第11話~ぽんぽこタヌキのラブコメディ 前編~

「まったく……デート当日に遅刻するなんてそれでも園長の彼女なの!?」

「ひゃあああぁぁっ!ごめんなさいぃ~!!あとまだ彼女じゃないですぅ~!!」

 耳元でビュンビュンと風を切る音が聞こえてくる。周りの景色は絶えず変化し、建物や木々がまるで絵の具を乱暴に擦ったように流れていく。よく乗り物酔いをしやすい人は遠くの景色を見るといい、という話があるが、その遠くの景色すら数十秒後には通り過ぎてしまうのだからチーターの脚力は恐ろしい。あまりの速さに掴んでいた彼女の肩から両手が離れそうになるのを必死で堪え、タヌキは無心でしがみつくことしかできなかった。

「安心しなさい、私の地上最速も伊達ではないわ。必ず間に合ってみせるから」

「は、はいっ!」

 彼女の背中で祈るように返事をする。

 一度は辿り着いたはずの会場だった。

 園長より先に待ち合わせ場所のベンチまで辿り着いたタヌキは今日これから起こることに胸を踊らせながら彼の登場を今か今かと待っていた。前髪がハネていないか、服に埃がついていないか、借り物のDVDはちゃんと中身が変わっていないか念入りにチェックしていく。

 そこでふとあることに気付いた。

 チケットが無い、と。

 一瞬にして血の気が引いていくのがわかった。会場の熱気とは裏腹に、そこだけ切り離されたように温度を失っていく。

 出掛ける前にちゃんと確認したかというと正直自信が無かった。DVDを返すことに夢中になり、その隣に大事に置いておいたチケットはきっと今も机の上に置きっぱなしになっているだろう。

 時計に目をやる。開演まではまだ時間があるが今から戻っていては遅刻は免れない。彼もまだ現れていない以上勝手にこの場からいなくなってしまっては印象を悪くするだけだ。もしかしたらタヌキが約束を破ったと勘違いして帰ってしまうかもしれない(尤も、PIP好きの彼がそんなことをするとは考えづらいが)。

 為す術もなく途方に暮れていた時、偶然チーターが通りかかった。彼女はタヌキの顔を見て何かを悟ったのか、ただ一言『困ってるんでしょ?なら乗って』と自らの背中を差し出した。タヌキにとっては僥倖に他ならず、そのまま彼女に負われ家まで戻り無事にチケットを手にする。

 しかし会場に戻る途中で、今度はチーターの異変に気付いた。明らかに最初の時よりスピードが落ちている。新幹線のように速かった足は、今やたまたま通りかかったガラパゴスゾウガメに追い越され心配されるまでになっていた。それくらい誰の目から見ても明らかだった。

「あ、あのぉ……。チーターさん?」

「ぜぇ……ぜぇ……。……私の役目は、終わったわ。ここから先は自分の足で行って……」

 彼女は崩れ落ちた。最早膝で立つ気力すら残っていないのだろう。その場でタヌキを下ろすと同時に、精根が尽きたように頭からどさりと倒れる。

「だっ大丈夫ですか!?」

「へ……平気よ……。それより私に構わず早く行って……」

「で、でもチーターさんが……」

「ごめんなさい……。見栄張っちゃったけど本当は私長距離は苦手なの」

 そう言ってだらしなく四肢を投げ出し肩で息をする彼女は、まさにネコ科の動物がバテて休憩している姿そのものだ。

 そう言えば以前チーターは足こそ速いものの、そのスピードを長時間維持することはできないのだとパークガイドか誰かが話していたのを聞いた覚えがある。元々短距離特化のチーターにとってこの距離はフルマラソン並みに遠く、辛いものだったのだろう。彼女が苦手な長距離を、それでもタヌキの為に必死で走り抜いてくれたのだと思うと目頭が熱くなった。

「どうしてそこまで……」

「園長に告白する大事な日に遅刻なんてみっともないでしょ」

 思いもよらぬ返答に虚をつかれ思わず目を瞬く。

「な、なな何で知ってるんですか!?」

「何でって……今パークじゃその話で持ちきりよ?」

 そう言ってチーターは怪訝そうにタヌキを見た。まるで知らないのはタヌキだけだとでも言いたげな表情で。

 一体どこからこの話が漏れてしまったのか。一瞬フェネックの顔がチラついたが、その彼女がタヌキを見てれば誰でもわかると言っていたことも同時に思い出す。噂が噂を呼び、園長がタヌキをライブに誘ったことが決定打となり、今やその噂はパーク中に広まっているらしい。つくづく女の情報網というものは恐ろしい。

 それと同時に、自分はもう戻れないところまで来ているのだと思った。フェネックやコモモ、ライチョウやチーターのように自分を応援してくれている者もいれば、ただミーハーに騒いでるだけの子もいるだろう。或いは昔のタヌキのように自分ではどうすることもできず、ただ静観しているだけの子も中にはいるかもしれない。

