電気鏡

2 獣化の記憶

 十一歳の時、私は暗い森の中を何日かにわたってさまよったことがあった。そこはこの国で一番広く、一番深い森だった。目を覚ますと私は天に向かってまっすぐ伸びた大きな木の大きな根の上に横たわっていた。目を擦った時に額に大きなコブができているのがわかった。触らなければ大して痛みもない。目眩もしなかった。

 鹿が私のことを見下ろしていた。小柄で斑点模様の滑らかな毛皮だった。鹿は鼻先を近づけて私の首筋を舐めた。そのせいで目が覚めたのか。

 体を起こす。周りには白い岩がごろごろして、木の根はその岩々を鷲掴みにするように張っていた。岩の割れ目に黒く澄んだ水が溜まっていた。見上げると木の葉の間からそれこそ夜空の星のように点々と空の明りが見えたけれど、それでも空のほとんどは暗く覆われていた。だから水が黒く見えるのだった。下草はほとんど生えていなかった。何年分も降り積もった枯れ葉が沼のように広がっていた。

 時刻がわからなかった。時計はあったが暗くて文字盤が読めなかった。車道も遠い。トレッキングのコースに沿って歩いてきたようだが、木の幹に巻き付けた蛍光色のリボンや岩にスプレーした矢印などといった目印ももはや見えなかった。

 近くに仲間がいるのだろうか。鹿は目の前の窪みに下りていって向かいの岩に登り、また下りて同じように左右の岩に登って遠くを見つめた。私も周囲に注意を向けた。念を入れて目を瞑り、耳を澄ませた。しかし何の気配も感じない。空気は深い出口のない洞窟のように静かだった。鹿も独りなのだ。そして鹿にも森の出口はわからないようだった。むしろ私に頼りたいような様子だった。私も鹿も迷子なのだ。私も立ち上がって窪みの中へ下りていった。横並びになると頭の高さは同じくらいだった。

 鹿はまた私の首筋を舐めた。その舌の重さや弾力、生温かさは、吐きたてのガムを何十人分も集めて包み紙にくるんだみたいな感じだった。決して心地のいいものではない。でもそれは不思議と私の不安を少しだけ和らげてくれた。

 落ち葉の上を歩くと足を取られて進まないのでできるだけ岩や木の根を辿った。それでもあまりに暗くて、自分の足を次どこへ踏み出せばいいのか、一歩一歩目を凝らさなければ判断できなかった。世界の中で自分の足元が一番暗く見えるみたいだった。光を目指して歩こうとしていた。周りの景色は不思議と足元よりも鮮明に見えていた。全周を見渡して少しでも明るく見える方角へ足を向けた。けれどひとたび立ち止まると歩いて来た方角が一番明るく見えた。かといって引き返す気は起きない。別の方角を目指す。そうして森の深い方へ迷い込んでいった。近くの木は後ろへ過ぎ、遠くの木はいつまでもそこに居座り続けた。幹の上の方はどれもまっすぐに伸びているけど、根元が曲がっていたり、二股になっていたり、樹皮が深く禿げているのもあったし、枝の落ちた節の位置はどの木も違っていた。その幹が暗い天井を支える柱のように見えた。これだけの柱があれば岩の塊でできた天井だって支えられるだろう。空を覆う暗い天井はそれほどずっしりと重く感じられた。

 他の動物たちはその闇を怖れてはいないようだった。リスやムササビは木の幹や枝をピンボールのように駆け巡っていた。地面にはたくさんの虫がいて、タヌキやイタチが岩の間に時々目を光らせた。私たちが歩いていくと彼らは木の根の陰に隠れたり枝の上に逃げたりした。

 近寄ってくる動物もいた。

 後ろの方に少し高くなった岩があって、その上に大きな犬がいた。私はいつの間にか警戒を忘れていた。犬の瞳は黒く大きく、じっとこちらを見つめていた。じっとしすぎてむしろ細かく震えているように見えるくらいだった。その瞳孔の奥には何の光もなかった。全ての光はそこへ吸い込まれ、二度と出てくることはない。

