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M県S市S町、バロック建築の建物、7時32分。
「……朝ご飯、食べますかね」
どこにでも売ってそうな木製のしっかりとしたベッドから起き、棚から白いタキシードを取り出し、そそくさと着替えた青年は、化粧台の鏡を眺め、蝶ネクタイを整えながら誰かに言うわけでもなくそうつぶやいた。アツアツの紅茶をポットからティーカップに注ぐ。そして、テーブルに無造作に置かれていた赤いボタンを慣れた手つきで押した。
『…ッアあああアアアアアアァァアあぁァァァアアアアアああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!』
蓄音機を模したスピーカーから青年の耳に聞こえてきたのは、鼓膜を破るような「人間の悲鳴」だった。しかし青年はその悲鳴をまるでスロー・ジャズを楽しむように、紅茶をすすりながら聞く。
「うん、いい声だ。まだ殺してしまってはもったいない」
そうして、青年は紅茶をひと通り嗜んだ後、部屋を出て地下室へと降りて行った。その先が何か、知る者は誰もいない。青年一人を除いて。
@
「……言い訳は一応聞く」
「どうもありがとう」
M北高校、図書室、十時半。
私は転校生を案内するために教室を後にした。クラスの興味の目を気にせずドアの外へ転校生を連れ出したのだが、クラスから出た瞬間噂話をし始めた。うう、せっかくクラスにできるだけかかわらずにここまで過ごしてきたっていうのに。ほんとに運が悪い。
転校生……奈津 椿は、そうだね、と一旦自分を落ち着かせるように深呼吸すると、私の目を見て、はっきりと、自信をもってこう言った。
「シヨがどんな学校生活を送っているのか見たか
「大馬鹿野郎ォオオオおおがアアアアアアアアアアアアアアァァァ!!!」
椿の方を向いたまま足を伸ばす。そのまま外側から内側に向かって大きく円を描くような形で足をぶん回してかかとを顔面に当てるように蹴る。ずいぶんスローな説明をしたが、要は回し蹴りだ。スカートが舞い上がる、が、見られても記憶は無くなっているだろう。かかとに骨の感触を感じたその直後、椿は横に飛ばされながらスライディングをした。釣られたマグロみたいだ。
「いや実は他にも理由があってね」
ひょい、と、何事もなかったように起き上がる椿。なんだこいつ、化物か。
「というか、こっちのほうが重要なんだけどさ」
重要、ねえ。それなりの理由なのだろうか。
「シヨが学校にいる時間は、僕や佐伯さんはシヨを守れない。学校に入ったら不審者だと思われてしまうからな。だから僕が学校に入ってシヨを守ろうか、と」
そんなことができるのだろうか。いや、できるはずがない。多分、佐伯老人を使ったのだろう。あの人も大変だ。
椿は楽しそうに『化学辞書』とやらを読んでいる。
「で?今度はどこを紹介するの?」
無邪気な顔でこちらを見てくる。この幼児顔め。
「……じゃあ、中庭でも紹介しようか。こっち」
仕方ない。これはもう決定事項なのだ。先生に言ったところで信じてはくれないだろう。
「ちなみにさ、あんた何歳?」
「19だけど」
「私より年上かよッッ!」
学校で過ごす時間は、楽しいことが起きたらあっという間に過ぎる。今日がそれだった。なぜだろう。「楽しい」と思ったのだろうか。先生にバレるんじゃないかとヒヤヒヤした覚えしか無いが。
帰り道。
いつもは一人で帰る。
しかし、今日は隣に人がいる。
「いやー、今日の英語の授業面白かったね」
ニッコリと、満足そうに私に笑顔を向けるそいつは椿だ。家が一緒なので自然に帰り道も一緒になってしまう。
「……そうですか」
「すねてんの?」
「すねてないんですけど」
「もしかして、英語苦手なの?」
「……」
図星。私は英語が嫌いだ。大の苦手だ。もはや遺伝子に苦手意識が刻まれているんじゃないか、と思わせるほど苦手なのだ。リスニングなんて何を言っているのか分かりゃしないし、自分で文章を翻訳できない。
「教えてあげようか?」
「……いい、自分でやる」
なぜだか知らないが、こいつに教えてもらうのはなんか悔しい。うん、自分には自分の勉強法というのがあるのではないか。私はいま「自分に合った勉強法」を模索中なのだ。
その気持ちが通じたのか、それとも私がとても不快な顔をしたのが見えたのか。
「そんなんじゃ出来ないよ」
そう椿は私に笑いかけた。その笑顔を見るとため息をつきたくなる。
「ここだ」
椿が途中で止まリ、私の顔を遮って指を指した。
いやジャマだっつうの。5月のハエを叩くように椿の腕をぶっ叩いてやった。
指が指してあった方向には、これは人間の道なのか、と思わせるようなほど細い道がある。道の入り口には「『CAFUNE』営業中」と看板に書かれてあった。『CAFUNE』といえば、佐伯老人が店主をつとめる喫茶店だ。私は行ったことなかったが、まさかこんな場所にあったとは。誰か他に客が来ることがあるのだろうか?
