第111話 かつての記憶


「どうしたんだ?」


 タケトがクリンストンとカロンを見比べながら、訳が分からないという顔で言う。

 それもそうだろう。いつものクリンストンなら、保護すべき魔獣を見たらすぐに動き出す。すぐさま最適な方法を導き出し、最善の手で救護と保護を行うだろう。


 しかし、このサラマンダーだけは、だめなのだ。

 特別、と言ってもいい。


 ただその複雑な事情を今この場で同僚に話すわけにもいかず、カロンはただ苦笑するしかなかった。


「……ちょっと、昔に。色々あったんです」


 そう言って言葉を濁す。

 その反面、心の中ではサラマンダーを持ち込んだことを後悔しつつあった。


(やっぱり、酷だったか……)


 クリンストンは、サラマンダーに魂を抜かれてしまったかのように呆然としている。


 彼がこうなることは、事前に予想はついていた。

 いや、もう十年以上経っている。


 あのときとは、環境も知識も経験も違う。だから、もしかしたら、それほど精神的なショックを受けはしないんじゃないかという淡い期待もあった。

 けれど、目の前の彼の姿を見ていると、そんな甘い見込みは軽く吹き飛んでしまった。


 とはいえ、この弱ったサラマンダーを助けられるのはクリンストン以外にいないことも確かなのだ。

 すでに彼の魔獣に対する知識や経験は、この国では並ぶ者がない。彼に救えなかったら、誰にも救えないのだ。


 だから、一縷の望みをかけてここに持ち込んだ。

 そうするしか、なかった。






(やばっ……)


 避け損なった。

 魔獣が戯れるように払ってきた腕を避けきれず、少年は殴られて吹き飛ばされた。

 そして床にしこたま身体を打ち付ける。


「痛っ……」


 どうか骨が折れたりしてないでくれ、そう祈りながら少年はすぐに起き上がった。

 殴られたときにとっさに顔をかばった両腕が、魔獣の爪で幾筋も切り裂かれていた。腕を覆う黒い毛に、真新しい太く赤い線が浮かぶ。


 室内に漂う狂喜じみた熱気と喧噪けんそう

 甘ったるい香水と、酒と、男たちのすえた体臭が混ざり合った不快なニオイ。


 薄汚れたタンクトップに短パン、裸足という粗末な格好をした少年は、ずずっと鼻をすすった。しかし、赤い血がつっと鼻の奥から垂れてくる。

 さっき殴られたときに鼻の奥を切ったのだろう。


 黒い毛並みをした黒豹顔の彼は、その金色の瞳で目の前にいるモノを睨み付けた。

 いま対峙しているのは、獅子のような身体と人間のような顔をした気味の悪い魔獣だった。

 少年の数倍の大きさはある、マンティコアだ。


「やれ」

「いけ」

「喰い殺せ」


 そんな声が重なり合って、追い立ててくる。

 少年とマンティコアを囲んで、客たちがはやし立てていた。


 周りを取り囲むテーブル席では嬌声をあげる女たちを伴って客たちが酒をあおり、料理をつつきながら、少年と魔獣の戦いを楽しんでいる。


 ここには、金と暴力と欲望しかない場所。

 これはショーだ。客にとっては、単なる余興でしかない。

 しかし少年にとっては、命をかけた戦いだった。


「おら。いけ! カロン。いかねぇと、お前が喰われんぞ」


 店の従業員に背中を勢いよく押され、カロンと呼ばれた少年はつんのめるようにマンティコアとの間合いを詰めさせられる。


 マンティコアは、よだれを垂らしながらニヤニヤとこちらを見ていた。

 本気で殺らないと、殺られる。

 客たちにとっては、カロンが魔獣に勝とうが、負けようがどちらでもいいのだ。

 

 勝てば、また別の魔獣と戦わされるだろう。

 負ければ、カロンが魔獣に喰われる様が客たちを喜ばせる。

 どちらにしても、ここでは一時の酒の肴にすぎない。

 

 この店で働かされている他の獣人の子たちと同じく、ここでは少年の命などゴミクズに等しかった。


 先週も、顔見知りだった獣人の子がこのマンティコアに喰い殺されたばかりだ。

 彼は生きながら食われ、その悲惨な様子に客たちは嗜虐心を満たされて大いに喜んでいた。


 客たちの顔には、どれもサディスティックな笑みが浮かんでいる。その歪んだ快楽をもっと与えろと、客たちの目が無言でカロンに訴えてくる。


 より残虐に、より絶望的に。

 ただ、客を楽しませるだけのために。


 ここは、ジーニア王国の辺境にある、ならずものたちの集う場所。

 金を持った脛に傷のある連中を楽しませる、娯楽の場だ。


 カロンは、垂れてくる鼻血を乱暴に腕で拭うと、爪を出した両手を床についてスッと身を屈めた。

 マンティコアの顔はカロンのソレよりもはるかに大きく、老人のようにしわくちゃだ。しかし、目は赤く濁り、鋭く尖った黄色い牙の間からは悪臭を放つよだれが垂れている。


 グルルルルルルルルルルル


 マンティコアが唸った。

 このショーのためにマンティコアは数日前から食事を抜かれたうえ、どう猛さが増すようにと薬が打たれている。マンティコアの目には、カロンは極上の餌にしか映っていないことだろう。


