第78話 雨の匂い


 トン吉が出たあとに勢いで閉まってしまった扉を、もう一度腕で押し開けてタケトも外に出る。


 トン吉は食堂を出たすぐの所にある大きな水たまりの中で、びしゃびしゃと子鹿のように飛び跳ねていた。


「お、おい……どうしたんだよ、急に」


 タケトは食堂のヒサシの下で濡れないようにしながら、水たまりの中でテンション高くはしゃいでいるトン吉に声をかけた。


 トン吉はタケトの声で跳ねるのを止めると、興奮した声でわめき立てる。その小さな身体はしこたま雨に晒されて、びしょ濡れだ。


「ご主人! ご主人! 雨ですよ!!! 雨です!!!! 雨!!!!」


「あー、わかったよ。わかったから」


 タケトには、なぜトン吉が雨ごときでそんなにはしゃぐのか皆目見当がつかない。


 しかしトン吉はタケトの困惑など意に介さず、再びバシャバシャと水たまりの中で飛び跳ねた。雨に濡れながら四肢で水を跳ね散らす。それは何かを確かめるようにも、踏みしめているようにも見えた。何度も。何度も。すっかりドロドロだ。


 ギィと扉が軋む音がした。振り返ると、シャンテも食堂から出て来たところだった。彼女もまた、トン吉を心配して様子を見に来たようだ。


「どうしちゃったの? トンちゃん」


「さぁ……俺にも、さっぱり」


 しばらく様子を見ていたが、一向にトン吉がその場を動こうとしないのでタケトはそろそろ痺れを切らす。


「なぁ。風邪ひくぞ? こっち戻って来いよ」


 銃の中に封印された魔獣が風邪なんてひくのかどうかは知らないけれど、このまま放っておくわけにもいかない。


 精霊銃はいまもタケトの腰に下げたホルスターに吊されていた。この銃が手元にある限り、トン吉もそう遠くへはいけないだろうとは思う。

 けれど、銃がタケトの持ち物である以上、その中に入っていたこの小さな魔獣も自分が管理しなきゃいけないんだろう、ということもまた自覚していた。半ば嫌々、仕方なくではあったけれど。


 なんとなく、タケトはこの得体の知れない魔獣をどこか不気味なもののように感じ、できることなら距離を置きたいとも思っていた。でも、精霊銃は肌身離さず持ち歩きたい。そこから生じるジレンマで、タケトはついトン吉の言動に苛立ちを感じてしまう。


 雨に濡れるのは嫌だったから迷ったけれど、一向にトン吉が戻ってこないのでタケトはヒサシの下から走り出た。トン吉のところまで行くと、ずぶ濡れになったその小さな身体を無理矢理抱き上げる。


「ほら。帰るぞ」


 トン吉はビクッと身体を硬直させ、驚いたように目を大きく見開いてタケトを見上げた。


 生意気な口を利くことはあったけれど、基本的にトン吉はタケトの言うことに従順だ。だから、今回も抱き上げられれば大人しく言うことを聞くかと思っていた。


 しかし、トン吉はタケトの意に反してその手の中で暴れだした。


「い、嫌であります!」


「こ、こら!」


 暴れられた拍子にツルッと手が滑った。トン吉は水たまりの中にバシャンと落ちる。


「……痛かったであります」


「お前が暴れるからだろ?」


 もう一度捕まえようとタケトが手を伸ばすが、ソレよりも早くトン吉はバタバタと水たまりの中で起き上がると、急に駆け出した。


「あ、おい! どこ行くんだよ」


 弾丸のように一直線に走っていってしまうトン吉。その姿がドンドン遠くなる。


「ああ、もう。くそっ」


 仕方なく、タケトも後を追った。


「いくら、ご主人の命令でも、嫌であります!」


 そんな声が前を走るトン吉から聞こえてくる。

 トン吉は作業員のテント村を抜けて、荒野を一直線に走って行った。それをタケトも追いかける。すっかりシャツもズボンも靴の中もびしょ濡れだ。


 はじめは見失わないようにするので精一杯だったトン吉の小さな小さな後ろ姿は、次第に近づいてくる。トン吉は瞬発力は高いが、持久力はそれほどないのかもしれない。かなりの距離走って、トン吉の走る速さに力強さが消えたころ、ようやくタケトはトン吉に追いついた。


「っ、と」


 どうにか地面にダイブするようにトン吉に抱きついて、捕獲成功。


「ふぎゃっ」


 トン吉はバタバタと手足を動かして暴れようとしたが、長距離走ったことで体力を消耗したらしく、タケトの手から逃れられるほどの勢いはない。


「どこ、行くつもりなんだよっ!」


 地面に膝を突いて抱きかかえたトン吉に、タケトは叫ぶ。タケトの声も、すっかり息が上がって途切れ途切れだ。肩を大きく上下させながら、タケトは胸の中にいる小さな毛玉を睨み付けた。


 もう元の毛色が分からないくらい泥でドロドロになったトン吉は、しゅんと申し訳なさそうに主人を見上げた。


「だって……ご主人が……ご主人が……」


 ヒックヒックとしゃくり上げながら、トン吉は言葉を途切れさせる。濡れているからよくわからないが、泣いているのかもしれないとタケトは思った。


「雨……吾輩……雨が……」


「雨?」


 トン吉は、こくんと小さく頷く。


「雨が、好きなんであります。なんでかは、わからないけど。とてもとても心沸き立つんであります。……だから、その精霊銃の中で、いつか……いつか、あの雨に触れたいって。ずっと、憧れてたんであります……」


「雨なんて、そんなにいいもんかな……」


 タケトにはよくわからない。雨が降ると寒くなるし、傘をささなきゃいけないしで、面倒な天気だなという印象しかない。


 話しているうちに、タケトの呼吸も整ってきた。膝立ちもつらいので、地面に座る。とっくに下着の中までぐしょぐしょだ。タケトの膝の上にトン吉もぺたんとお尻で座った。もう、タケトが手を緩めても、逃げる気はないようだった。


「吾輩にも、わからないんであります。……何も、わからないんであります。自分が、何者なのかも。どれだけ長くその銃の中にいるのかも。何もわからないんであります」


 トン吉は、寸胴ずんどうのような身体を丸めて俯く。


「ずっと……ずっと、銃の中は真っ暗闇だったです……。何も聞こえなくて、何も見えなくて、いつからそこにいるのかも。ただ……怖くて。ずっと一人で。暗くて孤独で。ずっとずっと、縮こまっていたであります」


ぽつりぽつりと、耳を澄ませないと雨音にかき消えてしまいそうなほどの小さな声でトン吉は語り出した。

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