第三章 『SAVED.』04
――三日経つというのに、まだここに来ると指が震えてしまう。
あの程度なんだというのか。これからまた再び、がんばらなくては。自分の頬を叩いて、大きく首を振って気合いを入れる。
そうだ、あのくらい、なんでもない。――なんでもない。
セーラー服の襟を直し、スカートを払い、何度かジャンプして靴と足をなじませる。
御先真望は、ひとり、夜の第八公園にいた。
フェンスに囲まれたこの場所は、しばらく区役所からの調査が入っていたので、来るのは久しぶりだ。抉られた地面の周りには、カラーコーンと「危険」の札が下がったロープがある。
彼の――東雲と佐々河という彼らの姿はない。
三日前のあの『現出』から、彼らには会っていない。会わないようにしている、ということはないと、自分では思っている。
ここ以外にも、〝揺らぎ〟の濃い場所はたくさんあるのだ。ヒズラギはそのどこにでも現れる。
ここに来ないのは……きっとそういう理由だ。
マナミはそう結論づけて、アプリケーションに頼ることなく、身軽に跳躍を始める。
団地の端から端へ。九号棟、十三号棟、組まれたままの足場、電柱。
スマートフォンの画面で確認するが、おおよそ橙から赤の危険域表示は変わっていない。
今日は当たらないだろうか、そう思ったとき、後方から声が聞こえた。
誰かが来る。そっと身をかがめて、電柱から様子をうかがう。
走る音、男性の声。スマートフォンが震える。ヒズラギだ! 這うように進むヒズラギを追っている誰かが、すぐそこまで来ているのが画面で確認できた。
ヒズラギ捕獲の補助は、免許を持つものの義務だ。
マナミは立ち上がり、直下に飛び降りた。
「ベクターファイブ!」
落下中に構えた光の矢を着地と同時に放ち、やや遠くにいたヒズラギの進行を阻む。
続き、大きく跳躍してヒズラギに近づこうとしたその時。
「〝――東雲朗の名に於いて、式に従い、光よ我が手に!〟」
足が止まった。すぐそこのカーブした道の向こうから、彼の声がする。とっさに街灯の影に隠れる。
彼が持った光の棒が、思いっきりヒズラギをひっぱたき、ヒズラギはバウンドして道の端で動かなくなる。
「や、やっと止まった……けど……」
肩で息をして、手を振って光を消す。いぶかしげに、先ほど光の矢が刺さった地面を見る。
一度肩を竦めると、彼はパーカーのポケットからスマートフォンを取り出し、ヒズラギへ向けた。
「〝――式に従い、世界のひずみを捉えよ! 『封印実行』!〟」
慣れた白い光が視界を埋め、それが収まると、もうそこには何もいなかった。ヒズラギはきちんと封印できたようだ。
ちゃんと補助はした。これでもう大丈夫だろう。義務は果たしたのだ。
マナミはそのまま影から、次の建物の影に移動しようとする。しかし、
「御先さん! いますよね!」
光の矢を放つときの声が聞こえたのか、矢自体を目撃したのかはわからないが、彼は確信を持った視線で、周囲の影を確認している。
「――そこにいますね」
声がこちらを向いた。どうしよう。マナミは焦った。
影のある場所は光の近くでもある。こんなに街灯の近くでは、白い制服が目立ってしまう。
ふと、彼の視線がこちらを向いた。目が合った。見つかった!