狭い道を進むと、確かに店はあった。
が、木でできた家は、山奥に建てられた小屋と言われても疑わないほど小さく、あちこちが黒ずんでいる。玄関前には丸太が大量に置いてあって入れる気がしないし、看板の「CAFUNE」の「U」が落ちている。地面の手入れもしていないのか、雑草が生え放題。見るからに廃屋だ。
「こっち」
私の手を引いて、椿は先に進む。どうやら丸太がたくさん置いてあるこのドアは入り口ではないらしい。確かに店の横にコンクリートブロックで囲まれた道はあるが、入口よりも狭く、体を横にして進まねば入らないほどだ。さらに奥へ進むと草木が生い茂っていて先には進めない。
「行き止まりじゃない?」
「いや」
椿はそれだけ言うと、コンクリートブロックの下から2番目を足で5回蹴った。と同時に草木が横にずれ、奥に出る道ができた。いや無理やり草をどかせば入れそうだけど。突っ込んじゃダメなのかな。
奥へ進むと、そこは開けた庭だった。まるで森の中の原っぱのようで、涼しいそよ風が私たちの体を撫でた。風が吹くたびに、植えられた大量の木がザワザワ……、と音を出す。とても心地いい音だ。原っぱの真ん中には、手入れされた大きめの池まである。
「ンん~!」
椿が広い庭で気持ちよさそうに伸びをする。なるほど、私もやってみる。
「んんん…………、ッッは!」
思わず大きな声が出る。ここにこんな場所があったとは。
「ははは、良い伸びですね」
後ろから声をかけられた。佐伯老人だ。手には急須と煎餅が載せられたお盆があった。急須からは湯気が出ているので私たちがここに来た時から準備をしていたのだろう。
どうやらこの原っぱ側からだと、『CAFUNE』に入る道の廃屋に入れるようだ。いや、この原っぱこそが、『CAFUNE』店内で、あの廃屋が厨房なのだろう。
「どうぞ、お座りください」
原っぱの真ん中に置いてあったガーデンチェアに座った。椿は私の向かい側に。佐伯老人は立ちっぱなしだ。
「美味しいですよ。K県のT茶です。わざわざ本場から取り寄せました」
そういって湯呑茶碗にT茶を注ぎ、テーブルに置く。辺りに緑茶独特の苦みと香ばしさを混ぜたような良い香りが広がる。煎餅を一枚ずつ小皿に取り分け、湯呑茶碗の隣に置いてくれた。お茶をすする。熱さの中に広がる苦味と旨味。うん、佐伯老人はお茶の淹れ方が上手い。
「ところで……」
佐伯老人が椿に話しかけた。
「本日は何故ここに?」
「シヨを紹介しておきたくて」
「あー、ぁあ!なるほど」
どうやら佐伯老人は納得がいったようだが、私には全く分からん。質問する前に、佐伯老人が答えてくれた。
「『CAFUNE』は完全紹介制なんですよ。たとえ首相が来たとしても、私はお断りさせていただきます。その方がお客さんが少ないので椿さんの『わがまま』にも対応できますし」
「もしかして、今日のわがままも佐伯老人が?」
「ええ、大変でした。色々なことを考慮しながら、途中で抜けられるように工夫して、私が親ということに……」
「椿の親には言わなかったんですか?」
そう言った自分を後悔した。一瞬、この場の空気が凍り付いた。触れてはいけない内容だったか。
「……親は、裏切り者さ」
口を開いたのは椿だ。
「椿さんの親は、某会社の社長と社長秘書なのです。どんな会社かは、私の口からは明かせません」
佐伯老人が補足をいれる。
「あのお二方は子どもを一人だけ置いてある日出て行ったのです。なぜか
