異世界の音
黒芯0.7mm
第1話 プロローグ
6月の鬱陶しい雨と様々な楽器の音色が響く校舎。
この場所に居る誰もが音楽の道を志し、そして日夜の練習に明け暮れる。学校は全寮制であり、高校生である自分の時間のほぼ大部分を音楽に充てられる環境は、音楽家への道を志す中学生の羨望の的であり、同時に1つの到達点である。本当はこの場所がスタート地点なのだろうが、生徒の多くは小学生の頃からこの環境を目指しているらしい。
「何か、起こらないかな」
そう呟いてみるものの、特に変化が起こるわけでもない。変化を求めるならば自ら能動的になって現実と向かい合う以外に方法がないことは知っている。ただ、自分の目の前にある現実は「向き合いたくない」現象で満ち溢れているのだ。
午後のレッスンもまた「感情」「感情」「感情」の連発だった。
音の長短、強弱の一体どこに「感情」が詰まっているのだろう。だが、自分の演奏に下される評価は『感情表現が素晴らしい』の一言だった。周囲が絶賛すればするほど、自分の心はピアノ、いや音楽そのものから離れていった。「感情」といっても自分勝手に演奏することは許されない。いつしか課題曲を演奏したCDを買い、それを多少自分なりにアレンジして弾くことでコンクールの常連になっていた。その上での評価が『感情表現が素晴らしい』だった。何もわかっていない、ただ作業のように弾かれるピアノのどこに評価があるのだろうか? 自分はそれで葛藤していた。だが、本質はそこではない。
「また、寮の部屋に引きこもり?」
クラスメイトが声をかけてくる。見慣れた顔ではあるものの、その人物の名前を知らない。この学校に居る生徒で魅力的な人間など、1人も居ないのだから。そもそも覚える価値もない。もっともこの人物でさえ、これまで育ってきた地域では『神童』と持て囃されてきたのだろう。その証拠に表情には根拠のない自信が漲っている。
ピアノを始めたのは音楽家である両親がきっかけだった。両親ともにオーケストラに所属し、3人の子供にそれぞれ音楽の道を選択させた。上の兄妹2人はそれぞれ音楽の道を諦め、今は別の道に進んでいる。残りの1人であった自分自身は……そうはさせまいとする両親の圧力と、自分の道を進みたいという希望さえも口に出せない消極的な性格から、今この場所に居る。
寮の部屋へと戻り、部屋を一望する。
6畳ほどの部屋には机とベッドが置かれ、後は入った人間が様々な形でアレンジできるよう家具の類は壁と一体化している。寮内では楽器の演奏は禁止されているため、他の生徒はまだ学校に残って練習しており寮内は保たれている。この時間から食堂で一斉に摂られる夕食の時間までが自分にとってのゴールデンタイムだ。
私服へと手早く着替え、机に向かう。手にしているのは数学の問題集だ。現在は高等部1年であるが、高校でやる数学の範囲は中学生の頃、すでに終えていた。音楽から逃げる唯一の手段が勉強だったので、学校での成績は「音楽以外はトップ」であった。もっとも、この学校自体が音楽以外の科目に注力するわけでもなく、その能力は『無駄』と称されていた。
開かれたノートの端から、数式が書き込まれていく。
数学の美点は「感情」が入り込まないところであると思っている。論理的に矛盾がなければ成立する世界。無駄を一切廃した、究極の理論の世界。自分の頭の中で2次元も3次元も、そして4次元の世界さえも自由に行き来することができる。人間の頭の中では捉えきれない4次元の世界、その世界はどんな形をしているのだろう? そう考えただけで、心が踊る。
あっという間に夕食の時間になっていた。寮内に放送が流れ、食堂へと移動するようアナウンスがなされていた。気づかない間に他の生徒は帰寮しており、寮内には活気が戻っていた。
「また、部屋に引きこもってたの?」
「……ああ、」