「――よかった、怪我とかしてない? 大丈夫?」
彼はなんて優しい表情をしているんだろう。
別に見つかってもどうということはないはずなのに、その気遣う声に身がすくむ。
だって言ってしまったのだ。
三日前の自分の言葉に身を打たれる。
彼を拒絶したのだ。
『そういうの、いらない』と。
「――!」
マナミは身を翻して、また影へ走り出そうとしたが、
「待って、御先さん」
肩を掴まれ、彼の方を向かされる。
決して乱暴ではないが、振り払えないくらいには強く。
思わず言い訳をしながら一歩下がろうとする。
「あ、あの、わたし――」
しかし後ずさるより前に、彼のもう片手がマナミの右手を掴む。強く、大きな男の子らしい手で。
「御先さん!!」
大きく呼ばれる。そして瞳をのぞき込まれる。
暗い街灯でも、相手の瞳の色が茶色だとわかる。
そのくらい近い。そのくらい必死に、彼は自分に話しかけようとしている。
マナミは彼の意思に、小声で返事をした。
「……は、はい……?」
「――これを!」
ぱっと両手を離して、彼は背負っていたリュックを探り、それをこちらに差し出した。
「一緒に食べませんかっ!?」
「――――へ……?」
リュックから出てきたのは、両手に乗るような、普通のサンドイッチボックスだった。
「――意外と、ベンチはまだ残ってるんですね……!」
「う、うん」
そんなわけで、二人は少し離れた、団地の中の名もない公園にいた。
遊具で作られる影もなくすため、もう砂場しか残っていないが、ベンチはまだ存在していた。
サエはビニールシートを出し、ひとつだけ残っているベンチに掛ける。小学生が使うような、動物がたくさん書いてあるものだ。もちろんユウカのチョイスである。
どうぞ、と席をすすめると、それでは、とマナミが左側に座る。
リュックを挟んで隣にサエは座り、続いてお手ふきのボトルを二つ出した。ブルーとピンクで、クマの頭がフタについている。これもやっぱり、ユウカのチョイスである。
サエは憮然としながら、ピンクの方をマナミに手渡す。ブルーは自分用だ。
開けると中のタオルまでかわいいクマ柄で、思わずマナミは吹き出してしまった。
「こ、これ……」
「もちろん、おれじゃないです……」
「あ、そうだ、それ」
マナミはちょっとだけ眉を寄せた。
「敬語、やめにしない? 高校生だよね?」
「は……う、うん。なんかつい……」
「普通に話して、ね?」
「……うん、うん」
彼は言われたことを覚えるように、ゆっくり頷いた。なぜか顔が赤いが、なぜだろう?
「――それにしても、佐々河くんって、かなりおもしろいひとなんだね……」
気が抜けるような表情のクマを見ていると、彼とは気まずかったはずなのに、自然と笑ってしまう。
マナミは心地よい冷たさで手を拭い、それを仕舞った。
次が本題だ。サエの手にあるものを見る。
「それで、さっきの、だよね」
「うん、……これです」
再び差し出されたのは、先ほどのサンドイッチボックスだ。マナミが蓋を開けると、
「タマゴサンドだ!」
「あ、あのですね! これには訳があるんです! あの!」
なぜか焦って説明をしようとするサエに、マナミは落ち着いてと手で示す。
サエはこくこくと頷き、それから、手をもじもじさせながら、言い訳を続ける。
「――あの、おれ、家事は時々するくらいで、料理なんてそんなにできないんだけど、でも、これだけは、タマゴサンドだけは、割と家族にも好評で、時々作ってくれって言われたりして、ユウカも……佐々河も、おいしいって言ってくれて、ええと、全然スーパーで買えるような材料で、卵もパンもごく普通なんだけど、中身のタマゴの味付けがいいらしくて、だから、御先さんが嫌いじゃなければいいんだけど、だから、その」
そっと、そのサンドイッチをひとつ手に取り、真剣な顔でマナミに差し出してくる彼。
もちろん、マナミはタマゴサンドは嫌いではない。どちらかというと好きな方だ。
でも、彼をあんなにひどく拒絶した自分に、それを受け取る権利はあるのだろうか。
「――――」
「――おひとつ、いかがですか」
あまりにもじっとこちらを見てくるので、マナミは困った。むしろ、受け取らない方が失礼かもしれない。
そもそも、その、「おいしいと周りから言われるタマゴサンド」を、食べてみたい。
「いただいても、いいの?」
「うん、どうぞ」
「――うん」
頷いて、彼の手から、白くてふわふわのパンを受け取る。
マーガリンと、卵とマヨネーズ、パンの匂い。
胃に訴えかける香りだ。瞬きして、声と共にちいさく頭を下げる。
「――いただきます」
「めしあがれ」
――はくっ。
まずひとくち。
