第三章 『SAVED.』01
チャイムが鳴り、四時間目の数学は終了した。
窓際の席、前から3番目のサエは、大きく息をついてからぐっと伸びをした。
そろそろ梅雨に入ろうというのに、窓から吹く少し湿った風はやや肌寒い。
カーテンが揺れるのを見つめながら、ぼんやりサエは思う。
いやあ、数学二時間連続が週に二日もあるなんて、去年は想像すらしてなかったな……。
問題集とノートと黒板を交互に眺め、とりあえず今日は理解不能な部分は少なかったと確認して、サエは机の上を片付けた。しかし、実に大変おなかが空いている。
「サエ、これあげる」
半額! と目立つシールの貼られた、コロッケパンが視界を埋めた。
「おー、ユウカありがとう。なぜか数学の後はおなかが空くんだよな」
「頭をたくさん使うから」
ひょい、と、パンの横からユウカの顔がフレームインした。後ろの席から移動してきたようだ。相変わらずの無表情で小首をかしげる。
「お昼を食べよう。あと、昨日のバイトの話も聞かせて」
「うん、わかった」
一応この学校は進学校だと言われているが、サエとしては「がんばらないと進学できない高校は、進学校とは呼べないんじゃないだろうか」と思っている。
このクラスは理系大学進学希望のクラスであるため、冒頭の通り数学の授業が厳しい。実は英語の単位も全部で六種類あり、実際かなり厳しいのであるが、当人たちは気付かないものである。
理系クラスだけに、女子は少なめだが、そんなところに一喜一憂している者はあまりいない。一年後の自分がどうなっているか、そこが今の彼らの最も重要なことなのだ。
そんな中では、サエとユウカは微妙に浮いていると言える。
二人とも、『扉』関連の学部がある大学に行きたいと思っているからだ。
理系か文系か、という話だと、『扉』関係は一応理系に所属するらしい。世界の法則を塗り替える存在には、まず世界の法則を知ってからでないと立ち向かえない、とのことだ。
かといって、社会に影響を与える、という実務的な問題になると、心理学、政治学、法学などの文系的知識が必須となる。
結果として、どっちの道を進むか、志望校で選ぶことになるわけなのだが。
もらったコロッケパンを食べ終え、続いて今日は母が作ってくれた弁当に手を付ける。
ユウカならどんな道を進んでも問題ないだろうけど、おれはそんなに頭が良くないってわかってるしな……。
生まれて十八年で人生が決まるのは良なのか、と一瞬考え、そんなことより昨日の話をユウカにすべきだと、気持ちを切り替えた。
「えーと、ユウカ、報告する。昨夜は第八公園を重点的に周回。注意喚起看板等は特に変化なし。ヒズラギは三匹捕獲。変わったことはなくて、いつも通りだったよ」
「ふむ」
ユウカは報告を聞き、ちゅー、と、紙パックのミルクティを飲みながら頷き、不意に尋ねた。
「――その足の怪我は?」
「えっ!?」
「足。歩き方がちょっと不自然だ。ズボンの上からでもわかる」
「わ、わかるんだ……」
「佐々河さんをなめてはいけないよ。パートナー相手に隠し事は良くない」
冗談半分に残念そうな顔で首を振るユウカ。ごめん、と素直に謝るサエ。
「うむ、謝ったから許してあげよう。それで、どしたの? 両足とも痛めてるみたいだけど」
「ええと、ちょっと無理矢理団地から飛び降りなくちゃいけなくて、着地も強引にやったから」
「〝変わったことはなくて、いつも通り〟とは、到底言えないなあ」
「すいません……」
「今も痛むの? 病院は?」
「家に着いたのが十一時だったから、病院とかは行ってないけど、でも、そんなに心配するほどの怪我じゃ……」
「痛いの?」
「……はい、痛いです」
さすがに人を抱えてあの着地は無理があったらしく、膝やふくらはぎあたりが熱を持っているようだ。実際のところ、歩くたびに足に痛みが響く。
サエが正直に言うと、ユウカが無表情の次の段階である真顔になった。無言で見つめてくる。
「……………」
「ちょっとだけ、ちょっと痛いだけなんだよ!?」