 その全てが自分と園長の行く末を見守っているのだと思うと胸と首を同時に絞め上げられているような息苦しさがあった。

 それでも気持ちは不思議な程落ち着いていた。心の奥底で沸々と強い想いが湧き上がってくるのがわかる。

 確信する。私はもう昔の自分じゃない。

「さぁそろそろ行かないと本当に間に合わなくなるわ。うまくいくよう私も祈って……」

 全て言い切る前に燃え尽きて真っ白になってしまったチーターに「ありがとうございます!」と丁寧に頭を下げ、急いで待ち合わせ場所のベンチに向かう。

 彼はもしかしたら先に会場内に入ってしまってもういないかもしれない。それでも行かなきゃと思った。

 観客は既に全員会場内に入ってしまったのか、奇妙なほど静かだった。遠くに見える物販コーナーからPIPの代表曲『ペンペン・サンサン』が聞こえてくる。



 走れ 走れ 皆の想い繋いだら

 走れ 走れ それが始まりのゴールテープ



 タヌキはこの曲が好きだった。

 可愛さと元気さを両立したまさにアイドルらしい曲。始まりのゴールテープという表現も好きだったし、何より初めて行ったライブでこの曲が最初にかかり、一目で彼女達のファンになっていたからだ。覚えやすいサビの走れは二度目が観客のコールになっており、タヌキも気付いたら2番のサビから一緒になって歌っていた。その歌詞を噛み締めながら自分を励ます。

 心臓が口から飛び出そうになるのを必死で抑えタヌキは走った。自分で走る足はチーターと違ってこれ以上なく遅く感じた。それでも一歩、一歩と彼のいるかもしれないベンチへ走った。

「はぁ……はぁ……。園長……さん」

 彼は、いた。

 ベンチに腰を掛けるわけでもなく、ただそこにいるのが当然といった様子で立っていた。

 驚いたように目を見開き、汗だくになったタヌキを見つめる。その姿を見た瞬間、それまで張り詰めていた緊張の糸が一気に解かれその場にへたへたと座り込んでしまった。

「よ、良かった……。もう、行っちゃったかと思ってた」

 首を振って否定する彼もまた、今日はもしかしたら来てくれないのかもと諦めかけていたのだと言った。この前から体調を崩していたから心配だったと。

 そう言えば彼と最後に会ったのはいつだったろう。彼が家まで訪ねてきてくれた時、タヌキはまだコモモのありもしない恐怖に怯え、フェネックの真意も知らないでいた。そう考えると、あの時のことが今は思い出のように遠い。

 彼が手を差し伸べる。

「だ、大丈夫だから!一人で立てるから……あれ?」

 そう言ったものの足に力が入らない。上からぐっと押さえ付けられているかのようにタヌキの身体は地面に固く、へばり付いたように動かなかった。

「ごめんなさい……。安心したら腰、抜けちゃったみたい」

 その時開演を告げるアナウンスが流れる。

 焦りが大量の汗となって背筋を伝っていく。その全てが一直線に腰目掛けてせめ立ててくるのが無性に気持ち悪かった。せっかくここまで順調とはいかないものの、チーターの力を借りて彼と再会できたのにここで間に合わなくなってしまっては元も子もない。せっかくの彼女の頑張りも全て水泡に帰してしまう。

 何とか立とうと身体に力を入れるが、まるでアスファルトに吐き捨てられたガムのようにピッタリとこびり付いて離れようとしない。

「(立って……!立って……!立つんだタヌキ――!!)」

 心の中でそう叫んだその時、ふわっ、と身体が宙に浮かんだ。それまで石のように重かった下半身が、まるで宇宙空間に放り出されたようにふわりと重力を失う。

「えっ?えっ?」

 彼がタヌキを抱きかかえたまま言った。ちょっと走るよ、と。

「えぇーーーーーーーーーー!!?!?」











「みんな今日は来てくれて本当にありがとう。私達の最後のライブ、全力で楽しんでいって!」

 PIPのリーダー、コウテイペンギンのコウテイの一声を皮切りに続々とメンバーが登場する。

「へい、ロックだぜ!みんな最後までノっていってくれよ!」

「私達の歌声と踊りを心行くまで楽しんでいってくださいね!」

「フルルだってコンサートのときくらいは頑張るよ!みんな、応援ありがとー!」

 会場が一気に歓声に包まれる。音の塊は空気を引き裂き、ステージからアリーナへと波のようになだれ込んできた。目映い程の照明に照らされて四人がそれぞれポーズを取る。その星のような煌めきが最高に眩しくて、タヌキはただ呆然と眺めていた。

『ちょっと走るよ』という彼の言葉がまだ頭の中で巡っている。顔から火が出そうだった。身体中から一気に水分が蒸発するような錯覚に陥り、彼に抱きかかえられている間ずっとその腕にしがみつくようにして顔を埋めていた。早く着いて欲しいという感情と、このままずっとこうしていたいという欲求とがせめぎ合う。それでもやはり最後には彼と一緒にライブが観たい、という思いが勝った。

 彼の細くて頼りないと思っていた腕は、想像以上に筋肉質で、固くて、逞しかった。異性の腕というものを初めて意識し、そこから浮き出る青い血管が堪らなく煽情的だった。彼を治療した時には気付かなかったことだ。そう考えるとあの時より余裕のある自分が何だか不思議に思えた。

