第77話 老監督の席


 ブリジッタは、トン吉を抱いたまま掘削途中の運河沿いを歩いて行く。この辺りは草もまばらにしか生えていない荒涼とした大地が広がっている。


視線の先には簡易テントや粗末な小屋が固まって立ち並ぶ一角が見えた。その片隅に一際大きな建物がある。ここに来る前にあの建物の横を通り過ぎた際、良い香りが漂ってきたから、あそこが食堂に違いないと目星をつけた。


 その建物の前まで来て扉に手をかけたところで、扉が独りでに外へと開く。ちょうど中から男三人組が喋りながら出て来たところだった。


「今の監督、頼りないからなぁ」


「きゃっ」


 ふいに扉に押されたため避けられず、ブリジッタはトン吉を抱えたまま尻餅をついてしまった。


「おっと。ごめんよ、嬢ちゃん。怪我とかしてないか? 不注意ですまない」


 男の一人がブリジッタに手を伸ばした。砂埃すなぼこりで薄汚れたシャツに作業ズボンの男。ここで働く作業員だろう。


「いいえ。大丈夫ですわ」


 にこっと笑みを返すと、ブリジッタは差し出された手を掴んだ。ブリジッタの身体は軽々と引き起こされる。


「ありがとう」


 ブリジッタは軽く膝を曲げて、礼を示す。

 一見子どものようなブリジッタの、思いのほか大人っぽい仕草に違和感を覚えたのか男は「ん?」という顔をしたが、仲間に話しかけられるとそのまま歩いて行ってしまった。


 ブリジッタは改めて扉を引くと、建物の中へと入る。


 中はブリジッタの予想通り、作業員たちが食事をする食堂のようだった。この時間でも半分くらいの席が埋まっているが、全部埋まってもここの作業員全員は到底収まりきらないだろう。時間交代制で使っているのかもしれない。


 ブリジッタはカウンター近くの空いているテーブルに歩み寄ると、椅子に腰を下ろして寝ているトン吉を膝の上にのせた。カウンターの奥には厨房があって、調理員たちが忙しそうに働いているのが見える。


 まだタケトたちが外でゴーレム相手に悪戦苦闘しているのに、自分だけ先に食事をとるのもなんだか気まずい。何か温かい飲み物でももらえればいいのだが、忙しそうな厨房に頼むのも申し訳ないし。もう少し人が減って厨房が落ち着いたら声をかけてみようと決めて、寝ているトン吉の背を撫でながら食堂の中を眺めていた。


 見た感じ、作業員たちはみな似たような作業ズボンに半袖シャツやタンクトップを着ている。しかし、人種はさまざまだ。王都にはあまりいないタケトのような黒髪もちらほらいるし、獣人も案外多い。これだけの規模の公共事業だ。国中から人手を集めてきたのだろう。


(ほんとに、色んな所から来たんですのね)


 そうやってぼんやり眺めていたら、横から自分を呼ぶ声があることに気付くのが遅れてしまった。


「お嬢さん。お嬢さんってば」


「え? あ、あら。ワラワのことですの?」


「他にお嬢さんなんていないだろ?」


 声をかけてきたのは、厨房の奥にいた中年の女性だった。包丁で何かを切りながら、ソバカスの多い顔で陽気にニコッと笑いかけてくる。


「見かけない顔だね。あのデカイ犬に乗ってきた連中のお連れさんかい? あいつらが戻ってくるまで待ってるんだろ。ヤギのミルクでも、温めてやろうか?」


 この食堂を切り盛りしている女将さんだろうか。彼女の口調はまるで子どもをあやすようだ。ブリジッタの幼い見た目から、知らない相手からは子ども扱いされてしまうことが多い。いちいち訂正するのも面倒なので、ブリジッタは適当に合わせながら、