決められた座席で食事をするよう言われているので、目の前に居る人間とは朝と晩の2回は顔を合わせることになる。昼は学校外へ出ることが許されて居るので、コンビニで適当に食事を調達し、校舎内で食べるので1人で過ごすことができている。目の前に居る人間はいちいち自分に話しかけてくる厄介者で、自分のプライベートから何から何まで探ろうとしてくる。この間、ついうっかり「数学が好きだ」と口を滑らせたら、中間考査前に寮の部屋まで押しかけられ、夜更けまで数学の勉強に付き合わされたぐらいだ。それ以来、相手方は「親友だ」と言って憚らない。
「迷惑な話だ……」
そう呟くと、目の前に居る人間は目を白黒させ自分の顔を覗き込んでくる。
手早く食器を片付け、返却口に向かう。この学校に居る人間と自分との間に距離を感じていた。それは憂鬱なほど高い壁のようなものだった。乗り越えるには相当の努力と時間を必要とする。そんな努力をするのであれば、一人の方がよっぽど良い。ゴールデンウィークを過ぎた頃にはそう感じていたので、極力関わらないように生活をするようになった。
この学校は圧倒的に女子が多い。音楽の学校であるので、それも仕方がないと思うのだがそれゆえ数少ない男子には妙な連帯感が生まれ、その連帯感が自分にとってさらにマイナスとなって現れてきた。
「そういえば、この前貸した小説読んだ?」
「あ、あれ……読んだけど、なんだかよく分からなかった」
急に話しかけられた。この間借りた(押し付けられたと言ってもいい……)小説は『ラノベ』と呼ばれている小説で、主人公が現実から「異世界」と呼ばれる中世(自分は近世の方が近いのではないか? と思っている)世界に飛ばされてしまうという荒唐無稽な小説を言っているのだと思い、そう答えた。異世界へ行くことで、自分が持っていた様々な能力が異世界では考えられない(いわゆるチート能力)能力を発揮し、魔王を倒すというような内容だった。
「なぜ、異世界に行くと……それまでの能力が別のものに置き換わるんだ?」
「それがなかったら、異世界モノの話なんて根底から崩れてしまうよ」
思いっきり笑われた。周囲の人間も同じものを読んでいるらしく、その人間と同調するように笑っていた。もっともピアノをはじめ楽器の練習には目に見える努力が必要とされる。毎日の練習で進歩する量はごくわずか。そして、どこまで練習すれば上達するのかさえ……誰にも分からない。そんな世界で生活する彼らにとって『レベル』という数値で自分の能力が見え、努力をすればその数値が見える形で示される世界は魅力的に映るのかも知れない。それは自分と同じように辛い現実からの『逃避』であると思えた。辛い現実からの一瞬の『逃避』。それは自分にとっての数学と変わらないものだと思えた。
「でさ、もし異世界があったら……何をしてみたい? 剣豪になって、モンスターをバタバタと倒していくのも良いし、魔法を使って……」
「たぶん、何もしない……いや、数学の研究者になりたい」
その異世界離れした答えに、一同が唖然としている。だが、現実で実現できない「夢」を異世界に託して実現するのであれば、自分にとっては「音楽から逃れること」であり「数学の研究者となる」のは夢だった。
「音楽とは、違う道に進みたい」
音楽を志す子供達が目標としている学校の生徒である自分達は「エリートである」と自負している周囲の人間にとって「音楽とは、違う道に進みたい」という自分の希望は相容れないものであると思う。こんな他愛もない会話でさえ、住んでいる文化が違う人間とは成立しないものである。ましてそれが異世界であるならば、もっと成立しないのではないか? そう考えながら、一人で部屋に戻った。これから就寝の時間までの数時間、また数学の勉強ができる。
椅子に座り、さっきの問題の続きをやる。
A4サイズの方眼ノートに綺麗に描かれた数式やグラフが目に飛び込んでくる。鉛筆を握りしめ、また新しい問題へと向かっていく。
その瞬間、ノートに描かれた数式やグラフが浮かび上がって消えた。
──── 異世界召喚
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