのか、フィリスは吐き捨てた。
妖精は王、村人は民、涙は税。
けど、リンクにとってはそんなのどうでもいい。
大事なのは何故、ヘルメスがこれを欲したのか。あまつさえ原本を。それも読む為ではなく、処分する為に――
リンクが目を通したら、燃やせというのが客の要望であった。
「読めばわかる……ね」
そして、これが報酬だとも彼は言っていた。
「いったい、誰があなたに吹き込んだんですか?」
「さぁ? あれはいったい、誰だったんだろうな」
誰にも見られたくない癖して、ヘルメスは処分をリンクに託した。騙されると疑っていないのか、それとも試しているのか。
どちらにせよ、もう商人たちはいない時間だ。
「ふざけているんですか? それとも、答える気がないんですか?」
そもそも、フィリスに知られている時点で客の信頼を裏切っている。
「フィリスはなにも感じなかったんだよな?」
「えぇ、陳腐な物語だと思います。風刺に関してもあからさま過ぎですし。それより気になったのは、どうして本のタイトルでなくて、『アイズ・ラズペクト』で探していたということです」
指摘され、気付く。
『アイズ・ラズペクト』は登場人物の一人に過ぎないと。
つまり、ヘルメスにとって問題だったのは『アイズ・ラズペクト』が登場する場面。
それは物語の中では妖精であり、現実に仮託すると王になる存在。
そして、その役割は――
「……そうかっ! そういう、ことか」
現実にできるかどうかは定かではないが、ヘルメスの目的はわかった。
いや、もしかすると彼は既に達しているのではないか。
ヘルメスはアトラスで商隊に合流したという。なに食わぬ顔して、何処から来たのかも悟られず、いつの間にかそこにいた。
もしそれが本当だとすれば、アトラスは陥落する。
帝国は前提を間違っている。冬だから、山脈超えがあり得ないのではない。
――冬だからこそ、あのバビエーカ山を超えていけるのだ。
「なにが、わかったんですか?」
「悪いが言えない」
リンクは即答した。会話を打ち切り、自分の思考に没頭する。
今まで出せなかった答えが、やっと垣間見えた。
分不相応の願いに手が届く予感に、身震いすら覚える。
「あの、リンク=リンセント?」
フィリスが声をかけるも届かない。
ぶつぶつと独り言を漏らしては、自分の頭と格闘している。
その様子を見て、フィリスは呟く。
「えーと、もしかしてこれ……私が片付けるんですか?」
室内の現状すら忘れているのか、リンクは一向に動こうとしなかった。
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