第3話 存在の大いなる連鎖 その1

 ぼくは頭を下げて生き残る道を選んだ。発狂の先にあるものとして、野枝が表象されていた。神、啓示、預言。そんなことを言い出せば、社会生活が崩壊するのは目に見えていた。ぼくはセラピーを受けるようになった。90分20000円のセラピーだ。セラピストは何十年も前にアメリカで学んだ心理学を最先端の心理療法と言ってはばからない、知能の低いクソババアだったが、これに行くことでぼくは家族の信頼を回復した。家族の信頼を回復しようとしていると信頼されたのだ。

 セラピーを通して、ぼくは社会が要請する「健康な精神」とはどういうものかを学んだ。ぼくたち精神薄弱者はそのレベルに達しておらず、どうにかこうにかそのレベルとの差異を埋めるか、埋めたように見せかけなくてはならない。つまり、ぼくは今一度、妹や野枝を発狂させた闘争領域に戻れるように努めていた。

 ぼくが再び学校に通い出した頃、今度は野枝が学校に来なくなった。もう一週間も、彼女は学校を休んでいる。成績優秀で皆勤の生徒である彼女においては、実に珍しいことだ。ぼくは彼女があの狭いアパートに引き篭もっている姿を想像しようとするが、それはかなり難しいことだ。ひきこもれ、などと言っていた「戦後最大の」文化人もいたが、それにしても引き篭もることもやはり生産様式に規定されていると言わざるをえない。あの狭いアパートで、「家計補助的労働」で家計を支える母を朝見送り、夜出迎える?

 ホームルーム。2度目の進路調査票が配布された。ぼくは誰よりも早く書き込んで、提出し、教室を出た。1時間目の授業が始まるまで、まだ少し時間がある。例えばトイレに行って、胃液を吐くぐらいの時間は。男子用トイレは女子用トイレと入り口が隣接している。ぼくはそこで一人の少女に呼び止められた。伏し目で、いかにも自分に自信がないという類の少女だ。封建制の残滓といった印象。二次性徴が始まっているのかも怪しい、棒のような身体。人間に怯える小動物を見た時のような不快感。

「あの……」

 心臓の鼓動音がうるさく感じられるほどに小さな声。

「野枝がどうしてるか、知ってますか?」

 ウェーブした髪の先を弄りながら、少女はぼくではなく、ぼくの隣に立つ透明人間を見ながら言った。

「知りません」

 付け加える。

「そもそも野枝というのは――」

「あなたと同じクラスの三枝野枝……。あなたの友だち……幼馴染……」

「知りませんね」

 少女はようやく透明人間からぼくへと視線を移動した。その表情に、ぼくはぼくがなにか異形の化物であるように感じた。彼女の伏し目は今、見開かれていた。

「そう……」

 学校のトイレは生徒の数に対して少なく、我々を見る幾つかの目をぼくは既に見ていた。女子トイレに、さらに数人入っていくものがあった。その最後尾にいた別の少女が震える小動物に尋ねる。

「野枝のことなんかわかった?」

「なにも知らないって……」

「なにも知らないってことはないでしょ。なにも知らないということだけは知っているわけでしょう」

「えぇ……?」

 さっさと排便排尿に行け、と思うのだが、こういうことは多分に、ホモソーシャルな友情の確認作業でもある。彼女は案外、髪を直しにきただけかも知れない。

「吉崎、野枝と仲良かったじゃん。付け入る隙がないって感じ」

 ぼくはこの新たな登場人物の顔をまじまじと見た。それで、彼女を追い払えると思ったのだ。だがわかったのは、まだ野枝が中学生の時、彼女と一緒に昼食を摂っていたことがあるという朧気な記憶をぼくが有しているということだけだった。彼女は野枝との対照において、ぼくの強い印象を覚えたはずだった。校則と学校側の監視をすり抜けるほどに淡く染めた髪に、短いスカートと露わな太腿。学校指定鞄から出てくるのはブランド物の財布。中学生にして売春婦の才能に目覚めているような、派手な少女だった。名前は。

「君は――」

 七尾奈々未ななおななみ。名前を言い掛けたが、息を飲み込んで、空気の振動を止めた。

「知りませんね」

「は?」

 七尾奈々未がこんなに低い声が出るとは予期していなかった。ぼくは一歩、後退して距離をとる。

「『君は』なんだよ」

「君はぼくが三枝野枝を知らないということを知りませんね」

 彼女は隣の少女の肩に手をのせて、身体を少し曲げた。見えなくなった顔には笑いが貼り付いているらしい。

「真顔で冗談言わないでよ。吉崎って常に真顔だから面白い。面白くない、百合子ゆりこ?」

「うん……」

 罠にかかった小動物のように返事をする彼女は、百合子という名前であるらしい。

「知らないんだよ、本当に」

「知らない知らないって何回言うの。知らないって言葉がゲシュタルト崩壊してきた」

 百合子が「ゲシュタルトぉ?」と七尾奈々未に聞き、七尾奈々未がゲシュタルト心理学について話している間、あるいは多くの女子と男子とがトイレの前に立ったまま、話すともなく相対し続けている光景を一瞥してはトイレへ入り出ていくということを繰り返している間、ぼくは聖書のあの挿話を想起する。



ペテロ外にて中庭に坐しゐたるに、一人の婢女きたりて言ふ『なんぢもガリラヤ人イエスと偕にゐたり』。かれ凡ての人の前に肯はずして言ふ『』。かくて門まで出で往きたるとき、他の婢女かれを見て、其處にをる者どもに向ひて『この人はナザレ人イエスと偕にゐたり』と言へるに、重ねて肯はず、契ひて『』といふ。暫くして其處に立つ者ども近づきてペテロに言ふ『なんぢも慥にかの黨與なり、汝の國訛なんぢを表せり』ここにペテロ盟ひかつ契ひて『』と言ひ出づるをりしも、鷄鳴きぬ。



 ぼくは息を詰まらせそうになる。後光を見たと喜び、ダッフルコートに顔を埋めた男が今、そのコートを着ていた者を否定しているのだ。鶏の泣き声を幻覚した。鳴き声ではなく――。

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