慌てるサエに、ふぅ、とユウカは肩をすくめた。視線をさまよわせるサエを、真顔のまま、じっと見る。
「――パートナー相手に隠し事は?」
「もうしませんので、許して下さい」
「わかった。じゃあ、保健室行こう。それじゃ体育にも毎日のバイトにも、俺と帰るのにも差し障る」
「うっ、先生のところに行くの!?」
「養護教諭は彼女しかいないだろう。あきらめろん」
行くよ、とミルクティ片手に立ち上がるユウカ。もう片手をサエに差し出してくる。
機嫌が直るまでは素直に従っておこう。手を引かれて椅子から立ち上がる。
手を取られたまま教室を横断していくが、他の友人にはいってらっしゃーいなどと言われて、昼休みの騒がしさに紛れてしまった。
ユウカのこういった奇行は、いつものことなので。
扉を開けると、白衣の小さい影が腰に手を当てて高笑いをしていた。
「はははははは! よく来たな少年たち! 我が白衣の軍門に
「今日もテンション高いっすね、先生」
「よし、サエは〝らいな先生〟と呼ばないと治療しない」
「二秒で拗ねた!?」
そういうわけで、保健室である。
合唱部部長の気まぐれで、みんなで身長を測っていたときに来て以来だ。つまり先週ぶり。
ちなみに、サエは陸上部と合唱部に所属している。どういう選択なんだ、と言われることも多いが、陸上部は走ることを練習したいからで、合唱部は友人に頼まれた助っ人要員だ。
学校の方針なのか、どの部活も「やりたいやつは真剣にやればいい」と生徒の自主性に任されている。そのため、どちらの部活も「別に大会に出たりはしない」程度のかなりゆるいものだ。そもそも、「部活動は週に三回、十七時まで」と制限されている以上、そうそうびしっとした練習ができるはずもないのだが。
「で、今日は何だ、体重を量りに来たのか?」
「そんな二番煎じな事はしません」
「まあ、あの部長なら胸囲を測りたがるだろう」
「そうですね……」
「さすがあの人だ」
やや変態で有名な合唱部の女子部長に、なぜか感心するように頷くユウカである。
ともかくサエは目の前の女性に話し始めようとした。
「先生、あの」
「名前呼ばないとお前の話を聞かない」
「カノジョか!」
つーん、と、そっぽを向いて口元を拗ねさせているのは、國鈴高校養護教諭である。
どう見積もっても成人しているとは思えない背の低さ(サエの肩くらいまでしかない)だが、それでもタイトスカートのスーツにリボンタイのシフォンシャツを着込んでいると、それなりの年齢に見えるから不思議である。
そして何より目立つのは、その赤い髪だ。赤と言っても薄い朱色などではなく、真夏の夕焼けのような赤橙色。柔らかな癖毛で、自然に肩下あたりまで流している。
とても色白で、そばかすが散っているところも含め、「体はロリで、そばかすはファニーで、顔立ちはノーブルで、〝アンバランスかわいい〟だろ?」と、たいそう自慢であるらしい。
ちなみに瞳の色は深い海の青色で、「ヒズラギ憑き」であることを示している。
「あー、はい、
「下の! なまえ!」
「……らいな先生、ちょっと怪我したので、診てもらえますか」
「いいともー!」
らいな、と呼ばれた途端、相好をあっさり崩しててきぱきと準備を始める。
養護教諭は、「日暮里らいな」という名前だ、と言い張っている。ここまで偽名過ぎると、逆になぜ偽名なのか尋ねる気が失せるものだ。
身分証明書は? と聞いたこともあるが、保険証、普通自動車免許証、マイナンバーカード、もろもろはすべてテプラシールで「日暮里らいな」と修正してあった。
それっていろいろダメなんじゃないだろうか、と心配するのは、もちろんサエだけである。
「地味にレンタル屋さんの更新が困るんだよねー」なんてぼやいている程度だから、意外と個人情報って守る事ができるし、書き換え可能なのかも知れない。ユウカとしてはそう思う。
らいなはもう一つ椅子を用意すると、そこに両足を乗せるようサエに言った。
「で、足だよね? 歩き方がぎこちなかったぞ」
「はあ、そうです。ちょっと着地に失敗して……」
「なんで着地に失敗したのだ?」