ヒデリ、という名前をどこかで聞いた。そういえば椿の置き手紙の中にそんな名前が出てきたはず。たしか妹だったか。
「どこに行ったのか分からない。行方不明さ。会社に出勤すらしていないみたいだし、日照も小学校に通っている形跡もない」
椿は、首を少しうなだれさせた。
空が少しずつ曇っていく。
「……全部僕のせいなんだ」
椿の手に力がこもる。どうやら何かを思い出しているようだった。
「さ、帰ろ!」
すでに日は暮れている。椿は何かを忘れるように明るく振舞っている。
「私が送りますよ。暇ですし」
佐伯老人も気を使っているように見える。
「行くよ!」
椿が走って来た道である細い道を戻って行く。そして原っぱには私と佐伯老人が残された。
「じゃあ、先行ってますね。お茶、ご馳走様で
「紫陽花さん」
言葉が遮られた。佐伯老人が厳しい顔をしている。
「椿さんは、孤独なのです。いや、孤独だった。その孤独に耐えられず、椿さんは何度も自殺しようとしたんです」
ただ、怒っているわけではない。
「紫陽花さんが家に来てからたった数日間の内に、椿さんの性格が随分明るくなりました」
声に力がこもっている。
「昨日の阿坂の侵入の時、椿さんがあんなに私に積極的に助けを求めるのは初めて見ました」
佐伯老人は、私に近づいて、力強く訴える。
「私のような老人からお願いするのもどうかと思うのですが、どうか…」
私の肩に乗せられた手が震えていた。
空から、恐ろしいほどに冷たい雨が降り始めた。
「どうか、椿さんを死なせないでください」
@
「ァアッ、ハァッ、ッウアッ」
近くでサイレンの音。細道に逃げ込むように入った男は、阿坂火花という指名手配中の罪人だった。エジプト煙草の灰が手に落ちるが、別に熱いとは感じない。サイレンが遠ざかって行くと、群がってきた蟻をうざったく感じたのか、巣ごと燃やして細道から出た。
「おやおや、警察ごときに苦労しているようですねえ」
ギョッとして声のする方、真後ろを向いた。しかしそこには誰もいない。
気のせいか……? と思いつつ体を前に戻すと白いタキシード姿の青年がいた。
「ゥワぁッ!……なんだアンタか。ビックリさせるな」
どうやら阿坂にとってこの青年は顔馴染みらしく、気軽に話しかけている。
「そういうのが私の趣味でして。どうですか? 驚きましたか?」
青年はニコニコと笑顔を止めない。まるでずっと笑っている仮面を付けているようで不気味だ、と阿坂は感じた。
そういえば、と青年は何かを思い出したのか、分かりやすく指を鳴らして阿坂に訊いた。
「どうやら「泥棒」に失敗したようですねえ」
チッ、あのことか、と阿坂は小さく息を吐いた。
「悪いな。『カメレオン』のおかげでうまく化けたつもりだったんだがな、勘のいい女がいて失敗しちまった。アレはなかなかの上玉だ」
思い出したのか、軽い舌舐めずりをする阿坂。涎が溢れ出す。
「女、ですか。興味深い。後で調べておきましょう。で、金庫はあったんですか?」
唐突に青年が訊いた。
「あ?ああ、たしかあったな、俺が化けたあのガキの寝室に小さめのが。でも番号俺知らねえし、大体あれは暗証番号と指紋で開くタイプだった……」
「なるほど、それだけでも良い収穫です」
青年は、満足そうに頷くと懐から小さめの封筒を取り出し、阿坂に渡した。
「これは……?」
「君が望んでいる資料です」
