第3話 異世界へ


「……夜になると尿意に襲われて、おちおち眠れんわい」


 武の道を引退したからと言って、毎日の鍛練は欠かしておらぬ。

 故に儂は、七十歳の割にはしゃきっとしておると思うし、筋肉もしっかりある。容姿を見るだけなら六十歳に見られる自信がある。

 だから、夜中のおねしょというのは、いくら老人だからという理由で許せる訳がなかった。

 

 洋式トイレに入り、用を済ませる。

 我慢した後に放出すると、何とも言えぬ解放感があるの……。

 そしてトイレを出ると、約三十メートル先に人の形をした白いもやが立っていた。

 煙にしては輪郭がはっきりしているし、どう考えても人型だった。

 儂は条件反射的に構えを取る。我が流派の構えだ。


「誰じゃ!」


 叫んでみるが、一切反応がない。

 これは所謂幽霊という奴なのかの?

 そんなまさか。儂はオカルトは信じないタチなんじゃ。

 何かしらトリックを仕込んだ泥棒かもしれぬ。

 儂は足に力を入れて、正体不明のもやとの距離を詰めようとした瞬間、そのもやはすっととある部屋に入っていた。

 戸も開けずに、すっと入っていった部屋は、亡くなった妻の絹代さんの衣服部屋だった。

 絹代さんはお洒落が好きで、一般人以上の財産があった儂は色々とプレゼントした。まぁ量が多くなったから、家で空いている部屋を絹代さん専用の衣服部屋にしたんじゃ。

 そこには、質屋に売れば高額で買い取ってもらえる物も存在していた。


「待て!!」


 儂は部屋の戸を開く。

 すると白いもやは、部屋のとある場所の前に立っていた。

 絹代さんが生前、ここは開けないでと強く儂に言い聞かせていた障子の間だった。

 中に何があるか、ついに知る事はなく、亡くなった後もその言い付けを守っていた。

 これは儂が買った家で、購入した時は障子の奥は五畳程度の小部屋だったはず。

 儂が当時の事を思っていた時、突然障子がピシャリと開いた。

 開いた先には小部屋は存在しておらず、ブラックホールのような漆黒の空間が広がっていた。

 あまりの出来事に驚いていると、さらに白いもやは明確に人の形に形状を変えていく。

 その姿に、儂はとても懐かしく感じてしまった。


「き、絹代さん――なのかえ?」


 表情はのっぺらぼうで読めないし、全身真っ白で影すらも付いていない。

 それでも雰囲気や佇まいが彼女そのままだったのじゃ。

 白いもやは、絹代さんの幽霊なのかもしれない。

 先程まで幽霊は信じないと言っていた。だが、これ程までに懐かしさと嬉しさ、悲しさを感じられるのは彼女しかいない。

 幽霊でもいい、もう一度会いたかった。


 儂はゆっくりと彼女に近付く。

 するとまるで逃げるように、絹代さんの幽霊は闇の奥へと移動してしまった。


「何故じゃ、何故逃げる!!」


 儂も堪らず走り出す。

 闇の奥が地獄だろうが構わぬ。どんな所であっても、儂は彼女と話をしたかった。

 しかしいくら走っても絹代さんに追い付けない。流石は幽霊といった所か。


「待っておくれ、絹代さん!!」


 何故だろう、闇の奥へ進むにつれて身体が軋むように痛くなる。

 しかし儂は立ち止まらない。

 

 ふと、白いもやが止まって振り返った。

 儂を待ってくれているのか?

 だが違った。

 急に闇の空間が眩い光に包まれた。

 あまりの眩しさに、儂は目を瞑ってしまう。


 ゆっくりと目を開くと、次に儂が見た光景は狭い部屋の中だった。


「な、何が起きたんじゃ? 絹代さんは? 絹代さんは何処じゃ!?」


 一人が入るのがやっとの狭い部屋に、絹代さんの幽霊はいなかった。

 代わりに、何か置き手紙が置いてあった。


「これは……日本語じゃな」


 手に取って読み上げてみる。


『ようこそ、異世界へ。

 私が亡くなって腐ってしまっている貴方を見過ごせなくて、天国から贈り物をさせていただきました。

 生前貴方は、心踊る対戦相手がいないと仰っていましたね?

 ですので、きっと貴方ならこの異世界が好きになると思い、転移させました。

 ここは命が軽く、強い者が讃えられ、屈強な戦士達が山ほどいる、剣と魔法とスキルが溢れた世界です。あっ、スキルっていうのは、必殺技みたいなものですね♪

 この世界ではきっと、今まで味わえなかった戦いが出来る筈です。

 手紙の下に置いてある服は、この世界用として私が用意しました。きっと、貴方に似合う筈ですよ。

 それでは、この世界で貴方の名を轟かせてくれる事を、天国から見守っています。

                                      斎藤 絹代』


「き、絹代さん……?」


 何が何だかさっぱりわからない。

 異世界? 剣と魔法とスキル? 

 突然の事で落ち着けない。


「……とりあえず、せっかくだから用意してもらった服を着るか」


 着る前に背後を見たが、儂が来たであろう空間は一切無く、部屋の壁があるだけだった。

 まだ状況を把握出来ていないが、儂は服を着る。

 黒のジャケットに白のシャツ、そして動きやすい黒のズボン。さらには金属製の籠手とブーツも用意されていた。

 これは刃物を防御出来るし、こちらの打撃にも使える、攻防一体の防具じゃな。

 装着してみると、思ったより重さを感じない。

 これならずっと着けていても問題ない。


「そういえば絹代さん、何故か儂に黒い服を着せたがっておったなぁ」


 しかし、本当に手紙の通りだとしたら、ここは危険が多そうな異世界という事になる。

 剣などは《裏武闘》で散々やってきたから別に驚かないが、魔法と必殺技みたいなスキル、か。

 どういうものかが興味が出てきた。

 同時に心が踊っているようにも感じる。


「ふふっ、久々の感覚じゃな。悪くない」


 さてさて、まずはこの世界を把握する為に、散歩でもするかの。

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