「いや、それが、ヒズラギが既に何かに取り憑いてて、動きがものすごく早くてですね、追っかけてたら、団地の屋上から変な風に落ちることになりまして……」
「いつもの〝光的補助〟はつけてたんだろう? 一人分の体重なら問題ないはずだが」
「あー……」
いきなり核心を突かれてしまうサエである。
おもいきり目を泳がせて、
「えー……」
「そこで何も思い浮かばないから、俺はサエのことが大好きだよ」
「うるせっ」
「で、なんでだ、東雲?」
「はい、〝パートナーに隠し事は〟?」
「〝しません〟……」
視線を落として、諦めの境地。
サエは素直に、昨夜マナミに会い、一緒にヒズラギを捕獲して、名前を教え合い、携帯の番号も交換したのだと話した。
「へえ、引っ越してきたばっかりのヒズラギ憑きちゃんか。御先真望……と。こっちにも、そのうち情報が来るかもな」
「やったじゃないかサエ、俺のいないところでそんなリアルが充実しているなんて!」無表情だがユウカはそう言う。
「で? なんで足の怪我をしたんだ?」
「うー……」
「ネタは繰り返さなくていいぞ」
「わかったよ……言うよ……」
続けて、ヒズラギを捕獲した際、マナミが屋上から足を滑らせたから、それを空中キャッチして無理矢理着地したのだという話をした。
「――無理しすぎ」
あ、ユウカが怒っている。真顔の次の段階だ。怒ってる。
怪我をしたり、自分を省みないことをすると怒るのは、小さい頃からのユウカの過保護なところだ。こっちはもうちゃんと成人近い男子だというのに。
「しょ、しょうがないだろ、気がついたら動いてたっていうか……」
「ほうほう、どんな感じで助けたんだ?」
「こう、両手で、」
先生に言われるまま、さっと両手を前に出す。
「へー」
先生はにっこりと笑った。
「そのポーズなら、相手をお姫様抱っこ、しかないね。そりゃー足にも負担がかかるわ」
「――はぅわ!」
「やっぱりサエのリアルが充実している……。かなしいなー、俺は画面の向こうにしか好きな女の子いないのになー」
「まあまあ、わかったよ、充実している東雲くん」
らいな先生はそう言うと、よいしょ、とサエの制服のズボンを両膝までまくり上げる。
「バイトもあるし、すぐ痛みが減った方がいいよね。普通の手当だと湿布で冷やすくらいしかできないから、ちょっと手を加えるよ」
手を加える、というのは、らいなの持つ超常的能力を使うということだ。
そういう治療って、許可とかなくて大丈夫なのだろうか。そう思わなくもないが、このらいなの治療がいろいろなところで役立っているのを知っているし、サエも恩恵もたくさん受けているので、ここは都合良く気にしないことにしている。
サエの両膝にそれぞれ手を当て、らいなは静かに唱える。
「〝――淡く沈む光よ、其を飛び越え、可逆の癒やしを〟」
呼ばれたとおりの薄い緑の光が、らいなの手に現れた。そしてそっとサエの膝に移り、そのまま円を描いて足の中へ消えていくと、膝やふくらはぎの熱を持った痛みが、すうっと溶けるように治まっていく。
何度体験しても不思議な現象だが、つまり、癒やしの力を体内に直接送り込んでいるのだそうだ。ちなみに、怪我の状態は「見りゃわかる」というのが本人の言い分である。
一呼吸置いてから、手を離した先生がにっこり尋ねてきた。
「どうかな、痛みは引いたんじゃないか。ああ、骨は大丈夫。ちょっと筋を痛めてるみたいだけど、今ので走っても大丈夫にはしておいたから」
「はい、痛みはほとんど引きました。ありがとうございます」
「でも、誰かを抱えて飛び降りたりするまでは回復させてないからね」
「はい……」
するとそこで、黙っていたユウカが尋ねた。
「御先さんとは、すんなり会話して帰ってきたの?」
「うん、えと、普通に、学校のこととか話して、女の子一人じゃ心配だから、次は三人でヒズラギ捕まえようって……」
「ふむ。そんで、ばいばーいって?」
「う、うあ」
「――なんか隠してるでしょ」
ずばっ。ユウカは鋭い。いつもぼんやり無表情なのに、鋭いときは本当に鋭い。
