第3話 押収物Gー38番
逃げなきゃとは思うものの、その一方でなんだかもう、さっきから訳の分からないことの連続で疲れたな。もう、どうなっても、どうでもいいや。そんな諦めの気持ちが心に湧き上がりはじめていた。
向けられた矢をタケトは、ぼんやりと眺める。それが自分に向けられたものだと理解はしているが、避ける気力が沸いてこない。
意味が通じるのかどうかわからないが、とりあえず抵抗の意思はないことくらいは伝えておこうと思って、タケトは地面に膝をついたままゆるゆると両手をあげてみた。
弓を構えた相手と目が合う。そいつはこちらに向けて弓をぐっと引き絞った。
撃たれる……と覚悟した、そのとき。
彼らは、何かに気づいた様子で急に慌てだした。こちらに向けられていた弓も、タケトから離れて別の方向に向けられる。
(え、どうした……?)
ある者はどこかに向かって弓を放ち、ある者は馬の綱を引いて方向を変えると、慌てたように走り出した。みな一様に何かに怯えているようだ。
今度は何が起こったんだ? と彼らの視線が向いてる方へタケトも目を向ける。次から次へと訳の分からないことが起こって、もう何が起こっても驚いてなんかやらないからなという変に肝の据わった気分だった。
そのタケトの視界が、突然暗くなる。
風が、『大きな影』を伴って、ふわりとタケトの上を通り過ぎていったように感じた。
(え?)
音もなく。その『大きな影』は、逃げようとしていた毛皮の人間たちの前にトンっと軽やかに降り立った。艶やかな漆黒の毛を風になびかせた、象の二、三倍はありそうな巨体。ピンと上を向いた三角の耳、地面につきそうなほど長い尻尾、そして大きく裂けた口、間からは鋭い歯が覗いている。
ソレは巨大な犬の形をしていた。
いや、犬のような何かだった。狼かもしれない。何にしろ、そんな生き物だ。でも、こんなバカでかい犬なんて見たことがない。タケトは、とりあえずその大きさに圧倒されて唖然とする。その犬が敵なのか味方なのか無関係なのかもわからない。
でも。
美しい、と思った。
そんな美しい生き物が、本当にこの地上に存在するんだろうか。その悠然と立つ姿を、神々しいとすら感じて思わず見取れてしまった。
見惚れたのは、その黒犬の姿ばかりではない。
その冗談みたいにバカでかい黒犬の首のあたりに、一人の少女が跨がっていた。十代後半くらいの少女だ。
彼女の腰まである長くストレートな銀髪が風に煽られた。それを手でなでつけて少女は耳にかける。タケトには一瞥もくれず、まだあどけなさの残る端正な目元は険しさを湛えて、馬に跨がる毛皮の人間達と、その間に転がる鷲馬に向けられていた。
まるで希世の名工が作ったガラス細工か陶器かというような白く澄んだ肌と、すらっとした長い手足。彼女は膝に体長一メートルほどの人形を置いている。左手でその人形を支えたまま、右手を前に突き出して凜とした声で何かを叫んだ。
その声に呼応するように、辺りに青白い光が走る。眩しさにタケトが目をすがめていると、バリバリという雷のような音が轟き、あちこちから悲鳴があがった。少女が掲げた手と投げた言葉に呼応して、毛皮の人間たちの上に小さな雷のようなものが発生し、彼らの頭上に落ちたように見えた。
毛皮の人間たちは抵抗することもできず動きを止める。弓を構えていた者も、だらんと両手を降ろして馬の上でぐったりとなった。その身体からは薄らと黒い煙が上がっているようにも見える。馬から転げ落ちる者もいた。うめき声をあげているから、死んだりしたわけではなさそうだ。
一人の毛皮の男が、身体を小刻みに震わせながらも腰に差していた剣を抜いて、それを杖にするように必死に立ちあがろうとしていた。その怨嗟に満ちた瞳は少女と黒犬に向けられている。
少女が何か言葉を発すると、例の巨大な黒犬は真っ赤な口をあけてハァハァと息を吐いて、伏せの姿勢をとった。その背中から、銀髪の少女が人形を抱いたまま降りてくる。そして、毛皮の人間たちの前に、抱えていた人形を立たせた。
いや、ゴスロリのような紫色でフリルたっぷりのドレスを着て青緑の少し毛先の跳ねた髪をしたその人形のようなものは、自分の二本足で地面にしっかりと立った。あまりに造形が作りものっぽかったので人形だとばかり思っていたけれど、ソレは酷く小柄ではあるものの
どうやら、人形ではなくて生きた女の子だったようだ。その左目は黒い眼帯で覆われているため、余計作り物っぽさに拍車をかけている。