「ええ、頂くわ」


 とお言葉に甘えることにした。

 本当は、向こうのテーブルで一仕事終えた作業員たちが飲んでいる酒の方が飲みたいのだが、それを言うと面倒なことになりそうなのでミルクで我慢することにする。


「ほら。ゆっくりしてきな」


 厨房の女将さんは酒用のマグカップに半分くらいホットミルクを注いで、ブリジッタの前に置いてくれた。モワモワと白い湯気が上がっている。


「ありがとう」


 ブリジッタは小さく笑んで感謝の意を伝えると、両手でマグカップを持ち上げてフーフーと冷ましながら一口ずつミルクを口に含む。


 普段飲んでいる牛乳に比べて味は濃厚で美味しいが、少々野性味の強い癖のある香りがする。この独特の風味を苦手にする人もいるそうだが、ブリジッタは嫌いではなかった。


「その子豚君にもミルク、いるかい?」


 女将さんは手に持つ大きなお玉でブリジッタの膝の上を指しながら言った。


「いえ、寝ているようだから、いいですわ」


「そっか。じゃあ、起きたら言ってくれ。用意してあげるからさ」


 どこまでも親切で気の良い人のようだ。

 ブリジッタが微笑みながら「いろいろと、ご親切に」と返すと、彼女は「気にしなさんな」と笑ったあと、こんなことを口にする。


「その席に、誰か座るなんて久しぶりで。……なんか、ちょっと思い出しちゃってね。勝手にホロッと来ちゃったんだ。嫌だ、アタシ、お客さん相手に何言ってんだろうね」


 女将さんはお玉を持ったまま指で目元に触れる。その仕草が、涙を拭っているようだったのがブリジッタには気になった。


「久しぶり……ですの?」


「ああ。……その席。ずっと、ここの現場監督さんが座ってた席だったんだよ」


「現場監督というと……あの、ホッジさんとかいう若い方の?」


 ブリジッタの問いかけに、彼女は「いや……」とどこか言いにくそうにしている。しかし、いつまでもブリジッタが続きを促すように見つめていたので、視線に耐えきれなくなったのか話を続けた。


「ホッジの先代の現場監督だった、チェペットという人さ」


 チェペットは、この運河開発工事の初期段階から携わっていた大ベテランなのだそうだ。酒が好きで、よく仕事終わりにこの席でエールを飲んでいたのだという。


「いまもまだ、あの人がそこで一人エールのカップ傾けてる姿を、昨日のことのように思い出すんだよ。頑固で偏屈なじじいだったけど、腕は確かだった。作業員たちから信頼も厚かったし、何よりこの大工事がこれまでつつがなく進めてこられたのは、あの人がいたからといってもおかしくないからね。でも、酒の飲み過ぎが祟ったんだろうね……」


 彼女の視線が、ふっと遠くなる。


「三ヶ月前に、コロッと死んじまったのさ。あの運河工事の現場でね。ちょうどみなと離れた場所で作業してた時でさ、気がついたら倒れていたんだって」


 発見されたときにはもう手遅れで、心臓が止まっていたのだそうだ。


「元々不摂生がたたって心臓やら肝臓やらダメにしていたらしいからね。持病の発作だったんだ。でも、仕事の最中に息絶えちまうなんて、まったく、あの人らしい死に方だよ」


 ブリジッタは、口を挟むことなく黙って彼女の話を聞いていた。思い出話に水を差すような無粋な真似はしたくなかった。


「ああ、ごめんね。あんたみたいな子に、こんなこと話して。そこの席はあのチェペットじいさん専用の席みたいになってたから、あれ以来誰もそこには座らないんだ。それで、つい、思い出しちまってね。さてと夕食の仕込み、終わらせちゃわなきゃね」


 その席に、何も知らないブリジッタが座ったものだから、彼女の思い出のスイッチを押してしまったようだった。


「いえ。貴重なお話でしたわ」


 厨房に戻っていく彼女を眺めていたら、バラバラと天井全体を打ち付けるような煩い音が頭上で鳴りだした。


「ああ。ひと雨、来ちまったね」


 彼女が足を止めて上を向く。ブリジッタも何気なく天井を見あげた。雨音は強く、激しさを増して天井を叩きつけていた。これは、結構な雨脚の強さだ。


 と、そこに扉が開いて、どかどかと数人が駆け込んでくる。


「ひえー。間に合わなかった」


 聞き覚えのある声。目を向けると、タケトたちが食堂に入ってきたところだった。三人とも、髪や肩がびしょ濡れだ。それに続いて、他の作業員たちも次々に食堂へ戻ってくるのが見えた。


 タケトもブリジッタに気付いたらしく、こちらに歩いてくる。


「雨が降りそうだったんで急いで戻ってきたんだけど、あとちょっとってとこで急に降り出しちゃってさ」


「いいから、まず拭きなさいな」


「ほら、タケト。ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃうよ?」


 シャンテにタオルを渡されて、タケトはそのタオルでゴシゴシと頭を拭いた。


「それで。成果はどうだったんですの?」


 ブリジッタの問いに口を開いたのは、カロンだった。


「それが、麻酔銃とか色々試してはみたんですが……」


 人の姿に戻っていたカロンがこれまでの経過を説明しようとしたところで、ブリジッタの膝の上で寝ていたトン吉がムクッと頭をあげた。急に騒がしくなった周囲の物音に目が覚めたのだろう。トン吉は、くんくんと空気の匂いを嗅ぐ。


「……この匂い……」


 そして、垂れた両耳をピクンと動かして目をキラキラと輝かせた。


「雨の匂い! 雨の匂いであります! 雨!!!」


「へ? 雨がどうかしたのか……?」


 しかしタケトの問いかけも耳に入っていないかのように、トン吉は「雨!」を連呼する。そしてバッと立ちあがると、ピョンとブリジッタの膝から飛び降りてその勢いのまま出入り口の扉の方へ転がるように駆け出した。他の作業員が戻ってきて扉が開いた拍子に、するっと彼らの足下を抜けて外へ飛び出してしまう。


「あ、おい! トン吉!?」


 雨の降る中に飛び出してしまったトン吉を、タケトも追った。

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