【小話4】蟹と冬至節
(※第一部と第二部のあいだ、リアナが即位したての冬の出来事という設定です。)
ⅰ. ボイル(メドロート、グウィナ+ハダルク)
冬の掬星城は遠目にも美しい。山がちで寒さの厳しいタマリスの、城下の灯りにぼうっと浮かびあがっている様が、天空にある城のように見える。城下を行きかう人々は吹く風に首をちぢめ、窓と円柱の形に点々と抜かれたオレンジの灯りをあおぎ眺めたりしていた。
最上階にある〈王の間〉は、音楽とにぎやかな声で満ちていた。音楽といっても、素朴なフィドルやフルートが主で、貴族たちが手慰みに弾いているのだった。若く、はつらつとした女王があらわれると場はいったん静まり、乾杯の合図を終えてまた歓談の声がはじまった。今夜は冬至節なのである。
今夜の主役はしかし、戴冠したての王リアナではなかった。場の中心に巨大な長机が設置され、バケツのように大きな
その前に立つのは白い長衣もまぶしい〈白竜公〉メドロートで、かれは王に向かって、「
「まんつ、蟹さけや」
「かに……」オンブリアの新しい王、リアナは寄っていき、興味津々につぶやいた。「これ、食べ物なの? 大きな虫みたい」
高坏に山盛りになったそれを眺める。エサル公の竜みたいに赤くて、とげとげがあり、鎧じみた固そうな殻に包まれている。あまりおいしそうには見えない。
「んだがし」
メドロートは小さきもの全般に向ける慈愛の顔つきでうなずき、「け」と言った。身ぶりと顔つきで言いたいことはわかるが、あいかわらずの北部なまりだ。寒いところは口を開ける回数を少なくするようにしゃべるのかしら。
リアナは差しだされた細長いなにかをじっと観察してから、おもむろに口をあけた。
「これが蟹……」
しばらく口のなかで味わってみる。魚に似た味だが、もっと甘くて弾力がある。「……おいしい」
メドロートはそんな少女を眺め、うなずいた。
「いまっと
食べだすと夢中になる味だ。それに、集中しないと食べづらくもある。汁が垂れないようにあごを上げ下げする少女に、メドロートは「めんげなぃ」と目を細めた。
*
蟹、おいしい。
タマリスに来てはじめての味覚に、リアナは雷に打たれたような天啓を感じた。見た目は不気味だが、大変美味である。
しかし、食べ方がまだよくわからない。蟹の身は固い殻や甲羅に包まれているので、それを割らないと、食べられないのだ。メドロートに頼もうとするが、場の中心でほかの閣僚たちのためにさばいてやっていた。固そうな殻を拳で「ぶしゃあ」と割ると、男性たちが歓声をあげて、楽しそうだ。エサル卿も面白がって甲羅割りに興じている。
自分が頼んでは興ざめになるかもしれない。
それに、あんな感じに力が要るのなら、適任者がほかにもいそうな気がする。たとえば。
「デイミオンはっと……」
広間のなかをざっと見わたしてみるが、黒竜大公の姿はなかった。最近は彼の行動パターンもだいぶんわかってきて、どうやらまだ仕事をしているらしいとリアナは推測した。あとで蟹を持っていってあげようと心にメモした。ファニーや、あと侍女たちにも食べさせてあげたい。とてもおいしいので。
「じゃ、ハダルク卿……」
声をかけようとしたが、当のハダルクは五公の一人、グウィナ卿のそばに
「お楽しみいただいていますか?」リアナは近づいていって声をかけた。
「幸せを噛みしめていますわ」グウィナはうっとりと微笑んだ。「誰かに食べ物を支度してもらうのって、なんて贅沢なんでしょう。子どもが一緒だともう、食べさせたり食べ物で遊ぶのを叱ったり食べこぼしを拭いたり、自分が食べる暇もありませんものね」
