第2話 日本的霊性 その2

 反省と後悔の区別などという退屈な事柄については考えたくもない。なんなら、ぼくはこの今の状況を無限の反省とも、無限の後悔とも言うことができる。正確さのために、意識を対象とする意識、とも。心的システムは――思考を要素として思考を生産する心的システムは、際限なく思考を、思考の過程を思考の対象とすることができる。何度でも、システム/環境の境界を引き直すことができる。だが、それでも、心的システムの外部には思考はない。つまりぼくはどうやっても、ぼく自身から逃げることはできない。

 あるべき反省を――ずっと、考えていた。妹の自殺未遂に遭遇してからというもの。日本人ならば、切腹だろうか? いや……。それは自己表現にしかならない。いや……。自己表現ではない行為を、そもそも思考することができるのだろうか……。

 今度はぼくが頭の病院へ行くべき時が近づいていた。それぐらいの自己診断はどうにかできた。本能が壊れているとはいえ、人間もまた動物ならば、食欲の喪失は普通の事態ではないだろう。人間の条件を満たしていないことになるだろう。ぼくはいつの間にか絶食を始めており、蟄居を始めていた。

 ぼくもまた、ついに、吉乃の領域にまで近づきつつある。ぼくはもう何日間、この部屋にいるのか、わからない。ドアを叩く音を遠ざけるためにバリケードを作ったことで、なけなしのカロリーを消費してしまい、今はベッドの上に横たわるばかりだ。部屋の照明が点いたままだ。多分、こんな風になった時に、部屋の照明を点けていたのだろう。朧気な記憶。

 喉の渇きを覚える。覚えるが、その欠如を埋めようという気力が沸いてこない。そういえば、排尿排便を、ぼくはどうしているのだろう。ぼくからぼく自身が離れていく。ぼくはぼくを批評している。

 ドアを叩く音。バリケードを震わせ、極僅かずつだが壊していくほどの殴打。それでもぼくは天井から目を離すことができなくなっている。その天井こそ、過去に取り残された、まだ妹と分有していた頃のこの部屋とつながっている天井なのだから。それを理解して、ぼくはどうにかゆっくりと天井から視線を外し、移動し、部屋を見回す。妹が立っている。背後には、両親が廃棄しかけていたブラウン管のテレビ。その手前に据え置き型のテレビゲーム機。ドット表示のキャラクタが操作を待っている。そして、妹は――吉乃は兄の操作を待っている。ぼくはこんなものやりたくはないのだけどねという体で、自分の操作技術をなるべく妹に高く売りつけようとする。それは実に簡単に成功し、妹はぼくを一個の穴にしてしまうのではないかというくらい、熱心に見ている。

「吉乃……」

 血色の良かった頃の妹を今一度見ようと、ぼくは画面から目を放す。だが吉乃の顔もまた、テレビ画面になっている。その中では、ぼくが操作を中座したキャラクタが奈落の底へ落ちていき、画面の外へと消えていく。

「吉乃、頼むよ……もう嫌なんだこのゲームは……」

 だが彼はゲーム内存在であり、そこのみにて光り輝く。再びステージへと召喚され、敵を避け、奈落を避け、ゴールへ行かなくてはならない。

「うんざりだ……あとどれだけ続ければいい?」

 そうでなければ、ゲームオーバーか、またはゲームそのものの物理的条件の劇的変更に拠るしか、彼の戦いは終わらない。

 顔面が液晶になった我が妹が突然、立ち上がる。彼女の長い髪、瑞々しい髪の間から幾本ものケーブルが伸びて、床を這っているのがわかった。

「動きすぎてはいけない……」

 ぼくの声は届かない。ぼくの声はいつも小さすぎる。妹はそのままドアの方へと歩きだす。ケーブルは何処かと繋がっているらしく、彼女の動きを拘束する。彼女は倒れそうになるが、ケーブルがそれをさえ許さない。ぼくは駆け寄って、支えようとするが、やはりまだ彼女の顔面に貼り付いたままの液晶画面には巨大なフォントでたった5文字—―ごめんなさい、と描かれている。