 マンティコアがよだれをまき散らしながら飛びかかってきた。カロンに噛みつこうと大きく口を開ける。

 カロンは寸前まで引き付けてから、横に跳んですばしっこくマンティコアの突進を避けた。


 ついで、ささくれだった床板を強く踏み込むと、マンティコアの首元に噛みついた。

 力いっぱい噛みついたのに、カロンの幼い歯はマンティコアの厚い皮膚に遮られしまい、肉を噛みちぎるまでにはいかない。そのうえ、マンティコアが激しく首を振ると、あっさりと弾き飛ばされてしまう。


「……っ」


 床の上に投げ出されたカロンの上に、すかさずマンティコアが飛び乗ってきた。その太い前脚で押さえつけられる。


 客から、歓声があがった。


「行け」「喰え」


 客たちが口々に叫ぶのが聞こえてくる。

 カロンは必死にもがくが、マンティコアの力は圧倒的だった。抜け出すどころか肺の空気をすべて押し出されて、息さえできない。

 そこにマンティコアの鋭い歯が迫る。


(喰われる……!)


 カロンは咄嗟に身を縮めて足を引き寄せると、渾身の力で迫ってきたマンティコアの顔を両足で蹴った。


 ギャンッ!


 上手く、鼻にヒットしたようだ。マンティコアが痛みに後ずさる。おかげで、押さえつけられていた拘束からも上手く逃れられた。


 カロンはよろけそうになりながらも、すぐさま立ち上がりあたりを見回した。

 このままでは、いずれ殺られる。自分の歯や爪では軽傷を負わせるのが関の山だ。


(あった……これでいいや)


 カロンの目が、一番最前列のテーブルで猫の獣人女を膝にのせ酒をあおっている男の腰元に止まった。


 痛みに怒り狂ったマンティコアが、目を血走らせて走り寄ってくる。

 カロンは、振り上げられたマンティコアの腕を四つん這いになって避けると、すぐさま目を付けた客のもとへ走った。マンティコアもすぐに追いかけてくる。


「うわっ!」


 急に迫ってきたカロンとマンティコアに、客の男は目を丸くした。

 猫女は慣れた様子でさっと男の膝から退くと、被害が及ばないところまで逃げていく。


 カロンはその客に飛びつくと、彼が腰に差していた短剣を抜いてすぐに離れた。

 そのすぐあと、勢いが止まらないマンティコアが男に飛びつこうと両脚を振り上げた。


「わああああ!」


 驚きのあまり椅子ごと後ろに倒れたことで、男はマンティコアの鋭い牙から運よく逃れられたようだった。マンティコアが方向転換しようとテーブルに勢いよく乗っかったせいで、テーブルは脚が折れて潰れ、酒や食べ物が四散した。


 マンティコアは食べ物の汁で脚が滑ってもたもたしている。その隙にカロンは背後へ回ると、その大きな獅子の身体に飛びついた。

 マンティコアが激しく体を動かし、カロンを振り落とそうとする。テーブル席で暴れる魔獣に、客たちはキャーキャー言いながら逃げていった。


 カロンはなんとか振り落とされまいと爪をたて、客から奪った短剣でその首を刺す。マンティコアはますます激しく頭を振るがカロンが落ちないとみるや、今度はカロンを潰そうと背中から寝転がろうとした。


 とっさにカロンは短剣を抜くとマンティコアから離れる。そして、マンティコアが仰向けになった隙を逃さず、その喉元に短剣を深く突き刺した。


 ギャアアアアアアアア


 人間のような断末魔をあげて、ついにマンティコアは動かなくなった。

 途端に、客たちから歓声があがる。


「やっぱお前は強えぇな」

「マンティコアですら、倒してしまうとは」

「また勝っちまいやがった。これじゃ、賭けになんねぇな」


 称賛と罵声。


 カロンは肩で荒く息を弾ませながら、マンティコアから離れる。マンティコアの喉からは泉のように血が噴き出し、カロンのシャツも毛も血まみれだった。もう、どれが自分の血で、どれが相手の血なのかもよくわからない。

 それすら、どうでもよかった。


(また、勝っちゃった……)


 喰われるのは嫌だ。

 でも、マンティコアこいつは死ぬことで、この糞みたいな場所から解放された。

 それが、少しだけ、羨ましかった。

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