エサルの陰謀とリアナの下着 ③

 リアナの肩から落ちそうになっている長衣ルクヴァを、フィルは無表情に眺め下ろしていた。本人はいつものチュニックではなく、ハートレスの部隊用に作った黒いジャケット姿だ。


「デイに何かされた?」

「え? ……ううん、何も。これは自分で着ていったのよ」

「そう」

 フィルはどことなく冷たい声で確認した。「どうしてそんなことを?」


「どうって……デイミオンを誘惑しようと思って」

 リアナはあっさりと白状した。「来年まで待ってたら、ほかの女の子に取られちゃうもの。先手必勝がわたしのモットーよ」


「勇ましいね。それで……長衣ルクヴァを着せて帰された?」

 フィルの確認に、リアナは重々しくうなずいた。「おかげでエサル公のたくらみを阻止できたけど……誘惑については、今回は失敗だったわ」


 ことの顛末てんまつを話すと、フィルの顔はますます険しさを増した。

「デイ……あれほど言い聞かせたのに、王の居住区にエサル公を入れるなんて。あなたに何もなかったから、良かったようなものの……」

 こういう、冷たい顔のときのフィルはなんだか怖い。リアナは想い人の身の安否が心配になり、あわてて「デイは悪くないわよ、ちょっと野心にあふれてるだけで」とかばった。


「だけど、あなたも悪いですよ。そんな格好をして」フィルの矛先がこちらに向いたが、リアナは違うふうに受けとった。


「下着は悪くないと思うのよね」

 豪奢なレースの胸もとを引っぱりながら分析する。フィルの叱責を、敗因の追求だと思ったのだ。

「やっぱり、ボリュームが足りないんだわ」


「そう?」フィルは相づちを打ちながらも、リアナの胸もとに釘づけになっていた。かれの位置からだとかなりきわどいところまで見えるのだが、もちろんリアナは無自覚だった。


「グウィナって、すごい巨乳じゃない? 二人ともあれを見慣れてるんだもん」

 あいさつのハグを受けるだけでも、あのボリュームには羨ましさをおぼえる。身長差があるのでちょうど胸もとあたりに顔がうずまる形になる。顔が包まれそうなほど大きくて、柔らかくて、いい匂いがして……とても自分とおなじ持ち物とは思えない。


「子どものときは、よくハグしてもらったけど。たしかに大きいかも?」

 フィルは目をそらした。「最近はあんまり機会がないから、よくわからないかな」

「ふーむ」リアナは首をひねった。


 恋愛においては、身近な女性が基準となることは大いにあるという。フィルバートもそうだが、デイミオンも、叔母のグウィナには頭が上がらないと言っていた。五公の一人なのに気さくで明るく、愛情深い。おまけに大変な美女である。彼女を基準とされると、並大抵の女性では満足できないのではないか、と心配になる。

 もちろん、自分の成長には大きな期待を寄せているが、今だって大事だ。なにしろ、リアナがデイミオン・エクハリトスを好きなのは来年じゃなくて今なのだから。


「……」

 リアナは少しばかり、戦略を練りなおそうと思った。まずは、現状の確認が不可欠だろう。

「フィル、ちょっと確認してみてよ」

「えっ」

 フィルはぎょっとした顔つきになった。「な……何を?」


 リアナは自分の胸をもちあげつつ、「グウィナとどれくらいサイズが違うかよ。顔をうずめられるくらいは欲しいんだけど」と言った。


 優しい青年の目はまだリアナの胸あたりをさまよっていたが、あきらかに腰が引けている様子だった。


「気が進まない?」

「いえ!」

 フィルは音がするほど力いっぱい首を横にふった。「やります。やらせてください」


「そんなに首を振ったら、もげちゃわない?」リアナは青年の首が心配になった。


 ♢♦♢


 それで、そういうことになった。


 リアナが寝台に腰かけ、フィルはその前で膝立ちの姿勢になる。ちょっとした確認のつもりだったのだが、元英雄の顔に緊迫感がみなぎっているのを見ると、リアナもなんだか緊張してきた。


「じゃあ、その……」フィルは無意味な咳ばらいをした。「失礼します」


 彼女の顔をちらっとうかがい、おそるおそるといったふうに顔を近づけた。砂色の短髪の、後ろのほうにつむじがあるのに気を取られていると、思ったより固いものが胸に触れた。

