第2話 Carsten Ali Winkler
気づくと椅子に座っていた。さっきまで座っていた寮の部屋にある椅子ではなく、木で作られた本格的な椅子だ。
「あなたは……異世界の住人に選ばれました」
そう、自分に向かって女の子が話してくる。なんのことだかさっぱり理解できなかったので、尋ねると……どうやら自分はあの小説で読んでいたような異世界に召喚されたらしい。だけど、元の世界での自分という存在はどうなる? そう思い、再び問いかけた。
「あなたは、あちらの世界では最初から存在していなかったことになる。これを見てもらえば、それが理解できるのではないでしょうか」
そう言いながら、女の子は30センチほどの大きな手鏡を自分に示した。
そこには────
自分という存在が居ないクラス
自分という存在が居ない寮
自分という存在が居ない実家
そして何より、ピアノをやめた筈の姉がそれまでの自分と同じ……つまり、嫌々ながらあの学校に存在している姉の姿があった。
「つまり、もう戻る場所がないということですね」
「そうなります……」
目の前に居る女の子は自分のことを「女神」だと言っている。そして、自分が異世界召喚に選定された理由を尋ねると「優れた音楽家が欲しかったからだ」と答えていた。あの学校でも、ピアノの腕前はそれほど高くなく、どちらかといえば下の方だったのだが……。
「──── それに、僕よりも音楽への情熱が高い人間は、沢山居たはずです」
「今から行く世界では音楽の能力もさることながら、冷静な判断力や……何よりも数学の力が求められます。そして何よりも若さも求められます。それらを総合して判断した結果が、あなたでした……」
「数学が必要?」
「実際に行ってもらえば、ご理解頂けると思います」
女の子はそう、静かに答えると「あとは世界に行けば、どうにかなる」と言う。言葉は今のままでも通じるようになっているし、何より10歳になってしまうらしい。異世界では15歳が成人であり、それまでの間は学校に通ったり、仕事をしながら生活をしているようだ。15歳までの5年間で異世界の文化を把握し、そして異世界で「何か」を達成して欲しいと話していた。
「何か……って、何ですか?」
「それは、あなたの転移した先で……あなた自身が見つけるものです」
女の子はそれ以上、何も言わなかった。渋々ながら異世界への転移を受け入れ、向こうの世界で10歳として転移することになった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
カールステン・アリ・ウィンクラー
これが、自分が転移した先での名前のようだ。「なんだか、ドイツ人っぽいな」と思いながらも、聞こえてくる言語は全て日本語。しかし、周囲には親のような存在もなく……石畳の上で立っている。道幅の広くないその場所は市場のような活気があり、道ゆく人々も買い物を楽しんでいるような雰囲気だった。
しばらく街並みを観察することにしよう。
そう、心に決め人々の流れに沿って街を歩いていた。
「どうしたんだ? 坊主、迷子にでもなったか?」
いきなり、汚い顔が視界に飛び込んでくる。何日も風呂に入っていないような悪臭が漂い、歯も磨かれていない。何より吐く息は酒臭く、生ゴミのような人間がそこに居た。
「迷子などではない。失せろ!」
大きな声で叫んだ瞬間、後頭部に大きな鈍痛が走った……そして、簡単に自分の意識を手放すことになった。
遠くで声が聞こえる。
どうやら商売をしているようだ。
それにしても、なんだか寒い……。
椅子に座らされているようだが、両手の自由はない。
気づくと、さっきの汚い顔の人間が自分の隣で商売をしていた。もちろん売られているのは自分自身だと気づくまでに、大した時間は必要ではなかった。
多くの人間が、自分の顔を覗き込んで行く。
中には「なんだ、男か……女だったら良かったのに」と下衆なイントネーションでその言葉を発し、立ち去って行く人間も居た。しばらくそうやって売り物となっていると、目の前に黒い影が現れた。
「人間を売買するなど、一番愚劣で卑しい行為だ。神の意志に反する行為であるぞ……その子供を今すぐ解放しなさい」
穏やかではあるが、力強い口調で黒い影は言った。
次の瞬間、自分を売買して居た人間はその場から立ち去り、自分は解放されたと確信した。
「大丈夫かい?」
「……はい」
「名前は、なんと言う?」
「……か、カールステンです」
そんなやりとりをしている間に黒い影はナイフを取り出し、両手の自由を回復してくれた。その後、どこから来たのか、両親はいるのかなど聞かれたが……異世界から転移してきたとは言えず、黙っていた。もっとも異世界から転移してきたという事実を告げなければ、自分について話ができるような話題は何一つ持っていない。
中世の街並みを歩く。
黒い影の正体は、老神父だった。
世界史の授業でもあったが、中世における宗教は絶対であり……教会は現在とは比べ物にならないぐらいに大きな存在であったらしい。そして、それはこの異世界に来ても同じであった。教会の神父であればなおさら、権威であることは想像することができた。それと同時に、あと一歩間違えば、自分は奴隷としてこの異世界生活を始めなければならなかったのだと思った。
老神父は名をファルコと自己紹介した。言ってもわからないだろうが……と付け加えながら、自分が住んでいる教会は『免罪符』の発行を行わないため信者が離れてしまい、今となっては誰も立ち寄らない教会になってしまったこと、しかしその『免罪符』の発行は神の教えに反する行為であることなどを話し、教会へと僕を連れ帰った。
「さ……お食べなさい」
目の前には野菜のスープとパンが置かれていた。スープは皿の底が透けて見えるほど具が入っておらず、パンは見た目からして固そうだった。もっとも中世のパンは固く、スープにそれを浸して食べていたという話を聞いたことがあったので、きっと固くて齧ることのできないものなのだろうと思った。
「い……いただきます」
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