第113話 傷薬


 いつも寝起きしている掘っ立て小屋に入ると、クリンストンはすぐに奥へと駆けて行った。壁の木材はあちこち壊れ、外の冷たい風が吹き込んでくる。

 部屋の中はボロ布みたいな毛布が散乱していた。


 ここにはベッドなんて上等なものはなく、みなこのボロ布に包まって床で寝起きしているのだ。その布を踏み越えてカロンもクリンストンについていく。

 部屋の一番奥までくると、彼は短パンのポケットから小さな瓶を取り出した。


「これ、どうやって開けるんだろう。えっと……あ、開いた開いた」


 小瓶の蓋をクリンストンは、歯で咥えて引っこ抜く。


「腕、出して」


 言われたとおりにカロンが腕を差し出すと、クリンストンはその小瓶の中身を腕の傷に振りかけた。ぴちゃぴちゃと液体が傷にかかる。


「痛っ……」


 瞬間、傷に酷くしみて痛みが走った。カロンは鼻の頭に皺を寄せて小さく唸る。


「そりゃ、そんな怪我してたら水だってしみるよな」

「……なんで、そんなもの持ってんの?」


 薬がすぐに乾くよう、ふーふーと息を吹きかけながらクリンストンに尋ねると、彼はニコッと笑顔を返してくる。本当に、良く笑うヤツだ。


「さっき、お前がマンティコア倒したあとにさ。お客さんに呼び止められて、これをお前に塗ってやってくれって渡されたんだ」

「お客さん?」


 こくんとクリンストンは頷く。


「うん。あまり見たことない人。狩猟に来たのかな? 赤い短い髪してて、フードかぶってた。たぶん、女の人」

「ふぅん……」


 その風貌には、カロン自身もまったく心当たりはなかった。なぜ、傷薬をくれたのかわからない。


「でも、……いいの? そんな大事なの、僕に使って。キミだって怪我することはあるでしょ?」

「いいよ。だってお前に使えって言われてもらったんだから、お前のもんだろ?」


 そうクリンストンはなんでもないことのように言って、小瓶に蓋をすると当然のように渡してくれた。


 なんか、いいヤツだな。そうカロンは思う。

 ここの子どもたちには、普段、食事すら充分には行き渡らない。まして怪我の治療なんてしてもらったこともない。


 でも、客は気まぐれに、いろいろなものをくれることがある。

 お菓子だったり、食べ物だったり、タバコや酒のこともある。それらは基本、もらった子のものになった。それらを巡って、子ども同士のケンカや窃盗もよく起こっていた。


 だから、いくらカロンに使えと言われて他人から預かったモノであっても、彼が素直に渡してくれたことが意外だったのだ。

 そんなこと、カロンに言わずにこっそり自分のモノにしてしまったとしても、誰から咎められることもなかっただろうに。

 その小瓶をポケットに仕舞いながら、


「キミ、ここに随分長くいるっぽいけど。いつから、ここにいるの?」


 ふと気になって、そんな言葉が口をついて出る。

 しかしクリンストンから返ってきた答えは、予想外の素っ気ないものだった。


「しらない」

「しらない……? 覚えてないってこと?」


 こくんと、クリンストンは頷く。


「だって。俺、ここで生まれたんだ。だから、ここ以外の場所なんて知らない」


 そう言ってクリンストンは静かに笑った。

 驚きで、カロンの金色の瞳が丸くなる。


「……え。じゃあ、親とかは……?」


 一瞬、ここの従業員の子なのかと思ったが、クリントンはゆるゆると首を横に振る。


「父親は知らない。たぶん、ここにくる客の誰かだったんだと思う。母さんは、ここで客を取ってた人だったみたいだけど、俺が小さい頃にボロボロになって死んじゃったから、ほとんど覚えてない」

「そう、なんだ……」


 悪いことを聞いちゃったなと落ち込むカロンだったが、クリンストンは気にした様子もなかった。


「でもさ。ここに来る子はみんな、最初泣くんだよね。母さんに会いたい。おうちに帰りたい、って。キミも来たばっかのころは、泣いてたよね」

「そう……だったっけ……」

 

 そうだったかもしれない。あまり思い出したくはないけれど。


 明け方の、寝ることを許された短い時間。

 部屋の中では、いつもどこかからすすり泣く声が聞こえてきた。大概、泣くのは来たばかりの子たちだ。来てしばらく経った子はもういろいろ諦めてしまって泣くのもやめてしまっている。


 その子たちの声に釣られて、昔を懐かしく思いだしたことは何度もあった。

 胸に去来するのは、ここに来る直前に暮らしていた親戚の家ではなく、かつて両親と暮らした慎ましいけれど温かかった我が家。もう取り壊されてしまって、いまは記憶の中だけにある場所だった。


「それ見るたんびに、羨ましかったんだ。みんな、帰りたいって思える場所があるんだ、って。俺には、それすらないからさ。……そんな気持ちも知らない」


 つい思い出に浸りつつあったカロンの意識を、クリンストンの冷めた声が引き戻す。なんだか、それが酷く後ろめたく思えて急いで言葉を返した。


「き、きっと、キミにもできるよ。そういう、帰りたいって心から思える場所」


 それは心の中の後ろめたさを誤魔化すために思いつきで発した言葉だったが、クリンストンは驚いたように目を丸くした後、ふわりと笑みを返してきた。


「そんなこと言われたの、初めてだ」


 その顔があまりに嬉しそうだったから、カロンは後に引けなくて、うんうんと大きく頷いた。

 それが、叶うはずのない未来だということは二人とも分かってはいた。

 それでも、その一瞬だけはちょっとだけでも未来を信じられた気がした。


 悲劇は、それから一ヶ月後に起きる。

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