 寝台に手をついているが、リアナに直接触れているのは、顔だけだ。柔和な顔つきの青年だが、こうして肌に触れると骨がごつごつして固かった。頬骨に、高い鼻筋……。


「男の人の顔って、大きいのね」

 リアナは失望のため息をもらした。「ぜんぜん埋もれてないわ」

 ほっぺたは胸についているが、あとは……かろうじて挟まっているとしか言えず、到底、うずもれるという感じではない。ふうむ。

「うーん……もうちょっと寄せたら、なんとか……」

 髪ごしに頭を抱え、たよりない谷間になんとか押しつけると、フィルは「うっ」とうめいた。

「ごめん、痛かった?」

「い……いえ。気持ちいいです」

「そう? 骨が当たってない?」

「いや……こっちの事情で。いいのかな、こんなこと……」


 フィルはもごもごと否定してくれたが、自分の胸もとにしかるべき脂肪が不足していることは明白だった。これでは、とてもデイミオンを誘惑するという目的を果たせそうにない。どうしたものかと思案する。


「天国かな」フィルは小さくつぶやいた。「むこう十年の運を全部使い果たした気分だ」


「そうかなぁ」

 このサイズからしてお世辞だろうが、リアナは気をよくした。デイミオンにすげなくあしらわれたので、女としての自尊心が傷ついたのだ。


「感触はどう? いい匂いはする?」

「すごく柔らかいよ」

 フィルは目を閉じて、匂いを嗅いだ。「あなたの匂いがする。桃とダマスクローズ。それに、ニワトコのシロップみたいな。……くらくらする」


 うっすらと目を開くと、フィルの左目はハシバミに緑が混じっている。陶然とした表情が真実を物語っていた。

 どうやら、匂いは及第点らしい。


「じゃあ、あとはサイズだけね。明日から、もっと牛乳を飲むことにするわ。甜瓜 メロンくらい大きくしてやるんだから」

「それは期待大だ。……俺はこれくらいでも、その、十分だけど」

 フィルがしゃべると、胸に空気が触れて、くすぐったかった。斜め上から見下ろす彼の顔は、いつもと違って見える。まったく似ていない兄弟だが、高く通った鼻筋から口もとのラインはデイミオンに似ているかもしれない。その高い鼻が乳房にかすめて、リアナは「ひゃっ」と身をすくませた。

「ご、ごめん」

 フィルはあわてて身を起こした。両手をぱっとあげて、「触っていない」と示す。耳まで真っ赤になっていて、かわいかった。


 ともあれ、現状の分析と今後の対策が立てられたので、リアナはおおいに満足した。来たるべき時には、甜瓜 メロンのような乳房をぶるぶると震わせ、想い人をち取ってやろうと闘志を燃やす。そのときには、デイミオンも自分の魅力の前に平伏し、これまでのつれない言動を落涙しながらびるだろう。

「ふふふ……いい気味だわ」


 想像上の勝利ににんまりしているリアナを、フィルも笑顔で見下ろした。そろそろ就寝の時間だと言うので、かれを扉前まで見おくる。


「ごちそうさまでした」

 フィルは扉に手をかけたが、口端をあげたまま、謎の一言を放った。「さっきの感触、それに、その扇情的な格好も。……しばらく、お借りするかも」


「借りるって……? 何に使うの?」


「やましいから、秘密」青年はにっこりと笑うと、就寝のあいさつをして部屋を出ていった。


 ♢♦♢


 フィルがいなくなると、それを待っていたように、侍女のルーイがやってきた。


「リアナさま~」

 就寝用のちゃんとした夜着を手に、のんびりと声をかける。「お帰りなさーい。うふふ、いい雰囲気じゃありませんでした?」


「いい雰囲気って……フィルと?」

 リアナはけげんな顔になった。「わたしはデイミオンを狙ってるのよ。フィルじゃないけど」

「そうでしたね。フィルさまのほうが、いい男だと思うんだけどなー、私は」


 ふだんの綿の夜着に着替えると、薄い夜着をルーイに手渡して報告した。

「それより、下着作戦、ダメだったわよ」

 この作戦の発案者は彼女なのである。


「そんなことないですよ。フィルさま、うきうきでしたもの。下着効果は絶大でしたよ」ルーイはにこにこと言った。

「こんないやらしい下着に、お兄さまの長衣ルクヴァを羽織った格好なんて、背徳的でぞくぞくしたでしょうね。うふふ、フィルさまのえっち」


「そうなの? フィルは褒めてくれたけど。どのみち、デイは不発だったんだし」

 リアナはため息をついた。彼女が夏の節、つまり性交可能年齢に入るのは来年である。それまでにはぜひデイミオンの恋人の座を射止めたいと野心(と恋心)を燃やしていたのだった。今のところ、まったく眼中に入っていないようだが……。残念だ。


 そんな主人の様子を、ルーイはさりげなく観察しているようだった。「ところで」と切りだされる。

「この下着、もう使わないんだったら、譲っていただけません?」

「いいけど……どうして?」


「ふふ」

 ルーイは、どこかフィルに似た淫靡いんびなほほえみで返した。「やましいから、秘密」



【おわり】

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