人形のようなその女の子は、数歩こちらに近づいてくると、足を止めてにたっと口端をあげて笑った。そしてゆっくりとその眼帯を外す。
眼帯の下にあったものは、異様な色の瞳だった。
本来、白目があるはずのところが真っ黒で、瞳の部分だけ
その異様な瞳に吸いつけられるようにタケトも彼女の左目に視線が捕らえられたあと、突如、身体が動かなくなる。そして、タケトの意識はそこで途切れた。
次にタケトが意識を取り戻したときには、どこか薄暗い室内のようなところにいた。石床に転がされた状態で、しかもなぜか全身がビシャビシャに濡れている。なんだこれ。なんだかローズマリーとペパーミントを混ぜたような変な匂いがする。
部屋の一方は鉄格子になっていて、近くにあの鷲馬を捕まえようとしていた毛皮の人間達がゴロゴロと転がされていたから、ああ、どっか牢屋みたいなところに捕まっているんだなということは想像がついた。
そのうえ、全身がしびれたようにだるい。正座しすぎて足の感覚がなくなったときみたいな気持ち悪い感じが全身にある。身体が動かせないわけではないが、酷くだるい。
と、背中の方から誰かの声が聞こえてきた。ここに自分と毛皮人間たち以外にも別の人間がいるんだと気づいて、タケトは転がったまま頭を巡らせてそちらを見やった。
そこには、あの銀髪の少女と人形のような女の子の姿があった。
それと、もう一人、知らない人間がいる。いや、そもそも人間というべきなのかどうなのかすらよくわからない。何やら言い合いをしている銀髪少女と人形のような女の子を、やれやれという様子でなだめていたのは、金色の瞳に真っ黒い毛並みをした
あれはかぶり物か何かなんだろうか。それにしては、動きがいやにリアルだ。男だと思ったのは、声がテノールっぽい若干高めの男性声だったから。鼻の先には、サイズがあってなさそうな丸眼鏡が乗っているが、あれは意味があるんだろうか。
まるでお
何を話しているんだろう、よくないことじゃなきゃいいけど、なんてぼんやり思いながらも、そもそも彼らの言語が何を言っているのかさっぱり理解できないことに気づく。
タケトは起き上がると、「あの……」とおそるおそる彼らに声をかけてみた。はじめ日本語で話しかけてみたが、全く言葉が通じている様子がない。試しに英語と、出張に出る前に少しだけ勉強したタイ語で話しかけてみたものの、こちらも反応は同じ。まったく通じていなかった。
どうしたらいいんだろうと困っていると、銀髪の少女に何か指示されたらしい黒豹男が一旦、その場から姿を消した。そして、数分して彼が戻ってきたときには、手に何やら白い小さな宝石のようなものを持っていた。
タケトが、何だろう? と見ていると、突然黒豹男に強い力で無理矢理身体を押さえつけられて、その石のようなものを口に入れられた。鼻をつままれたせいで、思わずその石を飲み込んでしまう。
驚いて咳き込んでいたら、
「だから、言ったじゃない。彼は密猟者じゃないって」
そんな言葉が聞こえてきた。涙目のまま見上げると、銀髪の少女が腰に手をあてて怒ったように端正な眉を寄せていた。彼女が怒っている相手は、あの眼帯をした人形みたいな女の子だ。
「なのに、ブリジッタったら、一緒くたに石化させちゃうんだもん」
ブリジッタと呼ばれた人形のような女の子は、銀髪の少女の言葉など意に介した様子もなく、小さな腕を胸の前で組んでプイッとソッポを向く。
「あんなところにいるのが悪いんですもの。ワラワのせいじゃないですわ?」
ちっとも悪びれた素振りも見せず、逆にタケトに向かって「どうして、ソチは、あんなところにいたのかしら? おかげで、余計な面倒を押しつけられてしまったじゃなくて?」と言ってくる。
(……一体、なんなんだ、この状況)
その二人の会話を、タケトは何が何だかわからず途方に暮れながらぼんやり聞いていると、ブリジッタと呼ばれた女の子が肩に手をかけてきて、こう言った。
「言葉、理解できるようになってますわよね? ようこそ。魔獣密猟取締官事務所へ。ソチは、うちの押収物番号G-38番でしてよ。大人しく保管されておいてくださる?」
不思議なことに、あの石のようなものを飲まされて以降、彼らの言葉が全て理解できるようになっていた。
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