【小話2】ある雨の朝


「おはようございます」


 その日、慣れた声で目を覚ますと、満面の笑みで寝台ちかくに立つデイミオン・エクハリトスと目があった。オンブリアの新しい王、リアナは年頃の少女らしく「ひっ」と声を出してとび起きた。胡桃クルミ材の立派な四柱式ベッドは厚手のカーテンがすでに開け放たれていたが、陽光が差してくる気配はなかった。薄暗く、肌寒い雨の朝である。


「今朝は冷えますね。……朝のお茶は、アップルミントと桃の香りのと、どちらがいいですか?」

「えっ……お茶?」

 思わずかすれた声が出た。「っていうか、そもそもどうして、あなたがわたしの部屋にいるの? デイ」

 愛想がよいデイミオンというだけでも怖いのに、さらにおのずからお茶を淹れる図など、まったく新しいタイプの悪夢と言ってよい。リアナはベッドの上で無意識に後ずさった。


「あ、そうか」

 茶葉を手にしたデイミオンが、あごに手をやって考える風情になった。「この格好だから、わからなかったんですね」

 俺です、おれおれ、などと老親から金をむしり取ろうと企む詐欺師のように呼びかけたが、その気やすい口調でリアナははっと気づいた。「……まさか、フィルなの?」



「今朝のことなんですけど、不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿がデイミオン・エクハリトスに変わってしまっているのに気がついたんですよね」


 フィル――と思われる青年――はかろやかに説明した。デイミオンの端正な顔を柔和にほほえませながら。正直、ふだんの人を見下してくる表情からあまりにもかけ離れていて、「笑顔がかっこいいなぁ」などという感想は出てきそうにない。


「いや、待って待って。え、どういうこと?」お茶などれようかとしている青年だが、リアナはよけいに混乱している。「じゃあ、デイはどこにいるの?」


「さあ? 俺がデイミオンになってるんだから、デイのほうは城内の俺の部屋で、俺になってるんじゃないかと思うけど」


「確認しようよ! そっちのほうは一匹の、とてつもなく大きな毒虫とかに変わってしまってるかもしれないでしょ!?」


「あはは」デイミオン、いやフィルが笑った。「なんだか、小説みたいですね」


 出会った当初から、にこにこ笑っていたかと思うと次の瞬間には剣をふるっているという底知れなさがある男ではあったが、いまこの現状で笑う余裕があることがなんだか恐ろしい。


「ひとごとじゃないわよ、フィル……いきなりデイと入れ替わっちゃったなんて、不安にならないの?」

「そうですね」

 フィルは笑みをひっこめた。「心配なこともありますね。……日課の筋トレと剣術訓練を、デイミオンがやっておいてくれてるか、ってことなんだけど」


「そこ、いま心配するとこかな!?」


「一日でも休んじゃうと、翌日の感覚が違うから、イヤなんですよね」

 そんな、憂いをおびた表情で言われても。




 出されたお茶を機械的に飲みくだしながら、リアナはとにかくデイミオン(inフィルバート)のほうも確認しなければと考える。そのあとのことは……正直、考えたくない。あまりにも突拍子がないだけでなく、今日もリアナとデイミオンの公務はめじろ押しなのだ。要するに、忙しい。


 リアナの心痛を知ってか知らずか、デイミオンの顔をした青年は茶器を片づける手を止めて寝台のほうに近づいてきた。


「実は俺……デイミオンの身体になったら、やってみたいと思っていたことがあって……」

 海を思わせる深いブルーの目が近づく。腰をかがめて目線を合わせているだけなのだが、ふいの接近に鼓動が早まる。「……お願いを聞いてもらえませんか?」



 デイミオンの低い声で「お願い」などと言われると、なにかよくわからない緊張でどぎまぎしてしまう。

「な、なに……」

 リアナが微妙に目をそらすと、さらに身体を近づけてきて、ほとんど耳もとではと思うくらいの位置からささやいた。

「……戦斧バトルアックス


戦斧バトルアックス


 二人はたっぷり五呼吸ぶんほど見つめあった。


「デイは上背があるから、戦斧バトルアックスがうまく取りまわせるんじゃないかって。前から思ってて」


「却下! 却下です!」



**



 そういうわけで、城内のフィルの部屋に向かったリアナである。


 なぜか音を立てないようにそーっとドアを開ける。一兵卒の宿舎と言われても違和感がない狭く簡素な部屋の寝台に、フィルバートの姿をした男がいた。完全に横にはなっておらず、ヘッドボードに背をあずけて、腕を組んで足を交差させていた。フィルバートの身体なのに、驚くほど尊大に見える。さすがはデイミオンだ。


「やっぱり! 絶対サボってると思った!」

 予想が当たっていたので、リアナは勝ちほこった。ふだん、業務の忙しさに不平を漏らしているだけに、別人と入れ替われば堂々と仕事をサボるに違いないと踏んだのだ。


 フィルの顔をした男が目を開ける。ベッドのなかにカブトムシを見つけたとでもいうような、嫌悪に満ちみちた目線をリアナに送ったあと、ふいとそらした。


「なんのことかわからんな。俺はフィルバートで、いまは自由時間です」


「デイ、フィルのフリするの下手すぎ! フィルもデイのフリするの下手すぎだけど! 兄弟でしょ!?」


 デイミオン(確定)は露骨に舌打ちをした。


「せっかくあの無職の男と入れ替わったんだぞ。溜まった睡眠欲を解消してなにが悪い」


 フィルは別に無職じゃないし、わたしの護衛だし、朝は優しく起こしてお茶を淹れてくれて時にはドレスを選んでくれ、正直いって自分も年頃だからそこまで世話を焼かれたくはないが、とにかく。