 そうして次に顔を上げた時、タヌキは既に指定のブロックの前まで来ていた。

 周りの観客が何事かと一斉に振り返る。その視線を一身に集め、その場にいた全員と目が合った。全身の血が沸騰し顔に昇っていくような感じがして、これが漫画かアニメの世界なら間違いなく頭から湯気が沸き立っていただろうと考えてしまう。

『タヌキしゃんと園長しゃんでしゅ!』

『良かったのなー!二人とも間に合ったのなー!』

 すぐさま同じブロックにいた仲間たちが駆け寄ってくる。こんな姿を前にしても彼女らは茶化すでもなく、戸惑いもせず自分たちを受け入れてくれた。

 正直なところまだ茶化された方がマシだったかもしれない。ここまで純粋な反応をされてしまうとタヌキとしてはその恥ずかしさの矛先をどこに向けていいかわからず、ただ俯くだけだった。

『早く早く、こっちだよ』という声に急かされるように背中を押され、前へ前へと進んでいく。一番最後に着いたにもかかわらず、タヌキ達は気付いたら最前列まで来ていた。最前ブロックの最前列、そしてステージの真正面。これ以上の特等席があるだろうか。

 隣にそっと目を向ける。少し見上げた彼の横顔が天から降り注いだ照明によって照らされ、アイドルにも劣らない輝きを放っている。

 かつて夢にまで見た光景だった。



 ――目の前には大好きなアイドルがいて、隣にはもっと大好きな人がいて。こんな幸せな時間が永遠に続けばいいとその時は思っていた。



 今がまさに“その時”なのだと実感する。

「さぁ一曲目行くわよ!ワンツースリーフォー!!」

 コウテイのフォーカウントを合図に一曲目のイントロが流れ出す。『ペンペン・サンサン』だ!

「きゃっ!?」

 その時突然ドン、と背中に鈍い痛みが走った。最初は後ろの人が誤ってぶつかったのだと思った。しかし次の瞬間どっと人の波が押し寄せ一気にタヌキに襲い掛かる。抗う暇も無い、一瞬の出来事だった。そのまま流されるように目の前の柵にぶつかる。

 ゔっ、という声にもならない悲鳴が喉から漏れた。柵がちょうど溝落の辺りを抉るように圧迫する。

 迂闊だった。

 最前ブロックの最前列ならこうなることはライブ慣れしたタヌキなら容易に予想できたはずだ。

 これが後ろのブロックならまだステージとの距離がある為誰も前へ出ようとは思わないが、最前列ともなると話は別だ。誰もが意識せずとも自然に足が前へ向く。前へ前へ、少しでも憧れのアイドルに近付きたい――。その欲望が大きな波となってタヌキに降りかかる。最早ブロック内は戦場と化していた。

「く、苦し……。だれか助け……!」

 声が出ない。身体は自由を奪われ、荒れ狂う濁流の中に放り込まれたようにもみくちゃにされる。全身が擦り切れそうだった。

 咄嗟に隣にいた園長に助けを求めようとしたが、既にそこに彼の姿はなかった。せめて少しでも後ろに回ろうとするがそれすらも許してくれない。次第に先程まで鼓膜を覆い尽くしていた轟音までもが遠のいていく。

 窒息する、そう思った時だった。

「あれ……?」

 ふっと身体が軽くなる。それまで矢面に立たされていた背中が嘘のように静かになっていた。

 後ろにいたのは園長だった。

「え……園長さん!?」

 彼は柵に両手をかけ、タヌキに覆い被さるようにしてその身を呈していた。一瞬にしてその距離感が縮まる。

「(こ……ここここの状況って……!?)」

 咄嗟に壁ドン、という言葉が頭をよぎる。相手を壁際に追い込み、手をドンとついて脳がとろけるような台詞を言うというあれだ。一時は話題になり、タヌキもメディアで取り上げられているのを何度も目にした。しかしまさか自分がその対象になる日が、しかもその相手が園長であるということを誰が予想しただろうか。さながら壁ドンならぬ柵ドンといったところか。

 彼の荒い吐息が横髪を撫でる。その度にばくん、と心臓が大きく跳ね上がるのがわかった。その鼓動が痛い程伝わってくる。

 恐らく小柄なタヌキのことは誰からも見えていないだろう。そもそも観客はライブを観に来ているのであって、そのライブで演者より他の観客に夢中になる、といことはまず有り得ない。しかし自分だけがその有り得ない状況に置かれているのだと思うと、その特別感と背徳感で頭がどうにかなりそうだった。

「(うぅ……これじゃ別の意味で窒息しちゃうよぉ!!!!)」

 結局そのまま彼に守られるようにして、その日一番楽しみにしていた曲は殆ど聴けずに終わってしまった。その後すぐに彼が後ろに引き戻してくれたお陰でそのあとのライブは気兼ねなく鑑賞することができた。それでも胸の高鳴りが収まることはなく、いつまでも四分打ちのバスドラムのように規則的に、そして力強くリズムを刻んでいた。

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