青年の言葉が終わらない内に、阿坂はその封筒を奪い取る。綺麗にのりで貼ってある封を引き千切って中身の写真を取り出す。そして、阿坂は止まった。思考が停止した。そこには2人写っていた。髪の白いまだ幼い男の子と、その幼子を抱いたスーツ姿の細身の男性。
「これが……、犯人なのか……? じゃああいつは…」
「私はもう行きますね、それでは、お元気で」
青年がそう言ったかと思うと、いつのまにか消えていた。足音すらしなかった。
残った阿坂は、写真をクシャクシャに丸め、火をつける。写真が燃えていくのを確認すると、地面に唾を吐き、その場を後にした。
空から土砂降りの雨が降ってくる。写真は最後まで燃えきれずに、一部分だけ残ってしまった。燃え残った写真の裏に書かれていたのは、「奈津親子(父、
@
夜ご飯は麻婆豆腐だった。なぜその献立になったのか、理由は椿の「なんか中華(味のカトラリー)食べたい」というたった一言。いや作るのが面倒くさいねん。とりあえず、市販されている調味料と豆腐を買ってサササッと適当に作った(所要時間3分)ところ、うまいと好評だった。よし、明日もこれで行こう。
「あ、ごめん」
何か思い出したようで、椿は謝った。
「なに?」
ちょうど食器を洗っていた途中で忙しかったので、受け流すように返事をした。スポンジに液体洗剤を付け、泡を立てる。
「洗濯機が壊れちゃってさ、シヨの服も僕の服もずぶ濡れ」
「ふぅーん」
それなら新しいものを買えばいいじゃないか。
……ん?
「いま、なんと言った?」
「いやだから、洗濯機が壊れちゃって、服がずぶ濡れ」
なるほど。
「……つまり私の着る服は……残されてないのか」
今朝、頼んでおいたのだ。「阿坂が触れているかも知れない。気持ち悪いから私のキャリーバッグに入っている服を全部洗っておいてくれ」と。今の所残されたのは、私が現在着ている制服だけである。しかし、この服をずっと着るのにも限界がある。汗やらなんやらが染み込んでいるので。
「この時間に開いている服屋さんなんてあったかな……」
壁に掛かっている時計を見る。午後10時を過ぎたころだ。
「あ、僕の服でも着る?」
……。
「……」
…………は、は、はぁああああ!?
自分の顔が熱くなっていくのが分かる。
「女が男の服を、き、き、き、着るって……」
「うちの妹は僕の服着てたよ?『お兄の服おっきいねぇー。ヒデリにはお兄のTシャツだけでワンピースみたいだぁ!』って勝手にタンスから取り出して」
なぜだ椿の妹!?なぜ女としては有るまじき行為をするのだ!?……いやまあ妹ならそんな事をしても構わないだろうが、私にも同じことをさせようというのか、この幼児顔!確かに裸は見られた。が、あれは私が気絶したときであって、羞恥心を感じなかったからであって!
「いや、お前の妹ならそうしてもいいかも知れないけど!でも私はお前と血の関係も持ってないし!体の関係も持ってないだろっ!」
「……まあ、それもそうだけど」
うーむ、と真剣に悩みだす椿。
……どうやら椿はいたずらではなく本気で「良い意見」だと思って提案したようで。こいつは羞恥心がどこかズレている。私の裸を見たとき(もちろん私は気絶していたけど!)は恥ずかしがっていたくせに、布一枚挟むと興味を無くすのか。
「じゃあヒデリの服着る……?あんまオススメしないけど」
妹の服あるんなら言えやァァァァァァァァァァァァ!
男物の服よりよっぽど良いわ!
