第62話 暗闇の不運
「大丈夫か?」
ランプの灯りでウルを照らしながら、様子を見る。
どうやら、ウルは横倒しに倒れているようだ。手でウルの身体に触れながら、ぐるっと周りを巡る。ウルの後ろ脚のあたりに来たとき、ウルが急に倒れた原因がタケトにもわかった。
「これか……」
顔をしかめる。
ウルの後ろ左脚を、鉄製の大きな器具ががっちりと挟み込んでいた。
「なんだこれ。……罠、か……?」
猟師が狩りにつかうような罠の、大きいやつだ。真ん中を踏み抜くと罠が発動し、尖った鉄製の牙が脚をがっちり噛んで離さない構造のもの。さらに罠は地面に鎖でしっかりと固定されている。罠が脚に食い込んだ部分がテラテラと濡れていた。手で触れて灯りに照らしてみると、赤いものがべったりと指についていた。血だ。出血している。
「誰が、こんなもの……ここ、村道だろ?」
昼間ここを通ったときは、こんなもの気づかなかった。いや、タケトたちが気づかなかったとしても、こんなところにこんな大きな罠なんてあれば村道を利用する他の村民が気づいただろう。
タケトはふと、ケニスの父親の言葉を思い出す。
フォレスト・キャットを捕まえようとあちこちから人が来て、中には森に勝手に罠をはる輩まで出て来た……そう言っていた。
「じゃあ。コレは、フォレスト・キャットを捕まえるための……?」
ウルの傷の具合を見るついでに、罠のことも観察してみる。単純な構造をしているので、なんとなくロックの外し方は想像がついた。それにいまはウルの血と土で汚れているものの、罠に錆などはなく比較的新しいもののように見受けられた。やはり、最近置かれたばかりのもののようだ。
(フォレスト・キャットを捕まえるために、この辺りに密猟者がいるってことか……)
ふいに、夕方、ケニスの父親と言い争いをしていた男たちが思い浮かぶ。たしか、女神教会のヤツらだと言っていなかったか?
馬車に、数頭の馬。ずいぶん大人数で来ているなという印象はあった。
「もしかして……あいつら……?」
はじめから、フォレスト・キャットを捕まえる目的で来たんじゃないのか?
フォレスト・キャットは女神の車を牽いていたと伝説にはある。そういう意味では、フォレスト・キャットも女神教会にとっては特別な意味をもつものなのだろう。どういう理由かはわからないが、何としてもフォレスト・キャットを手に入れたくて罠まで張っていたとしたら……?
父親がケニスは病に伏せっているから話せないといっても、無理にケニスに会おうとした連中だ。なんだか非常に焦っているようにも見えた。無茶な手段に出ないとも限らない。ケニスたちは大丈夫なんだろうか。
チリチリと心配が胸を燻す。
「……やばい。早く、村に戻らなきゃ」
しかし、頼みのウルは脚に傷を負い、走れそうになかった。
タケトは、ギリっと奥歯を噛む。
(どうにかして、一刻も早くシャンテとケニスのところに帰らないと)
薬のこともあるし。何より、女神教会のやつらが何か手を出してきていないか酷く心配だった。
「ウル。ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してな」
タケトは傍らにランプを置くと、罠に両手をかけた。おそらく、構造からするとこの横にあるレバーを強く押し込めばロックが外れて罠が開くはず。
膝で罠を押えながらレバーを強く引き下げると、カチッという音とともにウルの脚に食い込んでいた鉄の牙が開いた。それをなるべく傷に障らないようにそっと外してやる。他の動物がこの罠を踏まないように、もう一度手で真ん中の可動部を押して罠を作動させると、刃が噛み合った状態で道の脇に捨て置いた。
ランプを手にしてウルの怪我の状態を見る。
(思ったより傷は深そうだな……)
まだ血も止まっていない。
「ちょっと待ってて」
止血に使えそうなものは自分の
「痛いけど、我慢してな」
これで多少は止血帯代わりになるだろう。
応急処置が終わると、ウルは前脚を踏ん張って起き上がった。しかし、怪我した左後脚は痛くて体重をかけられないのだろう。そちらの脚は地面につかないようにあげたままだ。
三本の脚だけでも歩けないわけではなさそうだったが、走るのは無理そうだ。
一刻も早く村に着きたいが、今の状態のウルに乗せてもらうわけにもいかない。
「ウル。俺、自分で走って村までいくよ。だから、ウルは血が止まるまで森に潜んでて」