 私はぞっとした。そして鹿に触れようとした。けれどそれとほとんど同じタイミングで鹿は逃げ出した。背中を向けて岩の上を飛び跳ねるように逃げた。

 犬は一匹ではなかった。群れになって鹿を追いかけ、そして視界から消えた。

 私はゆっくりと後を追った。見えなかったが気配があった。何だろう、他の生き物たちが彼らのために道を開けたような痕跡があった。変に静かなのだ。岩を登り、木の根を踏み、落ち葉の沼に下りて足元に転がっていた石を拾った。

 やがて犬の群れが岩を囲んでいるのが見えた。立ち止まった。彼らも鹿を食べるのをやめて顔を上げた。目が合った。

 その時わかった。さっき私が狙われなかったのは鹿が逃げたからだ。私が逃げなかったからだ。その時もまた犬たちは立ち止まったままだった。私の方から近づいたからだ。

 さらに岩を登っていくと犬たちは少し下がった。体を下げただけではない。後ろに踏み出したのだ。その時私は持っていた石を投げた。それは真ん中にいた犬の肩にあたった。犬はよろめく。私が近づいていくと群れは吠えながら逃げ出した。動物は自分に背中を向けないもの、逃げていかないものが恐いのだ。追ってくるものが恐いのだ。だが肩に石を食らった犬は足を引きずって遅れ始めた。私は石を拾ってその一匹を追った。捕まえて揉みくちゃになりながら石で頭を殴った。

 犬は気絶してぐったりした。その体が急に重くなった。頭の大きさは人の二倍くらいあって、目玉も大きくて、尖った口なんか開いたら上半身が丸々入ってしまいそうだった。体は人間の大人なんかよりずっと大きかった。口の回りが赤黒く汚れていた。

 犬の腹に抱きついてみると乾いた埃のような匂いがして温かかった。心臓はきちんと動いていた。毛並みは少し硬くまっすぐで、撫でると滑らかで風の吹いた草原のようだった。しばらくそのまま抱きついていた。

 とどめを刺すべきではないような気がした。この犬、群れが私を傷つけたわけじゃない。鹿もやはり死ぬより先に気絶したようで眠ったような顔をしていた。そこに苦しみがあったようには思えない。痛々しく見えるのは全て死のあとの傷だった。それに恨みを買いたくなかった。彼らが群れの一員を殺された時に私を恨むかどうか確かなことはわからない。でもどちらにせよ私には群れの他の犬までは殺せない。私の手の上にあるのはその一匹だけだった。

 私は森の中を歩き回った疲れのせいでいつの間にか眠りこけていて、目を覚ますとすでに犬はいなかった、私は固い岩の上に直にうつ伏せになっていた。下敷きになった腕に岩の表面の跡がついて軽い内出血になっていた。鹿の体もなくなっていた。ただ掠れたような血の跡が岩肌の上に残っていただけだ。もちろん生きている鹿の姿もなかった。自分の襟を抓んで鼻に近づけるとさっきの犬の匂いがした。

 立ち上がる。不思議と森の暗さは不気味ではなくなっていた。じめじめと湿っていた落ち葉と苔の地面もただ瑞々しく見えた。

 犬も鹿も消えた。森は暗く寒かった。視界はない。時刻も方角もわからないままだった。物は目では見えなくて、けれど他の感覚を合わせて補完した。見た。音の抜ける方が開けていた。そこに木の幹はない。虫の足音を聞いた。地面には無数の生き物がいた。そしてどんぐりが落ちていた。根と岩の間に水溜りがあり、鳥たちが順に舞い下りて水浴びをしては飛び立っていった。

 そうしてまた何日も風上に向かって岩と木々の間を歩いていくとわずかな水の流れがあり、それを辿って沢を歩いていくと人間の道に交差していた。白いガードレールのついた簡素な橋が小川を跨いでいた。

 それは夢というよりも記憶だった。夢と呼べるほど内在的なものではなかった。私の意識が全体の筋書きを把握していて、その中の断片を順番に呼び出しているだけだった。フィルムを映写機にかけるのと同じ。フィルムの中に私は登場するけれど、それは今の私ではないし、当時の情感をそのままに体感することもない。外側から見下ろしている。どちらかといえばその体験はもう他人のものだった。

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