第2話 日本的霊性 その1
野枝とはそれからしばらく会っていなかった。ある人を遠くに見て、その人からこちら側を認知されないように努めることが「会う」ことの範疇に含まれないならば。ニアミスは幾度もあったのだ。吉乃の病室通いを野枝もまた、ぼくと同様に続けていた。頻度は殆ど同じようだった。ぼくが行く回数を減らしたのだ。あのランニングシャツの男との接近遭遇は、ぼくに下層階級への没落への恐怖を植え付けた。ぼくは受験勉強をするようになった。それで、吉乃のところへ行く回数は自然に減っていった。
野枝とまともに会話したのは、あのコーヒーを淹れてくれた時からだいたい一ヶ月も経過した頃だ。ぼくたちは話せざるを得なくなった。
吉乃が自殺を試みたからだ。
東方力丸のパフォーマンスを井の頭公園で観たあとだったから、あれは間違いなく土曜のことだ。
吉乃に対し最近、受験勉強を始めたことなどを一方的に話し続けたあと、ぼくはトイレにいった。吉乃は時折、頷いているとも解釈できる動作をしたが、やはりまだ外界に対する興味は薄弱なようだった。それから、ぼくが病室のトイレで小便していると、吉乃の絶叫を聴くことになった。
ベッドから立ち上がるほどに元気になってきた吉乃は自分の服を引き裂いて布を紐状にすると、ベッドのフレームにそれを巻きつけ、床に座り込んでいた。人間は心的システムそのものではない。その他の様々なシステムの構造的カップリングが我々をして一個の人間を構成させる。吉乃の有機的身体は死を拒み、彼女に猛烈な叫び声を上げさせ、手足を痙攣させ、看護師を呼び寄せた。看護師が彼女を持ち上げている間にぼくは紐を切り落とした。ハサミも何もないので、自分の歯を使った。
看護師とぼくがあたかも塹壕で生じるような連帯感に酔いしれ、若干のチアノーゼで青ざめた顔をした吉乃をともに見下ろしている、その時に野枝が病室の扉を開けた。
「何があったの?」
「なにもないよ」
看護師はすぐに冷静さを取り戻し、病室を出ていった。たぶん、こういうことは吉乃においては稀だったが、多くの病人においてはよくある事態なのだろう。
ぼくはベッドサイドで妹を見下ろしたまま動けなかった。そのぼくの前で、野枝は妹の口元に耳を寄せた。一切の加工なしに、そのまま食べることができそうな、柔らかい耳だった。
病室の外で野枝はぼくに言った。
「彼女、『ごめんなさい』って言ってた」
「何にだよ!」
廊下でぼくの声が反響する。
「何にだよ?」
自分がこんなにも大きな声を出せたことに、ぼくは少し驚きつつ、しかしまたその発声でテストステロンが放出されたのか、さらに大きな声を出すことができた。
「何にだよ!」
野枝は黙っていた。当然だ。誰にも答えようのない問いだ。問いそのものが間違っているのだ。問いが間違っているならば、答えなど求めてもしようがない。
「なにになのかしら……」
「知るものかよ!」
彼女は独言していたのだ。ぼくの怒声に廊下の一切が反響したが、野枝だけは一切の反応を示さなかった。彼女は床を見つめたまま、繰り返す。
「なにになのかしら……」
白衣の一団が妹の病室に入り、ストレッチャーで彼女を何処かへと連れ去っていく。ぼくは自分の視界を一個の物体として流れていく彼女の青ざめた顔に釘付けにされる。目が合う。目が合う? そんなはずはありえない。激しく咳き込み、意識も朦朧としているはずの彼女と目が合うなんてことは。理屈を組み立てていくが、実感はむしろ強まっていく。理性と直感の狭間、身体の宮殿でぼくは空気をメディアとしない、脳への直接的なメッセージを読み、聞き、味わう……。
――お兄ちゃん、ごめんなさい。
「ぼくに、だ……」
独言として、ただ口の中で言っただけの言葉。
「そんなこと、あるわけないわ」
そんな言葉が、いやそんな言葉だからこそ――野枝が反応を示した。
「どんな理屈で?」
「あってはいけないの。そんなことは。誰も悪くないの。誰も。合成の誤謬なのよ。善意の合成の……」
「君にしては珍しく、大手新聞あたりが書きそうなことを言うなぁ」
ぼくには自分の言っていることが皮肉として機能するであろうという予期があり、その予期ゆえに一定の快楽があった。野枝が再び床に目を伏せた時には、全身が海綿体に生成変化する感覚すら覚えた。
ぼくたちは挨拶もなく、別れた。一人で歩く井の頭公園には死んだカブトムシの臭いが満ちていた。
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