第60話 夜の湖


 シャンテが呼ぶと、森の合間からすぐにウルが顔を出した。


「ウル。タケトのこと、お願いね。タケトも、気をつけて」


「ああ。わかってるって」


 村長から預かった手紙をカバンに入れて肩からかけると、タケトは伏せをしているウルの背に跨がった。


「じゃあ、行ってきます」


 見送りにきてくれた村長とケニスの父親が頭を下げる。ウルはのっそりと立ちあがると、一度シャンテの上げた手に鼻をつけると方向を変える。そして、夜の道を走り出した。


 村の明りが、すぐに木々の間に隠れて見えなくなる。

 月もない夜だった。何の灯りもない暗闇の中を、ウルは迷いなくしっかりとした足取りで走って行く。

 まだ、日が落ちてさほど時間も経っていない。この分だと、何も無ければ朝日が昇るころには帰ってこれるだろう。


 二時間ほど走ったころ。タケトの耳にグワッグワッという鳥の声が聞こえてきた。あれは、たぶん水鳥の声。わずかに水の匂いもする。


「湖のそばまで着いたら、湖に沿って走ってくれないか」


 ウルが指示通り走っているのかどうか確かめる術はなかったが、少しすると遠く離れた場所にチラチラと淡い明りが見え始める。

 近づくにつれ、それが湖の対岸にある集落の灯りだということがわかった。来る前に見た地図を思い出す。


 たぶん、この辺りが比較的、対岸との距離が短いポイントだ。


「ウル。あの灯りに向かって泳いでほしい」


 そうタケトが言うと、ウルは足を止めて対岸の灯りに身体を向けた。そして、ゆっくりとそちらへ近づいていく。

 ピチャピチャとした水音が聞こえ、ぐっとウルの姿勢が下がった。歩く揺れが、ふわとした浮遊感に変わる。タケトの靴にも冷たいものがかかった。


「わわ……」


 慌てて足を引っ込める。うっかり足を湖の中につけてしまったようだ。


「ウル。水、冷たいよな。大丈夫か?」


 その水の冷たさにタケトは心配になるが、ウルは静かに夜の湖を泳いでいった。

 泳ぎは安定していて、タケトは落ちそうになることもなく対岸へと渡り終える。一旦タケトがウルの背中からおりて、ウルがブルブルと身体を震わせ毛に染みこんだ水を切った。そのあとすぐに再びウルに乗って街道をティッタルトの街に向かって進む。


 月のない夜ということもあって、すれ違う人や馬車はいない。いくつかの集落を通り過ぎたあと、街へとたどり着いた。数日前に訪れたばかりだから、間違いない。ここが、ティッタルトの街だ。


 といっても街門は堅く閉められ、門の両脇に焚かれた篝火があるだけで人の気配はしない。ウルから降りると、タケトは門に近づいてその木戸を叩いた。


「すみません! 開けてください!」


 何度かそうやっていると、木戸につけられた小窓がパカッと開いて、中から眠たげな男が顔を出す。門番だった。

 彼にこんな夜更けに街へきた理由を説明するが、信じてもらうのに時間を食ってしまって、街の中に入れてもらえたのは三十分くらい経った後だった。


 もう皆が寝静まる真夜中。街といっても家々に明りはなく、道の所々に篝火が焚かれているだけだ。その篝火から火をもらって携帯ランプに灯りを灯すと、地図を広げて村長の知り合いだという医者の家を探す。


 こんなとき夜目が効くカロンがいてくれたらな、なんて思うが今回は同行していないのだから仕方が無い。

 なんとか家を探し出せたときには、どれくらいの時間が経ったのかもうよくわからなくなっていた。


 二階建てのその家のドアを何度も叩く。もしかして、不在なんじゃないかという嫌な予感が頭を過ぎりはじめたころ、ドアの向こう側から声が聞こえてきた。


「こんな夜分に、いったい何のようだ」


 明らかに警戒した声だ。無理もない。


「俺は、湖の向こうにある開拓民の村から来ました。そこの村長に言付けを頼まれて。村長の手紙もあります」


 ドアの向こうからは返事はなかったが、タケトは手に持っていたランプを足下に置くとカバンから村長の手紙を取り出して、それをドアの下の隙間から家の中に差し入れた。

 手紙がドアの下に吸い込まれるように消えてから、数分後。ようやく、家の主はドアを開けてくれる。


「……驚いた。まさか、あいつがアレを使いたいと言ってくるなんてな」


 ドアを開けてくれたのは白髪で神経質そうな眼鏡の男だった。どうやら、この人が薬を持っている医者らしい。


「とにかく、そこにいられても困る。入ってもらえないか」


 そう言って家へと入れてくれた。

 待合室だろうか、入ってすぐのところに簡易な長椅子がいくつか置かれていた。タケトはさらにその奥へと通される。


 その部屋には小さなベッドと机が置かれていて、壁には本や薬草の袋などが雑多に置かれた棚があった。床にもあちこちに本が積み上がっている。どうやら、ここが診療室のようだ。