「今日は五公会の日でしょ!」

「あいつが行けばいい。大丈夫だ。俺は弟を信じている。やればできるやつなんだ、ただただやらないだけなんだ」


「こんなときだけ兄弟を持ち出してこないでよ! ほら、起きて!」

「イヤだ!」


 上腕をつかんで寝台から引きはがそうとするが、デイミオン(inフィル)はヘッドボードにしがみつく。


「これは働きづめの俺に竜祖が与えたもうた貴重な休日なんだ! 今日は絶対に寝台ベッドから動くもんか! 放せ!!」

 惰眠をむさぼりたいデイミオンと、阻止しようとするリアナ。


 二人は必然的に、もつれあうように寝台ベッドに倒れ――まさにちょうどそのタイミングで、フィルバートが部屋に入ってきた。


 二人そろって目をあげると、フィル(inデイミオン)が肩に巨大な長斧をかつぎあげ、自分の寝台ベッドの上で密着状態にある男女にうろんなまなざしを投げかけた。


「――俺の身体で何をしているんだ? デイミオン――いや、


「「戦斧バトルアックス――!!!」」

 デイとリアナは声を合わせて叫んだ。



***


 誤解が解けてよかった。


 救国の英雄フィルの、意外と堅実な日課が明らかになったが、どうやらそれ相応の戦闘マニアでもあるらしい。戦斧バトルアックスを片手に歩くデイミオンという構図は城内の人間を震えあがらせるに十分だったので、あとで訓練の時間を入れてもいいと譲歩して武器を離させた。



 リアナはひやひやしながら、五公会の行われる部屋へ入った。五公会とは、オンブリアの貴族階級のトップに位置する五人の領主、竜騎手ライダーの長たちの集まりである。


 寝台に貼りつこうとするデイミオンを練兵場に叩きだし(〈ハートレス〉たちの戦闘訓練があるので)、嫌がるフィルバートを引っぱって、ようやくここまで来たのだ。


 その日の議題は税収についてだった。

 これはよくないな、と嫌な予感がした。


 税収に関する議論は、各領主の収入に直結するだけに紛糾しがちであるし、さらに、フィルバートにとってほとんど興味のなさそうな領域である。(正直言えば、リアナだってそれほど興味いっぱいなわけではない)


 悪い予感は当たった。


 五公たちの侃々諤々かんかんがくがくの議論のなか、フィルは明らかに話についていけていなかったし、そもそもついていこうという姿勢すら怪しかった。デイミオンの端正な顔に無関心をたたえたまま、うつらうつらしだしたときにはリアナも思わず〈ばい〉で叫んだ。(そう、なぜか〈ばい〉はデイミオンの身体に入ったフィルにつながっていた)


「……それでは、この件についていかがお考えか? デイミオン卿?」


〔フィル、起きてー!〕

〔王国の運営にもうちょっと関心をもってー!〕


「デイミオン卿?」

「えーと、俺……いや、私は、陛下の言うとおりでいいです」


〔違う! 違うでしょ!〕

〔え? そうでしたっけ?〕

〔そうです! わたしとデイは政治的に対立してるの!〕


 いわずもがなのことを、リアナは説明した。王位に就く前から二人の間には利害関係が存在しているので、こういう場では意見が合致しない方が自然なのだ。


〔もうちょっとこう、わたしと対立してる感を出して!〕

〔難しいなぁ……あなたと対立するなんて〕


 フィルはぼやいたが、試行錯誤の結果、にやりと笑った。かなり、デイミオンの皮肉げな笑みに近づいている。

〔そ、そうそうそれよ、いい調子だわ〕

 本来の目的を忘れ、リアナは褒めた。


〔昔、ええと仕事で――うまくいって楽しかったときのことを思い出してみました〕

〔それ、なんか戦場的な意味の仕事だよね!? 笑顔が凄惨だもんね!?〕

〔ははは〕


「陛下? 殿下?」


 リアナはあわてて、言うべきセリフをフィルに送った――



****



「……っていう、夢を見たわ」


 雨は陰鬱に降りつづいている。机の上には決壊しそうなほど書類の山が積もり、新王と王太子は執務室に缶詰めになってそれらの処理に追われていた。春を前に、どの部署も忙しい。


 リアナの話を聞き終わったデイミオンは、ため息をついた。「おまえが俺たちをどういう目で見ているか、わかったよ」


「ほんとうにフィルは戦斧バトルアックス好きなのかなぁ」

「無駄話はやめて手を動かせ」


 竜騎手ライダーの長やら領主やらといった別枠の仕事もありながら、王の裁可を分担して手伝ってくれているのだから、なんだかんだいっても優しい。書類とにらみあっている疲労と、雨に閉じこめられた灰色の部屋が、すこしばかり現実と非現実の区別をあいまいにするようだ。


「だが、俺が惰眠をむさぼるというくだりだけはいいな」しばらく経ってからデイミオンが呟き、そして二人は顔を見あわせて笑った。






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