「よかった」グウィナはきわめて身分の高い女性なので、子どもは乳母にまかせていてもおかしくないのだが、話の端々に世話をしているらしい部分が出てくるのがリアナは好きだった。
楽しそうだから、邪魔しないようにしよう、と彼女は思った。さて。
ⅱ. ボイル(テオ&フィル&ロギオン)
蟹が食べたいリアナは、殻を割って身を出してくれそうな人物を探して、きょろきょろした。
「テオ」
呼びかけると、金髪の頭がふりむいた。
ハートレスの兵士であるテオは、今夜は貴族の格好だった。中級貴族がよく着ているような、浅葱色の地味な
「蟹、やってくれない?」
「はいよ」大きな脚を受けとって、テオが気やすく言った。自分でも食べかけの脚を口にくわえている。そういう姿が妙にさまになっている。
「
「うん。育ったのが
「そっすか。じゃ、ま、竜王陛下のご指名にあずかりっ……と……」なぜか語尾が消えかかり、脚を割ろうとした手が止まった。
「と、思ったんですが、なんか俺、小便のあと手を洗ったか急に不安になってきましたんで、あとはあの、フィルバート卿におまかせしますね」
「えーっ」リアナは思春期の少女特有の、信じられない汚らわしいものを見る目つきでテオを見た。「もうやだ、テオ、手はちゃんと洗って。勅命よ。あと、その蟹は自分で食べて」
「御意に」
テオが秒の早さで消えたかと思うと、「陛下」とうしろから声がかかった。
「フィル」リアナはふりかえった。
ハートレスの青年はにっこりして、無言で高坏から脚を抜き、関節からぼきりと折った。折ったあとを器用にずらしたりして、持ち手のついたきれいな形に剥いてくれる。「はい、どうぞ」
「ありがとう」
ようやく新しい身にありついたリアナは、テオの不審な言動の背後に想像をおよぼすことなく、やわらかく汁気の多い身を味わった。蟹、おいしい。
「男の人って、トイレのあと手を洗わないの? 食べるとき不潔じゃない?」リアナは鼻にしわをよせながら聞いた。「手は絶対に洗ったほうがいいと思う!」
「俺は洗いますよ」フィルはさわやかに言った。「テオは不潔なやつなんです」
「そうなの? ……」
リアナは殻の入ったバケツを見つけだし、そこに食べ終わったあとの脚をいれた。
***
テオは用心して部屋の隅まで移動し、視界にかつての上官と竜王とがおさまる位置に陣取って、大きく息をついた。任務外でテオがあの少女の世話をやいたりすると、フィルバート卿のご機嫌がぜんぜんよろしくないのであった。今日の目つきはまだ「いいからあっちへ行け、リアナの世話は俺がする」くらいの強さだったのでまだよかった。このあいだ、デイミオン卿が浮気(っぽい外出)をしようとした件では、よけいな口を挟むと思われたらしく、「おまえの関節をはずして、雨の日が感知できるようにしようかな」という目で見られたので、テオは心底恐ろしかった。リアナはたぶん理解してくれないと思うが、あの男こそまさにハートレスの名に恥じない冷酷さなのだ。……
……
まあいいや、蟹くおうっと。
テオはリアナに渡しそびれた蟹をほおばり、殻をバケツに放り投げた。蟹の汁がついた手を拭おうとしたが、手拭き用のナプキンがない。
こういうとき、なにで拭くんだったかな? テオは首をかしげた。自分の袖でないのは間違いないのだが。テーブルクロスの、あの端のほうで拭いていいかな?
いまひとつマナーに自信が持てないでいると、ふと呼びとめられた。
「もし。そこのお方」
「はい?」
ふりかえると、きわめて美しい銀髪の女性が、ナプキンを手にたたずんでいた。「あ、どうも、すんません」テオは礼を言って手を拭った。
女性……だよな?