そして10分後。
「……」
「……ね?言ったでしょ、『おすすめしない』って」
私は確かに椿の妹、ヒデリ……ちゃんの服を着ている。
ピンク色のワンピースで、ところどころにハートの刺繍が入っているのが可愛い。
可愛い……のだが。
「小さい……ね」
椿が、私の格好を見ていった。
私にとってこのワンピースはTシャツだ。私は一生懸命下に引っ張っているのだがパンツを隠せない。ズボンを履いてなんとか成立する格好だ。
仕方ない、頼むしかない。
「…ん……ズ……を…して」
「……え?」
椿が苦笑いをして、私に問いかける。
「あんたのズボンを貸せって言ってんでしょうがああァァァァァアアアア!!!!」
「ヒィィイイ!!??わっ、わかりましたぁぁああああああああ!!」
宿題をさっさと(英語以外は)終わらせて、お風呂を済ませ、ベッドの上に体を投げだした。体全体に広がる倦怠感。血の巡りが良くなる気がする。大きくため息をついて重力に身を任せると、体が宙に浮いていきそうだ。
「……ねよ」
誰に言うわけでもなく、ポツンと呟いた。
30分後。
寝れない。
目は休みたい、と言っているのだが脳はまだピンピンしている。寝返りを打って毛布に顔を
うーん、たぶん、こういう時は逆に体を起こして運動した方が寝れる。
ちょっと運動がてらこの家を探検してみよう。私の心の中に、夏の虫取り少年のような冒険心が湧いてきた。
電気で明るくするより雰囲気出るし、廊下を明かりをつけるわけにもいかないので、なぜか部屋に置かれていたキャンドルランタンに、これまた部屋に放置されていたマッチで明かりを
スリッパに足を通して、ドアを開ける。予想通り廊下は真っ暗だった。どこかにスイッチでもあるんだろうな、きっと。一歩外へ出ると、床の絨毯に水が滴り落ちたようなシミが点々と散らばっていた。触ってみる。血にしてはサラサラしている気がする。そして何より冷たい。この家には二人しかいないので、必然的に犯人は椿だが、もしかしたら阿坂が侵入している可能性があるし、泥棒の可能性もある。よし、点々を追っかけてみよう。部屋へ戻り、部屋にかけられていた木刀を右に装備して、ランタンを左に握った。これで襲われても最低限の抵抗ならできるだろう。
絨毯のシミは、二階、三階、と階段を上っていく。恐怖は確かに感じるが、それよりも冒険している、というワクワク感が私に上れ、上れと命令してくる。もはや、疲れたはずの目ですら、ギラギラと輝きだした。本当に私は眠れるのだろうか。
階段は、三階で終わっていた。この家は外から見てもわかるが、そこまで高くない。水滴は三階の奥にある部屋に続いていた。長い廊下を渡って部屋へ入ると、文庫本やハードカバーなど、たくさんの本が置いてあった。この家は図書室まであるのか。化物かよ。
水滴は、図書室の端にある、何の変哲もない風景画が掛けてある壁で切れていた。気のせいかもしれないが、風を感じる。外の匂いもする。音を立てないように、木刀を持った手で壁に少しづつ力を加えていく。ギギギ……と音がしたと思うと、目の前の壁が扉の様に開くようになっているらしく、私を迎え入れるように、内側に開いた。暗闇の中へランタンを向けると、どうやら階段がある。
なるほど、この家にはこんな仕掛けがあるのか。まるでトレジャーハント映画だ。
もしかしたら秘密の宝でも眠っているかもしれない。隠し扉の中へ踏み込む。
と同時に扉が閉まる。
気づいた時には遅かった。こちら側から押しても開くことはない。
閉じ込められた……?
階段を見る。さっきよりも少しだけ強く風が流れてくる。つまり、外に通じている可能性が高い、ということだ。ランタンが風で揺れる。もしかしたら、外へ行けるかもしれない。水滴は、階段の奥へ続いていた。
階段は、コンクリートのような無機質なものでできていた。壁に触れると嫌に冷たい。階段を上った奥には、1つの扉があった。鉄の扉で窓がついていないので、外の様子が見れないのだが、不思議なことにスロー・ジャズが聴こえる。
鉄の扉をゆっくりと開ける、音を立てないように意識しながら。
そこには、まあ、やはりというかなんというか。無意識に緊張していた、肩の力を抜いた。
椿が座っていた。
ここは、家の屋根だな。冷たい夜の風が私の髪を撫でていく。念のため持ってきた木刀を杖代わりにする。一歩でも踏み外したら足を滑らせて転げ落ちてしまいそうだ。
「あ、シヨ。真夜中に珍しいね」
椿が気づいた。格好は寝間着姿だ。緑ではなく、青。ファヴィニャーナ島のカーラロッサの海のような美しい水色が夜の暗さとランタンの明るさに馴染んでいる。
