第89話 夜

 トン吉は、真っ暗い闇の中にいた。


「また出られなくなったです……」


 怯えて身体を震わせ、縮こまった。動けなくなる。全身をねっとりと纏わりついてくる闇に、今にも身体を侵食されてしまいそうだった。


 あたたかくもなく、寒くもない。

 一切の感覚を遮断された空間。

 泣くこともできず、ただひたすらに怖くて寂しくて、トン吉は震えていた。


 いつからそうしていたのか。

 いつまでそうしていればいいのか。

 また悠久の時間をここで耐え続けなければいけないのか。


 それを思うと、心の中にまで絶望という闇が忍び寄ってくる。隅々まで塗りつぶされて自分がなくなるような感覚に襲われる。


「怖い……怖いです。怖いでありますっ。ご主人……っ!」


 怖さのあまり、この場にはいない人物を呼ぶ。

 応えるものなど、いないはずだった。

 しかし、


「ううん……」


 小さなうめきが聞こえて、トン吉はハッと顔をあげる。

 いつの間にか無音だった空間に、音が戻っていた。

 遠くから風が木々を渡るざわめきも聞こえてくる。


 トン吉は数回瞬きをした。

 よく見ると、壁板の隙間からわずかに漏れ入ってきた明かりで、室内の輪郭が薄く闇に浮かんで見える。


 ここは、いつも寝ている納屋の中だった。

 このフカフカと柔らかくあたたかい感触は、主人が寝床代わりにいつも乗っているフェンリルのお腹の上だ。


(夢……だったでありますね)


 トン吉は、心の底から安堵のため息をこぼした。

 全部、夢だったのだ。過去の記憶が見せた、怖い悪夢に過ぎなかった。

 それでも思い出すだけで、きゅっと胸の奥が縮みあがるような恐怖がぶり返してくる。トン吉はブルっと小さな身体を震わせた。


 そんなとき、すぐ間近でゴソゴソと動くものがあった。こちらに背を向けて寝ている、主人の背中だ。寝返りを打ったらしい。


 心細くて身体が冷え切りそうだったので、トン吉は物音をたてないように静かに主人に近づくと、その大きな背中に自分の背中をくっつけるようにして横になった。

 背中を通じて、主人の体温が伝わってくる。主人は人間にしては体温の高い方だと思う。ほかの人に抱きかかえられたときよりも、彼に抱かれると腕を通して伝わってくる熱が高いから。


 もう一度眠れば再びあの怖い過去の記憶の中に取り込まれてしまいそうで不安だったが、こうやって主人の気配を感じていたら寝れそうな気がした。

 そうやって主人にもたれてウトウトしていたら。


「あ、あれ? トン吉? ……どうしたんだ?」


 背中越しに感じる、主人の起き上がる気配。トン吉は、彼を起こしてしまったことに慌てた。


「ご、ごめんなさいであります」


 すぐに謝る。怒られるかもしれないと思ったからだ。

 しかし、主人はまだ寝ぼけた様子でボリボリと頭を掻いたあと。


「ああ、そっか。暗すぎて怖かったのか」


 ぽつりとそう呟いた。

 そして、主人はフェンリルのお腹から降りると、


「ちょっと待ってて。たしか、この辺に……」


 ごそごそと床の上を手探りで何か探し始める。

 何をしているのかとしばらく眺めていたら、


「あ、あったあった」


 主人が嬉しそうな声をあげた。そして、その手に掴んだ何か長いものを床から持ち上げる。

 それは、長い竿のようなものだった。


 主人はその竿を天井に向けてのばすと、数回天井をつつく。

 すると、真っ暗だった天井に、四角く切り取ったような星空がぽっかりと現れた。


 トン吉は目を丸くして、その天窓から覗く星空に釘付けになる。

 換気のための天窓を開けたのだと気づいたのは、しばらく見入ってからだった。

 切り取られた空。


 それは、精霊銃の中から見上げた外の景色に似た光景だった。

 キラキラと沢山の星の光が注いでくる。夜なのに明るいのは、月が出ているからだろう。


「これでもう、怖くないだろ?」


 主人は優しくそう言って数度トン吉の頭をなでると、再びフェンリルに上ってお腹の上で毛布をかぶって横になった。


 暗い納屋の中に細く長く月の光が差し込み、静かに床を照らす。

 視線を巡らせると、納屋の中の様子も幾分はっきりと見えるようになった。

 その中に光を反射して、丸く大きなものが二つ浮かぶ。

 フェンリルの目だった。フェンリルは黙ってトン吉と主人のやりとりを見守っていたようだ。

 主人の方からは、もう小さな寝息が聞こえてくる。


 ここは色のない世界ではない。

 ここにいるのは、自分だけじゃない。

 もう、自分は孤独ではない。


 そう思うと嬉しくて、トン吉はタタっとフェンリルのお腹を駆け上ると、主人にすり寄った。

 さっきと同じように背中にくっついたつもりだったが、今度は主人が向きを変えていたため胸の中に無理やり潜り込むような形になってしまった。

 それでも主人は嫌がりもせず、腕を開き、かぶっていた毛布の中に入れて抱きしめてくれる。


 伝わってくるあたたかさと心地よさに、いつの間にか悪夢の記憶はすっかり彼方に消え去っていた。


 あとには、一人と二匹の穏やかな寝息が納屋の中を満たすだけ。

 月の光が、キラキラと静かに降り注いでいた。


【第二部 完】

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