テオが観察するに、「玉の輿に乗れそうな好色そうなジジイを物色する没落貴族の令嬢」みたいな感じであった。しかし、竜族の容姿はやや中性的に寄りがちではあり、女顔の男かもしれない。背はまずまず高く、声も低い。……っていうか、ルクヴァ着てるから、男だな。
「来シーズンのお相手は、もうお決まりか?」
「えっ」貴族になりきっているとはいえ、いきなり生殖の話をされて、テオは面食らった。「いえ、まだですけど」
というか、ハートレスだから、シーズン自体に参加してないけど。
美人はそれを聞いてうなずき、立て板に水式にまくしたてはじめた。
「私はテキエリス家のロギオンと申すものだが、私には妹が一人いるのだが、これが大柄で容色はいまひとつなのだが気立てのいい娘で、健康で病気ひとつしたこともなく、本をよく読むから博識だし、性格も温厚で、料理はあまり得意ではないが出てきたメニューは残さず食べ」
「ちょっ……ちょっと待ってくださいよ」
どうやらシーズンの相手にすすめられているらしい。そんなことを言われても困るので、テオは大げさに手をふってみせた。「申し訳ないですけど、今季は新しいお相手は探してませんので」
お決まりの断り文句に、美しい男は失望の色を浮かべた。
「そうか……たいへん失礼したな」そう言うと、美人は背中に哀愁を漂わせながら去っていった。
貴族っつうのも大変だなあ。俺、ハートレスでよかったなあ。
テオはそう思った。そしてそれきり、その兄妹のことはしばらく忘れていたのであった。
ⅲ. パイ包みシチュー
夜の執務室に、少女と青年の声が交互に響く。
「タマリスでの
「不可」
「御座所より支度金増額の請願」
「条件付き可」
「三件の神殿から免税に関する嘆願書」
「形式的なものだ。可」
竜王リアナが書面を読みあげ、王太子デイミオンが可否の判断をする。それをリアナが書面に記し、玉璽を捺す。その繰り返しが、えんえんと続けられていた。執務机できまじめに書面を読むリアナと逆に、青年大公は休憩用の椅子に座って温かいシチューを口に運び、その合間に短く返答していた。
なぜこんなことになったのかといえば、やはり、蟹なのだった。
閣僚たちが広間で蟹を味わっている場に、デイミオンが姿を現さなかったので、リアナは仕事中の彼にも味わわせてやろうと思ったのである。
仕事中でも食べられるように身を剥いて温かいシチュー仕立てにしてもらったものを、みずから執務室まで運んだ。まだ書類が残っていると渋る青年のために、彼女が業務分担を申し出た。その結果が、冒頭につながる。
リアナの読みあげは続く。
「イティージエンの租税債権を国庫から購入することの可否」
「不可」
「タマリス東区にある導水管の修理の申請」
「可。その書類は脇にどけておいてくれ」
「工事日程が各種行事とかぶらないか、確認をする?」
「そうだ」
書類の分担はなかなかうまく運んだ。
つい先日まで王座をめぐっていがみあっていたことを考えると、二人の関係は驚くほど良好といってよかった。多少、親密さが過ぎると考える者もいるくらいだった。世の不思議と言おうか。なんだかんだがあって、国王リアナにとっては黒竜大公かカスタードクリームのベリータルトかというくらいまで好感度が上昇していたのであった。
しかし、さて、黒竜大公のほうは?
シチューを運ぶ男性らしい骨ばった手や、歯並びの良い口もとや、横からみるとことさら整って見える鼻筋やらを、彼女はじっと見つめた。……よかろう、大変な美男子である。だが、しだいにシチュー本体のほうが気になってきた。小さめの陶製のポットにパイ生地がドーム状にかかっていて、それを割るとなかにほかほかしたシチューが入っている。
あの中身も蟹なのだろう。きっとおいしいに違いない。
リアナの熱視線に気づいたらしいデイミオンが、シチューを運ぶ手を止めた。
「食べたいのか? ……おいで」
リアナの頭上に感嘆符(!!)が浮かんだ。視線に気づかれたのもそうだし、それに聞き間違いでなければ、あのデイミオンが「おいで」と言ったのだ。リアナのほうは、黒竜大公に近寄りたいとときどき思うことがあるのだが、彼女が知るかぎり、彼がリアナにそういった種類の許可を与えたことは一度もなかった。なにかおそろしい天変地異の前触れでなければよいのだが。
驚き半分どきどき半分で、リアナは野生動物のようにそろそろと彼に近づいた。
椅子には二人分の余裕があった。
