3.1 肉体の無事
それから兵站拠点の港で輸送の編成の問題があって基地に帰るのを一週間ほど待たされた。私はその間中隊の一員として機体の応急修理に従事し、日常業務をこなし、時々檜佐のことを想像した。私の想像の中で檜佐はいつも小さな屋根裏部屋に閉じこもっていた。その部屋は天井が斜めになっていて、天井の高くなっている側にベッドと机があり、低くなっている方に箪笥や棚が並んでいた。床は何年もニス塗りをさぼったようなざらっぽい板張りで、絨毯なども敷いていない。檜佐は大抵ベッドに足を上げて座っている。その姿勢のまま壁に枕を当てて眠っていることもあるし、背筋を伸ばして瞑想していることもあった。
私の想像の中でその部屋の光景は真っ暗な背景の中にぽつんと浮かんでいた。それは最初小さな白い点に過ぎない。それがだんだんと近づいてくるにつれて、微妙な色彩があることが分かり、部屋の形を帯びてくる。やがて背景が見切れ、視点が部屋の中に入っていく。机の横に扉がある。開くのかどうか、その向こうに廊下や別の部屋があるのかもわからない。檜佐が開けようとした形跡もない。でも想像の中に現れるのはその部屋だけなのだ。きっとどこにも繋がっていない。斜めになった天井の真ん中に跳ね上げ式の小さなガラス窓があった。空は明るくて、窓の形に切り取られた光の筋が部屋の空間に突き刺さるように差し込んでいた。その角度は時刻によって違っていた。床や壁に四角い影を落としていることもあれば、檜佐の肩や爪先に当たっていることもあった。時間が経って太陽の角度が変わり、頭の上に光が落ちる。檜佐は顔を上げて目を細める。その様子は荒野の地下空洞に落ち込んだ遭難者を思わせた。世界は果てしなく広がっているのに檜佐がそこへ出ていくことは許されない。景色を見ることも、水を汲みにいくこともできない。一か所に留まり続ける。
苫小牧からの車列が一度止まってゲートをくぐる。中隊の車庫の横を抜けて九木崎の工場前のスポットに牽引車を停める。中隊の車庫・工廠と九木崎の工場は敷地の境界を挟んで隣接していて、間に仕切りがあるわけでもない。コンクリートの広い舗装路で繋がっている。一小隊の任務はほとんど開発系、九木崎絡みのものが多いので九木崎工場前に駐機するのが当然になっていた。
しかし人気がない。九木崎の工員たちがいないのだ。昼休みの時間ももう過ぎている。扉が開いているということは休日でもない。なんだかみんなで物陰に隠れてこっちを驚かすタイミングを見計らっているような微妙な静けさがあった。
工場の中は小隊の機体が出払っている他に普段と違うところはない。いや、あった。装備試験用のマーリファインが二機いない。胸の側面にある機番を見る。三、四号機がいなくなったようだ。
松浦が機体を歩かせてくる。天蓋を開いて上体を乗り出し、「あれ、なんで誰もいない?」とほとんど跨ぐくらいに私の横を通り過ぎながら訊いた。カーベラはエンジン音がしないから声を張らなくても十分通る。
松浦機がスポットに着座。モーターの音も消える。これから腕の交換だ。私の機体は既に整備が済んでいるけど、松浦機は持っていった部品では間に合わなかったのでモジュールごと交換しなければいけなかった。
「押し入れ倉庫だよ」私は言った。型落ちの試験機はそこへ持っていって保管する。新しいカーベラが来たからちょうど入れ替え時期なのだ。工場に人がいないのはそっちへ行ってるからだろう。
檜佐機を牽いた牽引車が入ってくる。肢闘は単に移動であれば操縦手以外がマニュアルで、つまり手にコントローラを握って動かすこともある。だが今の檜佐機はコクピットが丸々外れているので自走できない。通信ケーブルをつなげばコンピュータは起動できるけど、当然制御系は乗っ取れない。牽引車が上手く切り返して檜佐機を台車ごとスポットにつけ、連結器を外して建屋から出ていく。
檜佐機に関してはこれから調査と分解が待っている。修理するかどうかはそのあと決めることだろう。
私と松浦で台車のタイヤに車止めを嵌め、リアフレームについている脚を伸ばす。機体の爪先をひっかけている足かけを外し、足首の関節にクランクを刺して爪先を接地させる。台車の足も接地。そこからかなりハンドルが重くなるが松浦と片脚ずつ息を合わせて回す。タイヤの変形が少しずつ小さくなって最後はぶらんと宙に浮く。紙一枚分でも浮けば動きでわかる。これで安定。
松浦の班員が牽引車の点検を終えて機体の方へ走っていく。軽く挨拶して外へ。私の班の牽引車の横に栃木と漆原がしゃがんでいた。二人とも女。
「何かある?」私は二人に訊いた。
「ロープが」と漆原。後輪の前に手を突いて牽引車の腹の下に手を差し込んでいる。
「どこかで巻き込んだみたいなの」栃木。
私も体を折り曲げてバンパーの下を覗き込む。確かに車輪の付け根の辺りからトラロープの先端みたいなものが垂れ下がっているのが見えた。位置的にシャフトではなくサスペンションだろう。
「スケート取ってこようか?」
「いいよ。トラックのことだし、私が」と栃木が立ち上がる。
「任せても?」