確かに、普通の市販のパンだ。慣れた味がする。それにマーガリンが薄く塗られていて、小麦の香りが倍に広がる。卵とマヨネーズも、よく使われているものの味がする。どこまでも普通だ。
それなのに、この、少し強めの塩味と、やや効いているこしょうの味が実に絶妙である。
シンプルな具で、ごく普通の材料なのに、
「……おいしい」
口からちいさく言葉がこぼれた。
本当においしいものは、それ以外の感想が出ないのだと自然と理解できた。
それを聞いた彼は、ぱっと顔を輝かせ、前のめりにマナミに尋ねる。
「ほ、ほんと!? あの、今日も本当にいつも通りのサンドイッチなんだけど……」
「おいしいよ、ほんとうに」
「あ、そうだ、紅茶もあるんだ。ぬるめで普通のダージリンだけど、紅茶は平気?」
「うん、紅茶好きだよ。いただきたいな」
「わかった」
頷いてサエがリュックから取り出したステンレスの水筒。
を見て、サエがちょっと止まる。マナミは思わず吹き出す。
シルバーのボトルには、見事にデフォルメされたウサギの行列が描かれていた。
行列とは、比喩ではない、本当に行列式で描かれているのだ。
「――もう水筒にはつっこまないで……これユウカの手書きなんだ……」
「それは無理だよ……! これおもしろいもん……!」
ひとしきり笑ってしまって、佐々河くんはすごいなと思う。
おそらく、さっきのもこれも全部、少し気まずくなってしまった、自分たちのことを考えた結果、揃えられ道具なのだ。
サエから紙コップの紅茶を受け取って、ゆっくり喉を潤す。
東雲くんは、佐々河くんに大事にされてるんだな、と思うと同時に、そんなに大事にされている彼も、とてもいい人なのだと、じんわり伝わってくる。なぜか、頬が緩んでしまう。
「――実はね、わたしサンドイッチも好きなの」
「えっ、そうなの!? じゃ、じゃあもっと……なんかハムサンドとか作った方が良かった……かな?」
「ううん、これが、ほんとにおいしいから。もう一ついいかな?」
「うん、どうぞどうぞ!」
マナミは遠慮なくタマゴサンドをいただいた。
こちらが『おいしい』という度、それだけのことなのに、柔らかく微笑む彼。
それがあんまりにも無防備で、またマナミは笑ってしまった。
「なんていうか、東雲くんって、あけすけすぎだと、前から思ってたんだけど」
「え、そ、そう? おれってわかりやすい?」
「うん、うれしがってるのとか、すぐわかるよ」
「うう……、それは、御先さんが、ちょっと難しい感じなだけじゃないかなあ……いつも、にこにこしてるから」
少し困ったような顔をして、彼はそんな風にマナミの癖に触れた。
「……むずかしい? 笑ってるのに?」
笑っているのだから単純だろう。そう思って、笑っているのだけれど。
マナミが返すと、東雲くんは紅茶を飲んで、少し首を振った。そうじゃない、と。
「笑ってるから難しいんだよ。ほんとにうれしいのか、ほんとは気にしてるのか、わからない」
「……そんなこと、考えてたの?」
「もちろん」
彼はこちらを見て、しっかり頷く。
きょとんとして、マナミは尋ねた。
「なんで?」
「……あのですね」
彼は意図して敬語を使った。体ごと向き直り、以前のようにまっすぐこちらの目を見て。
「おれが、御先さんのことを好きだからです! 好きな子がなに考えてて、なにがうれしくて、なにが好きなのか、気に、なるでしょ……」
最後は声が小さくなってしまったが、しかし彼はじっとマナミを見ている。
「…………」
夜の空気に、手に持ったぬるめの紅茶の温度が心地よい。
彼の視線を受け止めて、マナミは何度か瞬きした。
頬が熱いのは、たぶんサンドイッチを三つも食べたから、ではない、だろう。
「――……ほんとに、わたしのこと、好きなんだ、ね……」
ただただ、彼の台詞を繰り返してみてしまう。
そっと風が吹いて、それが収まるまで、ただじっと、見つめ合って。
「――――っ!!」
ばっ、と同時に二人は別方向を向いた。
とてつもなく気恥ずかしい思いが、二人を耳まで赤く染めている。
「もも、もう少ししたら、今日は帰ろうか! ヒズラギも、出ないみたいだし!」
「う、うん、そうだね、もう十一時過ぎそうだし……!」
二人はそれぞれ頷いて、息をついてから座り直した。
なんとなく間が開いたが、サエがそっと切り出した。
「御先さん。……もし良ければ、家まで送らせてくれませんか」
「……う、うん、了解しました……」
そして二人は、もう少しだけ紅茶を飲んでから、ささやかなピクニックを片付け始めた。
慣れた夜の帰途なのに、お互いにいつもとは違う感触。
マナミは一人ではないし、サエは好きな子の家まで行くからだ。
少しだけマナミが先に歩き、サエは手の届く距離で彼女を見つめている。
二人はいつもの、フェンスに囲まれた、コンクリート敷きの第八公園に通りがかった。
