第55話 森の猫
山あいにある広く深い森。
多くの生き物たちを育むその森は、人間たちによる開発の手がようやく伸び始めたばかりの未知なる土地。
これは、そんな深き森のほとりに作られた開拓民の村に住む、ひとりの少年の物語。
「ここでいいかい」
「うん。いいよ」
少年は、木こりをしている父親の背に
その小さな背に、父親が毛布をかけ身体をくるんでくれた。
「寒くないように、しないとな。ケニス」
「大丈夫だよ。父さん」
ケニスと呼ばれた少年は、毛布の端を両手でぎゅっと掴むと父親を見上げる。ふもとの村の辺りは次第に温かくなりつつあるが、山頂から吹き降ろす空気はまだ冷たい。
「じゃあ、私はあっちで木を切っているから」
大きな手で頭を優しく撫でられ、ケニスは頷く。父親は愛しげに目を細めたあと、斧を肩へと担いで少年の元を去って行った。高い木々の合間に見え隠れしていた父親の背中が、次第に小さくなって、ついには見えなくなる。
身体の弱いケニスは、家に籠もって一日を過ごすのが常だった。いろいろな土地から開拓民が集まってできた彼の村には、同年代の子どもも沢山いる。しかし、彼らと一緒に遊ぶとすぐに身体がついていかず体調を崩してしまうため、ここ一年程は窓から彼らが遊ぶ姿を眺めるだけになっていた。
しかしずっと籠もってばかりいるのも成長によくない、と若い頃に街で医者をしていたという村長は言っていた。人が健康に育つには、太陽と森の力が必要だと。
そこで、近頃は陽気のいい日にこうやって父親の山仕事に同行させてもらい、森林浴を楽しむようにしていた。ケニスはすぐに森が大好きになる。父親が昼ご飯を食べに自宅へ帰るまでのわずかな時間だが、この時間だけがケニスにとって、大好きな森の中で自由に過ごせる楽しいひとときとなっていた。
自分で歩き回ることはあまりしないものの、ただここに座っているだけでも、鳥の声や時折響くシカの鳴き声、風が草木を揺らす音、草葉の青い香りなど全身で森を感じることができる。いつも家の中にばかりいるケニスにとっては、なにもかもが貴重で楽しく感じられた。
ケニスは、森の匂いを嗅いでスンと鼻を鳴らす。
(森の香りがする。もう少ししたら、花の香りも混ざり始めるかな……)
ただただ、穏やかな森の時間に身を委ねていた。
どれだけそうしていたのだろうか。そろそろ父が迎えに来る頃合いかも知れない、そう思ったとき。
ガサッ……ガサ、ガサッ……
何かが草を掻き分ける音が耳を掠めた。
(なんだろう……シカかな……?)
この森に住む大型の生き物はヘラジカくらいなものだ。オオカミやクマも全くいないわけではないが、この辺りの土地はニオイの強い野草が数多く茂るため、そのニオイを嫌って肉食獣はあまり近づいてこない。
……ガサガサッ……ガサッ……
(あれ……)
何度か聞いたことがある、ヘラジカの歩く音とは違う。もっとこう、……軽やかで、跳ねる様な不規則な音だ。
何の生き物だろう……そうケニスが不思議に思って音のする方へと視線を向けたとき。
森の茂みの間から、黄色い毛玉のようなものが転がり出てきた。毛玉と言っても、今年で十歳になるケニスの背丈ほどもある大きな毛玉だ。
「わ、わわ……」
驚いたケニスの声が、その毛玉にも聞こえたのだろう。毛玉はピタッと動きをとめると、もこもことした前足を丁寧にそろえて、その場に座った。
一瞬毛玉のように見えたソレは、大きな猫のような姿をしていた。
黄色……いや、黄金色と黒が混ざるフサフサとした厚手の毛。太い前足に、同じ色の毛に覆われた太い尻尾。ピンと上を向いた三角の耳もフワフワの毛に覆われている。森の中から突然現れた大きな猫のような生き物に驚いていたら、ソレが出て来た茂みからもう一匹、よく似た獣がぴょんぴょんと楽しそうに跳ねて出てきた。身体は大きいが、動きの軽やかさはまるで子猫のようだ。そして、最初に出て来た方を誘うかのように、地面に転がって前足でちょっかいをかけだした。
(え、ね、猫……?)
こんな大きな猫は村でも見たことがない。それに森にこんな生き物がいるだなんて、森で木こりとして働く父やその仲間たちにも聞いたことがなかった。
二匹の猫は、大きな身体をものともせず、子猫のようにじゃれ合う。楽しそうにはしゃぐ二匹をケニスはただ唖然と眺めているだけだったが、猫たちのじゃれ合いは次第にヒートアップして、お互いに歯をむいて威嚇しだした。
(ど、どうしよう。逃げた方がいいのかな……)
いくら外見が猫っぽいとはいえ、あの大きな爪と牙で襲われたらひとたまりも無いだろう。
襲われたらどうしよう、という心配が頭をもたげてきた。逃げようか、それとも叫んで父親を呼ぶか。今はまだ猫たちは遊びに夢中でこちらの存在に気付いていないようだが、大声をあげたらさすがに気付かれてしまうだろう。どうしようか迷っていたら、突然大きな前足のようなものが虚空からヌッと伸びてきて、二匹の猫を上から押さえつけた。不思議なことに、前足だけがそこにあった。
まるでケンカを止めさせようとするかのようなその前足は、二匹の猫たちと同じく先だけ白い、黄金色と黒色の混じった毛色をしている。
(え……?)
呆気にとられてその様子を眺めているしかできないケニス。その彼の目の前で、前足より上の部分が、まるで筆と絵の具を使って虚空に次々と描き足していくように浮かび出る。胸、胴、後ろ足……そして大きな顔までが現れた。ついいましがた森の木々しか見えなかった場所に、いつの間にか一匹の巨大な猫が現れていた。
先に出て来た二匹も大きいと思ったが、最後にでてきた一匹はそれとは比べものにならないほどの大きさだ。ケニスの村にある二階建ての村長の家よりもさらに大きい。
この猫と比べたら、はじめに出て来た二匹はまるで子猫のようだ。
いや、実際のところその三匹は親子のようにもみえた。小さい猫の片割れの首を大きな猫がぐいっと掴んで持ち上げる。それはまさしく、親猫が子猫を運ぶ仕草そのものだ。
子猫をどこかへ運ぼうとして親猫が方向転換したとき、切り株の上で毛布にくるまっていたケニスと偶然、目が合った。
金色の大きな目が、驚いたようにさらに大きくなり、じっとこちらを見つめてくる。どうしよう。ここにいることを気付かれてしまった。これでは逃げようがない。
しかし真正面から見たその姿は凜とした気品が漂っていてとても美しく、魅了される気持ちの方が、怖いという感情を凌駕した。
「うわぁ。君は……なんて綺麗なんだろう……」
いままで生きてきた中で、こんなに美しい生き物をケニスは見たことがなかった。
神が自らの手で作ったのではないかと思うほどの造形美に、しなやかな動作。その一つ一つが貴婦人のような気品に溢れていた。つい、ひざまずいて拝みたくなるほどの神々しさだ。
大きな猫は口に咥えていた子猫をそっと地面へ置くと、その場で姿勢良くお座りをしてケニスを金色の瞳で静かに見下ろす。
これが、ケニスとフォレスト・キャットの初めての出会いだった。
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