第112話 店
カロンは店の裏手にある雨水をためる
「いっ……」
水が傷にしみて、思わずうずくまる。
でも血を洗い流さないと、店の従業員たちに店を汚すんじゃないと殴られてしまう。
やつらは、何か気に入らないことがあるとすぐに殴ったり蹴ったりしてくる。何もなくても目つきが気に食わないというだけでも殴られる。だから、極力目立たないようにしてなければならなかった。
外はまだ寒い。水をかぶった身体はすぐに凍えて震えだす。しかし、まだ血は落ち切っていない。カロンはもう一度木桶で水を汲んで頭からかぶった。
店の周りには、腰に剣や銃を挿した屈強な男たちが何人もうろうろしていた。彼らは、ほんのささいな異変も見逃すまいとあたりに鋭い目を配っている。ヤツらはここに雇われた見張りだ。外から敵や衛兵などが攻めてこないかと見張るのはもちろん、ここに捕らわれた魔獣や獣人たちが逃げ出さないかを見張っている。
ここは、隣国との国境付近にある不毛な土地。植物はまばらにしか生えておらず、風が吹くとすぐに砂煙が舞い上がる。
人里から遠く離れているため、治安を守る衛兵や騎士団からの目の届かない無法地帯だった。
『店』と呼ばれる大きな建物の前には、客たちの立派な馬車がいくつも並んでいる。
しかし、裏に回ると粗末な小屋や檻が乱雑に置かれ異臭が漂う。きらびやかな表とゴミためみたいな裏。それがつまり、そのまま世界の差を表しているようだった。
『店』には、王国中、ときには隣国からも大金を持った客たちが集まってきては、非合法な取引を行っていた。
商品は盗品、非合法な薬物、武器類。そして、希少な魔獣や獣人たち。
獣人はもう何十年も前に差別的な扱いを禁止する法律ができたはずだが、いまだに裏で奴隷のように使役させる連中も後を絶たない。ここはそんな獣人取引の一大拠点となっていた。
しかし、ここに人々が集まってくる理由はそれだけではない。
カロンが顔をあげると、馬で店に戻ってくる客たちの姿が目に入った。何を言っているのかまではわからなかったが、興奮さめやらぬ様子ではしゃぎながら帰ってくる彼ら。
その後ろには、馬車で物のように引きずられる魔獣が見える。
(ああ……)
カロンは、わずかに眉をしかめた。
あの魔獣は知っている。今朝まで檻の中で悲しそうな目をしていたヤツだ。でも、近づいても唸ったりもしない大人しいヤツだったのに。いまは、ピクリともせず、されるがままに引きずられている。
彼らに、狩られたのだ。
ここは、魔獣の狩猟場ともなっていた。貴族や領主といった金持ち連中が荒野に離した魔獣を狩って遊ぶ、非合法の狩猟場なのだ。
裏社会でも有名なのだと店長が得意げに言っていたのを聞いたことがある。
そのための魔獣たちを閉じ込めておく檻が店の裏にはいくつもある。
檻の中の魔獣たちがどこから連れてこられたのかは知らないけれど、きっと罠か何かで捕らえられてここに運ばれてきたのだろう。
カロン自身も一年ほど前に、ここに連れてこられた。
生まれたのは気候の穏やかな港の近くの街だったが、両親ははやり病であっさり死んだ。そのあとしばらく親戚を転々としていたが、気が付いたらここにいた。たぶん、売られたんだと思う。
見張りの男の一人に早く中に入れと怒鳴られた。カロンは頭をふって軽く水を切るとすぐに裏口から『店』へと戻る。今日はさすがにもう、魔獣と戦わせられることはないだろうが、まだやらなければいけない雑用はたくさん残っている。
腕の傷が痛んだが、そんなことで仕事が免除されるような優しい場所ではない。
入るとすぐに、従業員の男に怒鳴られた。
「何ぼさっとしてんだ。上の部屋、かたづけてこい」
「……はい」
この店の二階は、個室になっている。客が泊まったり、休んだりするスペースになっているわけだが、早い話がこの店にいる女や子どもたちを連れ込むための部屋だ。
幸い、カロンは子どもにしては高い攻撃力が幸いして魔獣との見世物ショーを担当させられているので、あまりそっち方面の仕事を強いられることはない。
しかし、ここにいる大半の獣人の子たちは違った。それ目当てでこの店に来る金持ち連中も多かった。
言いつけられた仕事をするために二階へ行こうとして階段に向かっていると、両脇に薪を抱えた少年に声をかけらる。
「痛そう……」
話しかけてきたのは、ここで自分と同じように働かされている獣人の少年だった。
ここの子たちは店の裏にある掘っ立て小屋で一緒に集団生活しているので、その顔には見覚えがあった。
病気や暴行で死んだり、売られたりと色々な理由でメンバーはよく入れ替わるのだが、この子は確かカロンがこの店に来たころからいる子の一人だ。