「水滴が廊下に落ちてて、辿ってきたらここに着いた」
簡潔に説明する。椿は、ああ、と納得したみたいで、ジャズが流れ続けるラジオの近くに置いてあった氷水が詰まったバケツを指差した。バケツの中にはぶどう味の炭酸飲料が突っ込んであった。つまりこの水滴だと言いたいらしい。
「ここでなにしてんの?」
「さっきまで降っていた雨雲がないんだ。星がよく見えるよ」
椿が屋根で横になって、空を指差す。その指の先に何があるのか気になって空を見上げる。
「……ぅわああははははっ!!星がキレイ!!」
思わず大きな声が出る。闇の中に、水中に落とした輝くビー玉をたくさん散りばめたような夜空が広がっていた。M県のS市は田舎なので、真夜中に開いている店はほぼ無い。なので都会より星がはっきりと見える。
「わはははははははははっ!!」
屋根の上でグルグルと回ってみる。冷たい風をよく感じることができて楽しい。椿は楽しそうに笑っている。
「いっつも寝れない日はここに来て、冷たい飲み物を飲みながら星を見るんだ」
心がきれいな乙女かよ、とツッコミしたかったがここから見える満天の星空を見てしまうと「それもそうか」と納得してしまう。
「僕はいつも自分で星座を作って楽しむよ。シヨもやる?」
まあここまで来たのだし、折角だからやってみることにした。
「ほら、あそこの大きな星。あの星からこう、こうやって結ぶと……」
椿が屋根に寝転んだまま、指を動かす。私は椿の指が結ぶ星を見続けていた。
「できた。『麻婆豆腐』座」
意外と適当なんですね。
「はい、次はシヨの番」
椿の隣に並んで寝転ぶ。私の目にはほぼ星しか入ってこなかった。
「あの、少しだけ他の星と離れた場所にある星。それと、あの大きめの星。それを結んで、それから……」
椿の見よう見まねで指を進めていく。椿は私の指を一生懸命目で追いかけていた。
「……あと、あそこの星を結ぶと、完成」
「僕には分かんないや。何ができたの?」
「『便』座」
静寂。あれ?結構頑張ったけど。ふざける方向間違ったかな。
「……っぷはははははははははははは……っ」
椿が頭を抱えて笑いだした。そんなに面白かったか?今のオヤジギャグ。
「シヨはセンスが良いね」
そういうあなたは多分センス悪いです。
「じゃあ僕はね……。あれとあれと……」
指先が星を結んで形を作っていく。
「あとそれで、『王』座……。どう?」
わお。センスないですねー。顔が引きつっちゃうわ。
「……うん、どう、と言われても……」
「いやー、僕はやっぱ無理だ。シヨのほうが面白いや」
私のも相当面白くないと思いますけどねぇ!
「はい」
「冷たっ」
椿がバケツから取り出した炭酸飲料を受け取る。予想以上に冷えていて驚く。プシュ、と音がする。椿は2本目だ。シュワシュワの液体を喉に流し込む。
「……あんま飲んだことなかったけど、これ美味しいな」
「でしょ?」
口の中に広がるぶどう感。まるで大粒のぶどうを1粒口の中に放り込んだみたいだ。
ンン~。と伸びをすると、足を浮かしてしまった。
「「あ」」
私が履いていたスリッパが屋根から落ちてしまった。子供の頃に見たアニメの、昔話のおむすびと同じような
「ご、ごめん」
「全然構わないよ。予備はいくらでもあるし」
しかし、どうしたものか。このままでは素足を汚して部屋に戻らなければいけない。もう一度お風呂に入るハメになる。
考えていると、椿が私に近づいてきた。何をするの……。
「よっ」
「きゃっ!」
思わず女の子っぽい声が出てしまった。いや、私女の子なんだけどね。
浮遊感。私の背中とお尻に何かが当たっている。腕か。
椿が私をお姫様抱っこしていた。この感じ前にもあった。ああ、阿坂に襲われたときか。
「あ……あの」
「いい、僕が運ぶよ」
人の体、というのはこんなにも温かいものなのか。椿の胸の鼓動が私の頭の中で響いている。と、同時に、私の心の中で温かい、もどかしい感情が揺らいでいた。その感情は、まるで池に浮かんだ月のようで、取ろうとしても取れない。手を伸ばしても消えてしまった。何だったんだろう。
抱かれると安心してしまったのか、今までなかった睡魔が私を襲った。どうやら良い運動になったっぽい。
最後に聞こえてきた音は。
「おやすみ、シヨ」
という椿の、子供をあやすような。甘い囁きだった。
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