フェンリルも森に暮らす魔獣。とくに今はまだ毛の色が闇に溶け込む夜。もし万が一密猟者が近づいてきても容易に見つかることはないだろう。いざとなれば、口から吐く炎で襲撃者を焼き払うこともできる。
タケトの言ったことを理解したのだろう。どこか心配そうに、ウルは「クーン」と鳴いた。タケトはウルの大きな鼻に自分の鼻をくっつけて、お互いの無事を祈る。
「じゃあ。また、あとでな」
タケトが声をかけると、ウルは脚を引きずりながら道を外れて森の中へと入っていった。すぐに暗闇に溶けるようにウルの姿は見えなくなる。
「よしっと。急ごう」
肩にカバンをかけ直すと、タケトはランプを手にして村へ向かって走り出した。
どれだけ走っただろう。そろそろ空は白み始めていた。しかし、一向に村へはたどり着かない。
(それもそうか。ウルの脚で夜明けごろに着くって試算だったからな。俺の足だと、あとどのくらいで着くんだろう)
予想より大幅に時間がかかってしまうことが、もどかしい。
けれど、タケトの体力もそろそろ限界に近かった。体力には自信がある方だが、それでも夜通しウルに乗って湖を往復したうえ、ランプの仄かな光を頼りに足下の悪い森の中の道を駆けてきたのだ。
ようやく空が明るみはじめ、視界が開けてきた油断があったのだろう。わだちに足を取られて、つまづいてしまった。
「わ、わっ……」
思わず手にしていたランプを落としてしまう。
しかしすぐには起き上がることができず、地面に手をついたまま肩で息を弾ませた。
身体が鉛のように重かった。眠気はとうに通り過ぎていたが、息が上がって思うように身体が動かない。
落とした拍子にランプの火が消えてしまっていたが、もうランプの灯りに頼らずともいけそうだったので、カバンを開けて中にしまい込む。
そのとき、小さな布包みが手に触れた。昼間に村の近辺を調査したときに採取した、マタタビに似たツタの一部だ。
(フォレスト・キャットが、好きかもしれない香り……か)
ツンと鼻をくすぐる、その香り。
フォレスト・キャットはこの匂いにつられてやってきたところで、たまたま居合わせたケニスと出会ってしまったのだろうか。ケニスはその人嫌いな魔獣とどんな風に接していたのだろう。シャンテとウルのような親しい仲だったんだろうか。
魔獣の感情は人の感情とは違う。人の理屈は通用しない。ただ、彼らが気まぐれにこちらに心を開いてくれたときだけ、人は彼らと触れあうことができる。そんな存在だとタケトは捉えている。
疲労が極限に達して朦朧としつつあったものの、少し休んだことで呼吸が落ち着いてきた。
再び走り出そうと起き上がったとき。
ニャ----
朝霧のかなたから、小さな鳴き声のようなものが耳をかすめた気がした。
「え?」
今、猫の声のようなものが聞こえなかったか? と、きょろきょろと辺りを見回すが、変わらず森の木々がそこにあるだけで他に何も変わったものは見えなかった。
(空耳か……)
疲労のあまり、存在しない声を聞いたのかも知れない。
(もしここにフォレスト・キャットがいて、俺を乗せてってくれたら。ずっと早く村につけるのに)
頭の中で考えていたそんなことが、つい口をついて出てくる。
「なあ。フォレスト・キャット。もしこの森にいるのなら、助けてくれないか。ケニスが大変なんだ。一刻もはやく、村にいるケニスのところにこの薬を届けに行かないと、ケニスが死んでしまうかもしれない」
そう呟くものの、応えるものなどいない。
(そりゃそうだよな。そんな都合良く、助けが現れたりするわけないか)
しかし。再び走り出した、次の瞬間。
目の前に、タケトの背丈ほどもある太く大きな前脚のようなものが、ふわりと音もなく、行く手を遮るように現れた。立ち止まったタケトは目を丸くする。
「え……?」
麦畑に吹き渡る風で金色の稲穂が波立つように、脚に続いてふさふさとした豊かな毛並みが現れる。
脚の先と腹のあたりだけ白く、それ以外は金と黒が混ざる長く豊かな毛並み。
太い尻尾がゆらゆらと揺れ、ふわふわな毛に覆われた耳はピンと上を向いている。
腰高で前掲がちな姿勢のまま優雅さをたたえた金色の瞳でこちらをジッと見下ろしてくるその姿は、森の木々の間から零れる朝日を受けて神々しくすらあった。
ウルと同じか、それ以上の大きさがある。
それは、見上げるほどの巨大な猫だった。
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