 電撃のように、気付きが訪れる。ぼくは排尿排便をベッドの上で行っていた。着ている服の冷たさと臭さにぼくは部屋から逃げ出したい、と思う。だが扉はぼく自身が塞いでしまっていた。

「もう嫌なんだよ、このゲームは……」

 床に寝転がる。胎児の姿勢をとる。もしかすると、産道を戻っていくことができるかもしれないという一抹の期待を抱きまくらに。強烈な睡魔。そのまま、死の縁に触れることができそうなほどに強烈な。

 けれども、ぼくはまだ死ぬことができないらしい。扉を叩く音が聴こえてくる。それもリズミカルに。叩くことを楽しんでいるとしか思えない。ダンダンダン、ダンダンダン、ダダンダダン、ダンダンダン。

「うるせぇぞ馬鹿野郎!」

 怒鳴ったつもりだが、かのドラマーには届いていないらしい。ぼくの声はいつも……。

 やがてバリケードは崩れ、少しだけ開いたドアの隙間から、細い体躯の少女が入ってくる。

「このゲームって、どのゲームのこと?」

 彼女には――野枝には、ぼくの声が届いていたらしい。彼女は今度は廊下の灯を後光として背負っている。ぼくはマタイ福音書の次の節を想起する。



「なにしにきたんだよ」

「何をしにきたと思う?」

「質問が多い女だな」

 精一杯凄んでみせるが、ぼくの声は時いたれども小さく、そもそもぼくは全身を自身の代謝の成果に塗れさせていた。恥の観念が足の指先から、そしてついに全身へと拡がった。ぼくはベッドから毛布を―—これもまた酷く汚れているのだが――とって全身を包んだ。

「出てけよ」

「わたしね」

 野枝が満面の笑みで微笑む。ぼくは彼女の顔に二匹の動物を「同時に」想起する。蛇……。鷲……。時が凍りつく。それは空間の歪みに生じていた。

 一切が遠ざかり始める。ぼくはぼくの身体をも、遠くに感じる。その動きと自分の意識の同調が崩れていく。倒れそうになり、ぼくはベッドに腰掛ける。

「面白い冗談だな。まったく笑えないけどな」

 いや、これは冗談ではない。わかってはいたが、なけなしの希望のために、ぼくはそう言ったのだった。

「これはね、事実、本当のこと」

「だが実証できないだろう?」

「物自体には誰も触れることができない。わたしのクオリアを『実証』することはできない。だから、これは、そう、信頼に基づくしかないのよ。わたしがあなたに嘘をついたことがある?」

 それは一度もなかった。もちろん、ジョークの類は野枝も言ったし、いやむしろ好んですらいた。しかしいずれもぼくを困らせようというものではなかった。そこから導かれる結論は、これは少なくとも野枝においては事実であり、そして日常会話のレベルでは「キチガイ」、精神医学のテクニカルタームを借用すれば、「メサイア・コンプレックス」ということになるのだろう。

「わたしがあなたに嘘をついたことがある?」

「今は何も答えたくない。いいから、出てけよ」

 ぼくの声は相変わらずマッチョイズムの欠片もない、締まりのない、まるでオカマの蛇みたいな声だったが、高校生ともなれば二次性徴も始まっており、ひいてはぼくと野枝の性的差異は顕著になっていた。野枝の胸と尻は確かにある一定の起伏があった。そして、ぼくの身体は震えていた。

「もう大丈夫よ。だって、啓示があったのだもの」

 かくして目を細めて、微小の微笑を見せたあとで、野枝はぼくの部屋を出ていった。ぼくはベッドに倒れ込んだ。ぼくの精神は今、完全に回復した。ある事態について怒っていても、すぐ近くにその同じ事態について激怒している人間がいたならば、冷静になってしまう。人間にはそういうところがある。その人間精神の一般的現象がぼくにも起きている。ぼくは発狂した野枝を見て、完全に精神的回復を得た。

 いや、それとも――。

 これが奇跡なのか?

 この出来事から数日して、奇跡を否定するために、ぼくは野枝の連絡先を携帯電話のアドレス帳から消去した。

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