匙を動かされたので、リアナは巣の中の雛のように反射的に口をあけた。湯気をたてるひと匙がゆっくりと近づいてきて、口の近くまでやってきたかと思うと、――まわれ右をして離れた。匙の中身はデイミオンの口のなかに入った。
「なに、いまの」リアナは冷たい声で言った。
「なにって」デイミオンはにやっとした。「気が変わった」
「くれると思ったから来たのに!」
「悪い悪い、次こそやるから、ほら」
が、次のひと口はなかなか来ない。匙がふらふらと動き、デイミオンがからかいリアナが怒りをためるという構図が二、三往復続き、腹に据えかねた彼女はクッションで彼の脇腹をぶった。
「こら、やめろ」
「性格が! 悪い!」
「よせ、こぼれるだろ……」
**
と、ノックの音がして、シチューをめぐる小さな諍いは中断された。
「デイミオン、夜食を持ってきたけど……」
ワゴンを押してきたのは、フィルバートであった。
「フィル、聞いてよ、デイミオンがね」
「聞かせるほどの話か? こら、肘を掴むな」
「あきれたな、料理の取りあいなんて」状況を察したフィルが、言葉どおりの表情で言った。
「すこしくらい陛下に分けてあげたっていいだろう? たかがシチューくらい……」
「いや。今やろうと思っていた」デイミオンは頑として言いはった。
「そう?」
「ああ」
「そんな感じじゃなかった!」リアナは主張した。「くれる感じじゃなかったもん」
「くれる感じでしたとも」デイミオンは馬鹿にしきった声で言った。「いいから口を開けろ、ほら開けろ」
「急にやめてってば、あっ、熱い! そんなに入らない!」
完全に子どものケンカの様相を呈している王と王太子に、護衛の青年は「ふう」と息をついた。銀器の覆いをとると、新しいシチューがもう一皿現れた。
「食べたかったの?」リアナに向かって言う。「……こっちのをあげるから、ケンカしないで」
だが、少女は「だめよ、それはフィルのぶんだもの」と言った。
「そうだな。こいつは広間でたらふく食ってから来たんだ。おまえはどうせ食べてないだろう」デイミオンもめずらしく追随した。
「食べて。フィル、パイ包みのシチュー、好きでしょ?」
「えっと」フィルは面食らった顔をした。「あの……」
「違った?」
「いえ。好きです」
ほらやっぱり。リアナは食事中のフィルを注意深く観察したので、知っているのである。とにかく秘密主義な青年なので、食べ物の好き嫌いくらい知りたかったのだ。フィルは不思議そうな、少し決まりが悪そうな、そして少しうれしそうな表情をした。
「好きなものを譲っても、いいことなんかひとつもないわよ」リアナは姉ぶった口調で言った。
「もらったほうはなんとも思わなくても、あげたほうはあとでいろいろ考えちゃうのよね。あんなもの、本当は別に欲しくなかったとか。そういうのは、精神的に不健康よ」
「そうかな」
「そうよ」
リアナは勢いこんで言った。きょうだいがいればこういうことは自然と身に着くものだが、デイミオンとフィルはどこか他人行儀なところがある。ここは子どもの多い隠れ里で育った自分が教えてやらねばと思ったのであった。
「じゃ、俺も好きなものは譲らないようにしよう」フィルがにっこりした。「たとえ、デイミオンにでも」
「その意気よ」
デイミオンが匙を動かした。「蟹の話だよな?」
蟹の話であった。このときはまだ。
ⅳ. (おまけ)グラタン(ルーイとミヤミ)
夜の使用人棟にて。
非番のため、相部屋でゆっくり過ごす侍女たちのもとに、国王からの夜食が届けられた。小さめの蟹の甲羅に入ったグラタンだ。貴族たちの食卓にのせられないサイズなのだろうが、小さくても味はおいしいと料理長が請けあったので、ルーイとミヤミはよろこんでお相伴した。使用人用の厨房で焼いたばっかりのあつあつで、蟹の身と米を混ぜた具の上にホワイトソースがかかっていて、王城でもめったに食べられない贅沢な一品だった。ルーイはいそいそと食卓を準備し、ミヤミは蟹についてのどうでもいいウンチクなどを語りはじめた。
「もし……巨大な蟹と戦うことになったら……ハサミの間合いの外から狙うことが大切」
ミヤミは腰を落とし、両腕をわさわさと振った。「……わたしならこう倒す。まず、甲羅の両端から羽交い絞めにして……こう!」
「ミヤミ、いまはそれいいから」
「あるいは、目と目の間に踵落としをお見舞いする。その際は……こう!」
「ミヤミ、いいから早く食べて。お皿が片付かないでしょ」ルーイが冷たい声で言った。
グラタンはおいしかった。
【終わり】
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