詰問は続く。
「〝もう一回会いたいから、もう一回出会ってみせる〟って言ってたよね」
「はい、言いました……」
「え、どしたの佐々河……なに、うそ、東雲が一目惚れなの、なにそれおもしろい」
「おれの周りにはおもしろがる人しかいないのか」
「思い出すと照れるくらいに恋した相手と二人きりなのに、何も言わないサエじゃないよね」
「むぐぐぐ……」
もうサエの顔は真っ赤である。昨夜のことを全部反芻している。
だって言ったのだ。気持ちを思い切りぶつけたのだ。
好きだとか、助けたいとか、また会おうとか。
「好きだとか、助けたいとか、また会おうとか、言ったでしょ」
思い切りユウカの言葉が刺さった。胸が痛い。あと耳も熱い。
ユウカは腕を組んで、ふるふると呆れたように首を振る。
「あのね、さすがにそのくらいは俺でもちょっと考えればわかるけど、まさかほんとに言ってるなんて思ってなかった」
「はー、東雲スゲーな。お前、ちょっとバカで正直ないいやつだと思ってたけど、バカ正直の方だったのか」
「変わってなくないですか!?」
ものすごくおもしろがっているらいなに、半分泣きながら、きちんとつっこみを入れるサエ。
「おれだって悩んでるのに……」
「ほう、リアルが充実しつつあるサエちゃんに、どんな悩みがあるのかな」
「うるせー、〝ちゃん〟とかつけるなユウカちゃん。
――いや、あの、……彼女が、ずっと、笑ってるんだよ……」
「笑顔なことに問題があるのか?」
「だって、どんな話してても笑顔なんですよ。辛そうな話しても、おれが、心配だとか、す、好きだとか、言っても……」
「単に脈がないだけなんじゃね?」
「先生ざっくり言ないでください! おれもその可能性があると思ってるから泣きそうなんです!」
泣きそう、どころではなく七割くらい泣きながら言うサエ。
ユウカはふむ、と腕組みから片手を顎にやり、
「まあ一昨日会ったときから、笑顔だなー、とは思ってたけど、ほんとにそうなんだ」
「うん、その……ヒズラギ憑きって事で、いろいろ、あるみたいで。あんまり人に言う話じゃないと思うから、いま詳しくは言わないけど」
「ま、よくある話なわけなんだな、それは」
さらっと、らいなが足を組みながら二人に言う。サエは疑問符を出して問う。
「よくある?」
「東雲は、親がいろいろやってるからちょっと聞いたことあるんじゃないか?
ヒズラギ憑きって、まあ、いろんな見方をされるからな。ライフイベントとして、良い方向に捉えられることはあまりないんだ」
「あ、母が……そこを最初に何とかするのが仕事だ、って言ってました」
「そういうこと。専門家が出てこなきゃいけないような事ってわけだよ。
病気なら医者に行くように、借金の相談なら銀行に行くように、君ら生徒が困ったら、我々先生に聞くようにな」
「…………」
サエは沈黙した。彼女の左のえくぼを思い出す。
いつも笑わなければ言えないような、笑わなければいられないような、そんな『専門家が必要な』出来事とは、どのようなものであろうか。
「――俺も手伝っていいか、サエ。図書館に行けば、そういう本もすぐに見つかる」
ユウカはサエの肩に手を置いて、そう申し出た。
サエはそれにちいさく頷き、ズボンの裾を直してらいなに向き直った。
「どうもありがとうございます。がんばります」
「うむ、困ったらまた来るといい。今日みたいに楽しい話も聞かせてくれ」
と、そうだ、とばかりに、スマートフォンを白衣から取り出し、なにやら操作する。
「ああ、知り合いから、メールが来ててな。
あの、第八公園だったか、三年前の例のあそこ、〝揺らぎ〟が段々濃くなりつつあるから、気をつけるように。もしかすると近いうち、一斉警戒メールが届くかも知れない」
「「了解です」」
二人同時に答えると、先生は満足そうに頷いた。
「うん、怪我して治って、傷ついて治って、そうやって大きくなりなさい、少年たちよ」
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