「うん。どこ行くの?」
「押し入れ倉庫。様子見」
「え、電話で呼べばいいでしょ」
「ちょっと歩きたいんだ」それに作業している間でもないと中が見られない。いい機会だ。
工場の横を回って九木崎の社屋の前を通り、木々の間に入る。舗装は路肩の崩れたアスファルト。物干しのような簡素な電線が道沿いに架かっている。二百メートルほど行くと飛行船の格納庫と言っても通じそうな巨大な倉庫が見えてくる。屋根は樹高と同じくらい高い。思った通り正面の大扉が左右に引かれていた。その下に給油車やラフタークレーンが停まっている。中に緑色の作業着もぽつぽつ見える。ベースの色は戦闘服と似ているが襟や裾の縁が白いので九木崎のものだ。
大扉の桟を跨ぐ。棟の陰に入って視界が暗くなった。ボアの太いどろどろとしたエンジン音が反響で重なって籠って聞こえる。遥か遠い天井で換気扇がかたかた回っている。もうずいぶん前に用廃になった型の古いマーリファインが一機、扉の横から倉庫の奥へ向かってゆっくり歩いている。誰かが操縦室に乗り込んでコントローラで機体を動かしているようだ。本当にろくでもないロボットのような歩き方をするので一目でわかる。奥で足を止めて腰を下ろし、ハッチから作業着が下りる。五十メートルくらい離れているので誰なのか判別はつかないが、ともかく数人がかりで胴体のリフティング・ポイントにワイヤーをかけ、それをクレーンが吊って機体の山に積み上げる。また数人が下に入って機体の膝や踵を押さえながら下ろす位置を慎重に見極めている。クレーンのエンジンが唸る。
「ヘキ」上から檜佐が呼んだ。キャットウォークにいた。二階ほどの高さだ。近づいて目を凝らしてみたけど、やはり檜佐だった。どこかに寝かされているものと決めてかかっていたので一瞬その事実をうまく受け入れることができなかった。
檜佐は手摺を離れて壁際の梯子を掴み、一段飛ばしに踏んで降りてくる。錆が出ているので滑れないのだ。オリーブ色の作業服――これは軍用の作業服――を着ていた。ちょっと掌の匂いを嗅いで両手を擦り合わせながら私の前まで歩いてくる。上体の揺れないバランスのいい歩き方。普段通りだ。髪は後ろで縛っている。顔色もいいし、外傷の痕跡は全くない。包帯も、絆創膏の一つもない。
「怪我は?」私は彼女の全身を目視で確認しながら訊いた。
「首がちょっと鞭打ちっぽいけど、あとは平気」
一週間経って色々治癒が進んだ、という様子ではなかった。初めからほとんど傷なんか負っていないといった方が正しい感じだった。
「一月は経過観察」と言って檜佐は手首につけたシリコン製の脈拍計を見せる。
私はちょっと顔を引いた。それがどぎついピンク色なのだ。檜佐自身はその色があまり嫌ではないようだけど、私は目が痛かった。デジタル表示式の腕時計と同じように黒い小さなディスプレイが埋め込まれていて、その中に数字が浮かんでいる。
「外出禁止と、敷地の中でも人のいないところは駄目だって。碧が帰ってきたから今日からは部屋で寝れるよ。ああ、あと操縦も駄目」
「こっちは」私は振り返って作業の様子に目を向けた。
「新しく二機入れるから入れ替えをやってるんだけど、ソーカーがいないから手間取ってる。歯痒いなあ。昼までに終わらせるつもりだったみたいなんだけど」
天井の水銀灯が点いているので倉庫の中は夜の国道のような雰囲気になっていた。青白い光の下に九木崎の古い機材が山積みになっている。文字通り山積みである。ごみの山のようにも見える。スクラップにはしない。一応保管という名目でここにあるものばかりだ。手前の方はまだ一機ずつ離して並べてあるが、奥の方は次第に詰められて折り重なっている。ヤードで自動車が積み重ねてあるのと同じだ。それがここでは脚付きの機械なので綺麗に重ならない。重ねようとするうちに自然と山になる。押し入れ倉庫というのは誰が言い始めたのかは知らないけどそういう状態を形容した名前だ。工員たちがその山に上って古くなったものをまた一機積み上げようと場所を探している。下手に重ねると崩れて側壁に当たる。あまり強い建物ではないから、そうなると壁を突き破ってしまう。見かけに反して決して適当に積んでいるわけではない。
建屋正面のすぐ脇、通用扉の横に掛けてある電話が鳴る。近いが私が取っても意味がない。檜佐でもそれは同じなのだけど。
「はい、押し入れ倉庫です」彼女は飛びついてしまった。「え、檜佐エリカです。うん」
相手は誰だろう。目上の調子ではない。松浦かもしれない。
「二機ね。はい、了解。じゃあね」
檜佐は受話器をかけて現場の監督をやっている加藤のところにたったっと駆けていく。九木崎で死闘整備のヘッドをやっている加藤は部下を二人呼んで工場に戻るように支持を出した。まだ倉庫にも人を残すようだ。
「私たちも戻ろう」檜佐が戻ってきて私を外に連れ出す。
来た道を並んで引き返す。彼女は本当に元気そうだ。歩きも速い。私の方がちょっと追いかけるくらいだった。
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