マナミが振り返って、サエに尋ねる。
「――ねえ、何でこんなアルバイトしてるの? この間みたいに危ないことだってあるのに」
「……えーっと……」
サエは少し考えてから、足を止めた。つられてマナミも立ち止まる。
「その、三年前に、ここがこうなったときに、決めたんだ」
「三年前……?」
二人で、フェンス越しにその場所を見つめる。赤いカラーコーンと、抉れた地面。
「かなり大きなニュースだったから、知ってるかもだけど……。
この第八公園――コンクリート敷きのところが、ほぼ前触れなく「外世界」に飛ばされたことがあってね。おれの父さんも母さんも、姉ちゃんも、『扉』に関係する仕事とかをしていて……その時も、すごく忙しくて。
おれは当時はまだよくわかってなかったけど、そこからいろいろ、自分で調べたりするようになってさ。あんな事件が起こらないようにするには、つまり、突然『現出』が起きてしまう前に気づけるように、〝揺らぎ〟を常に監視するものが増えればいいんだろうって、すごく単純に考えて、だから、十六歳ですぐ免許を取ったんだよ。
なにもかもが急に消えるなんて、どんなに大変だろう。前触れなく生活が変わるのも、どれだけ辛いだろう。
そういう、誰かが大変になることも、近しい人が困ることも、減らしたくて。
なんていうか、自分でできることで、何かを守れたらって。
――何かを守りたいと思ったから、アルバイトをはじめたんだ」
マナミは隣でそう語る彼を見た。
この間の『現出』箇所を見ている、とても真剣な瞳。
すぐに笑ったり、喜んだり、驚いたりするように、一番本当のことを言っているときも、彼はすぐにわかる。
――――自分は、どうだろうか。
「御先さんは? どうしてヒズラギを?」
サエがこちらへ問いかけてきた。
マナミは、また再び、笑顔になる。
銀髪を結ぶ黒のリボンにそっと触れながら、言葉を続ける。夜闇に向かって。
「――どうしても、かなえたいことがあるんだ……」
「――えっと、送ってくれてありがとうね」
「いや、ほんと、女の子一人は心配だし、これならこっちも安心できるから、良かった」
十階以上はありそうなマンションの明るいエントランスで、二人は向かい合っていた。
サエは無事に送れたことにほっとして、リュックを背負い直した。微笑んでいる彼女に言う。
「それじゃあ、また、……また、会おう」
「うん、また、ね」
彼女は鍵を差し回して、手を振りながら自動ドアの向こうに帰って行った。
手を振り返して、エレベータに消えていくマナミを見送ると、サエは、大きく大きく息をついた。
そのまま危うく膝から崩れそうになるが、なんとか立ち直る。
――いろんなことがいっぱいありすぎて、そろそろ許容限界になりそうだ。
三日ぶりに彼女と出会い、夜の公園で自作のサンドイッチを食べ、そのまま一緒に歩いて家まで送るとか、なんだこれは、昨日まで考えすらしていなかったぞ、なんだこれなんだこれ!! とりあえず、動けるうちに歩き出そう。よろよろとマンションを出る。
急激なイベントの回想と思考の混乱がまとめてやってきて、サエは頭から湯気が出そうな気持ちになった。
とりあえず、うれしすぎる、という気持ちが先に立って、耳まで赤いのはわかっている。
走って帰ろうか、なんて気持ちになってきて、〝光的補助〟を詠唱し、ストライド長めで跳躍を繰り返す。夜風で頬が鎮まっていく。少し湿った風が気持ちいい。
今日言ってくれた『また』は、きっと本当に次があるという意味のはずだ。
そう思いつつ、街灯の上に立つ。
三日前のあの言葉から、今日の笑顔を考える。
――たったサンドイッチと紅茶ひとつのことだけど、彼女への優しさや大事にしたい気持ちは、伝わっただろうか。
しかし、家まで送らせてくれたのは、一歩近づけたということに違いない。
――今度は、昼に会いたいな。昼間の銀の髪を、見てみたい。
自分の欲張り度合いに呆れる気持ちと、きっと綺麗だろうと想像する気持ちもまとめて、サエは自分がとてつもない幸せを感じていることを知った。
なにかを叫びたいような気持ちもしたが、夜なのでそれは抑える。
好きだ、という言葉が、もっと伝わって、もっと自分の力で、彼女を守れたらいい。
勝手に沸き上がる気持ちを、サエは大事に使っていこうと決めた。
彼女のことを思い、彼女のことを考えて、正しく使いたい。
『守りたい』からはじめた、『封印実行』と同じように。
サエは夜の追い風を捕まえて、家へと走るその速度を上げた。
彼女の好きなものを作り、そして彼女が「おいしい」と言ってくれたこと。
その事実が、いまはただ一番、うれしい。
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