常に人化しているので獣化したところは見たことがないが、その犬のように垂れた茶色い耳で獣人だということはわかる。くるんとした目元が愛らしい少年だった。
たしか、クリンストンとかいう名前だったはず。なんで覚えているんだろう。
「……」
彼に構わず通り過ぎようとしたのに、足をひっかけられて転びそうになった。
思わず彼を睨み付けると、クリンストンは屈託ない笑顔で笑った。
(そうだ……)
他の子たちの名前なんて全然覚えていないのに、この子の名前だけは記憶に残っていたのは、彼が『笑う』からだ。
客たち向けの強制された媚びた笑みではなく、自然と笑うのだ。そんな子、他にいなかったから覚えていた。
「ごめんな。俺、両手ふさがってるから。その腕、さっきの魔獣にやられたんだろ? すげぇ痛そう。そのまんまにすると化膿するよ。俺、いいのもってるから、一緒に来てよ。あ、その前に、これピットに渡さなきゃ。ちょっとこっち来て」
「……」
そう言われて、カロンは迷う。早く上に掃除に行かないと、また従業員にどやされる。でも、腕が痛いのも確かだった。この腕が化膿して動かなくなったら、自分はどうなるのだろう。もう魔獣と戦えなくなったら、ショーで魔獣に喰われて終わりだろうか。
(別に、それでもいいけど……)
生きている理由なんて、何もなかった。とりあえず、この糞みたいな店から出られる
なら何でも良かった。その先に待っているのが死でもどうでもいい。
迷っていたら、先に行きかけていたクリンストンが振り向く。
「ほら、おいでって」
「う、うん……」
なんとなく断り損ねて、カロンはクリンストンのあとについていった。
クリンストンは店の奥に備え付けられている暖炉の前までくると、両手で抱えていた薪を床に降ろす。
「ふわぁ。疲れた! 待ってな。ピット。いま、火力あげてやるからな」
その暖炉は普通の暖炉と少し違っていた。
薪を燃やす部分の上部に金属製の小さな檻が取り付けられており、そこに子どもの手の平二つ分ほどの大きさの真っ赤なトカゲが一匹入っているのだ。
「こいつ、サラマンダーっていうんだってさ。すっごく珍しい魔獣なんだって」
クリンストンは持ってきた薪を暖炉にくべながら説明してくれる。サラマンダーはクリンストンに懐いているようで、彼がそばに来ると檻の中でくるくる回ってはしゃぎだした。喜んでいるようだ。
「俺、こいつの世話係なんだ。ピットって言うんだよ。ピット。あとで餌も持ってきてやるからな」
そうサラマンダーに笑いかけるクリンストンの目はとても優しかった。
「餌って、何あげんの?」
ウーンとクリンストンは首を傾げる。
「店長さんも、よくわかんないんだって。とりあえず、魔獣の死体にたかったハエとかあげてる」
「トカゲ、なのかな? 何年くらい生きるんだろ?」
「わかんないけど、ここに来てからもう三年くらいかな。ずっと世話してるから、すっかり懐いちゃった。俺の最初で、唯一の友達なんだ」
そう言って、クリンストンはまた屈託なく笑う。
しかしカロンは三年という言葉に内心驚いていた。一体この子は、何年、この店にいるんだろう。もしかして、子どもたちの中で一番長いんじゃないだろうか。
「でも、サラマンダーって呼ぶのはさ。人間に人間って呼びかけるのと同じだろ? だから、俺、こいつのことこっそりピットって呼んでるんだ。撫でると喜ぶんだよ。あ、でもめちゃめちゃ熱いから暖炉用の手袋しなきゃ触っちゃだめだよ」
「へぇ……」
暖炉の火を受けて、サラマンダーのピットは益々赤黄色く輝きだした。
「これも売り物なの?」
むしろ、この店に売り物じゃないものなんてなさそうだけど。
「うん、一応。でも、店長さんが気に入ってるから売らないらしいよ。こいつ、こうやって熱を溜めてやればあとは自分で熱を出すから、暖房代わりに使えるんだ。それで、店長さんはお客さんたちにサラマンダーを暖房代わりに使う店、って自慢したいらしいし」
そういえば、高そうな服を着た連中が、これを見て驚いたり賞賛したりしてるのを何度か見たことがある。店長はまんざらでもなさそうな顔をしていた。
そんなことを話していたら、店の扉が開いて数人の集団が帰ってきた。高そうな服を着た連中の真ん中に、負けないくらい高そうな服を着た恰幅のいい男が歩いてくる。あれがこの店の店長、オルロフ・ロッコだ。
「行こう」
作業を終えたクリンストンに手を引かれて、カロンもその場を立ち去る。店長の傍にいたら、思いつきでまた何をさせられるかわかったものじゃない。
用事がなければなるべく近寄りたくはなかった。それはクリンストンも同じだったのだろう。
こっそり店を抜けると、普段寝起きをしている掘っ立て小屋へ向かった。
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