「えっと……どこに入れたかな……あ、そのベッドにでも座っててくれたまえ」


 男はガタつく机の引き出しを開け、中をごそごそと探す。ものの整理整頓は苦手なタイプらしい。しばらく、机や棚を探していたが、


「あった、あった。良かった、まだ残ってると思ったんだよな」


 と言って彼が取り出してきたのは、小さな小瓶だった。

 彼はすぐにそれを渡してくれる。


「あ、代金は預かってきてて……」


 タケトはカバンを開けて中をまさぐる。ケニスの父親と村長から薬代として預かってきた金を取り出そうとしたのだが、彼はそれを手で制した。


「いや。それはワシもただ同然で手に入れたもんでな。ワシの弟子の一人が偶然みつけたもので、いろんな病に効くというので使ってみてほしいと頼まれて預かったものだ。ワシも何度かつかってみたんだが。確かに高熱がたちどころに治ることもある。しかし、まったく効かない病もあった。まだ、症例を集めている最中の試作品にすぎんのだよ」


「そう……なんですか」


「だから、あくまで試験的に使っているものだから、果たしてあの風土病に効くかどうかはワシにもわからん。それでも使うというなら、その薬はやるよ。あとで、結果だけ聞かせてくれれば金はいらん」


 タケトは、手の中の小瓶をジッと眺める。効かない場合もあるかもしれないが、効く場合もあるのだ。他に治療の手立てがない以上、使ってみる価値はあると思う。副作用は怖いけど。


「ありがとうございます」


 小瓶をカバンにしまい、ベッドから立ちあがりながらふと聞いてみる。


「偶然って……どうやってできたんですか?」


「ああ。なんでも……ある地方で昔から使われていたカビの一種を使った殺菌剤を、精霊の力を借りて改良したものらしい。元々は、化膿止めの傷薬として作ったものだったらしいんだが、梅毒の患者に間違えて注射したら見違えるくらいに回復したといってな。それから、いろんな病で試してみているらしい」


 いや、それ思いっきり人体実験じゃん。いいのかよ、それで。と思わなくもないが、『カビ』由来というところが気にかかった。それって、


(たしかペニシリンも、アオカビから作られたって聞いたことあるような。じゃあ、もしかしてこの薬も、抗生物質みたいなものなんじゃないのか)


 正直、ここに来るまでこの時代の薬にどの程度の効果が期待できるんだろうと懐疑的な気持ちもあった。しかし、抗生物質の類いだとしたら、もしかしたら劇的に効くかもしれない。


「ありがとうございます。投与した結果は、必ずお知らせします」


 一か八かだが、やるしかない。

 タケトは礼を述べると、すぐにその医者の家をあとにして街の外で待たせているウルの元へと走った。





 開拓民の村。

 シャンテは、ケニスのベッド脇に置いた椅子に座ってウトウトしていた。

 看病で昨晩から一睡もしてないというケニスの母親に代わって、看病の手伝いを申し出たためだ。母親は、いまは夫婦の寝室で身体を休めている。


 シャンテは、首がガクッと前に倒れそうになったところでハッと目が覚めた。


(いけない、いけない。しっかりしなきゃ)


 部屋の脇のタンスの上に置かれたランプが、仄かな灯りで室内をぼんやり照らしている。ケニスの顔を覗いてみると、変わらず荒い息をしていたが眠っているようだった。シャンテはサイドテーブルの上の桶の水でタオルを濡らすと、絞ってケニスの額に流れる汗を拭いてやる。


(タケト……大丈夫かな……)


 まだ帰ってこない彼のことを思うと、いろいろと心配が頭をもたげてくる。もう彼が村を経ってから随分と時間が経ったはずだ。そろそろ夜が明けるのも近いだろう。


 そのとき。ガンッという物音がした。シャンテはタオルを桶に戻すと顔を上げる。


(え……なんだろう)


 耳を澄ますと、ガタガタッと先ほどより大きな音が確かに聞こえた。部屋の外。玄関の方からだ。

 次に、ドアの向こうからどなり声が聞こえてくる。


「な、なんですか! あんたたちは!」


 ケニスの父親の声だ。ドカドカという複数の足音。


(誰かが、こっちに来る……)


 シャンテはケニスを守るようにベッドの前に立った。

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