第10話~ほんとのきもち~

「園長と私が似てる、かー」

 タヌキを送り出した後、フェネックは呟いた。

 空を見上げる。夕日の沈んだ濃紺の世界には星がぽつりぽつりと輝き初めていた。

 果たして本当にそうなのだろうか。来た道を戻りながら、フェネックはこれまでのことを思い返していた。


 彼と初めて会った時、フェネックはアライグマと共に新種のセルリアン(後のセーバル)の捕獲をパークの管理センターから依頼されていた。

 そのセーバルを友と呼びセルリアンと見なさない園長とサーバルらにとって自分達は敵対関係、とまではいかないが、主義主張の異なるライバルのような存在だったと思う。実際競い合うようにして衝突したことも一度や二度ではない。

 サーバルに手を引かれ、パークガイドに通訳されるように自分の意見とも呼べない意見を言う彼はパッと見冴えなかった。とてもじゃないが今のように親しみを込めて園長と呼べるような雰囲気は微塵もなく(尤も、今もその貫禄があるかどうかはわからないが)、どこか抜けている、というのが彼の印象だった。

 どうしてこんな人間が慕われているのだろう。彼を見る度にそう思ったが、彼と行動を共にしていくうちにその印象はどんどん薄まっていき、いつしか自分も他のアニマルガール同様彼を信頼し慕うようになっていた。多分それは彼の持つお守りの力だけではなく、彼自身の人柄もあったのだと思う。


 パーク・セントラルでの最終決戦の前、一度だけ彼と二人きりで話したことがある。

 その頃はもう彼と行動を共にすることは珍しくなかったが、それでもいざこうして目の前にすると柄にもなく緊張しているのがわかった。

 だがこれだけは伝えなければならない。

 彼はアニマルガールにとって、パークにとって、そして自分にとっての最後の希望。その希望という輝きが潰えた時、この世界は終わる――。

『お願い……!パークを、皆を、私達を、セーバルを救って……!!』

 声が上ずっていた。今までこんな風に誰かに物事を頼んだことなどない。口をついて出てくる言葉が自分のものじゃないような気さえした。

『お願い……します』と初めて使った敬語は我ながら不自然で、その声は縋る様にも祈るようにも聞こえた。切実だったと思う。

 彼は目を見開いていた。こうやって誰かに自分の気持ちを吐露することなど無かったからてっきり驚いているのだろうと思った。

 だが違った。

 彼は深々と頭を下げながら『今まで気付いてあげられなくてごめん』と謝った。

 その言葉を聞いたら、もう駄目だった。

 絶対に泣かないと決めていたのに次の瞬間には堰を切ったようにわあわあと泣いていた。一度こぼれた涙が一粒、また一粒とどんどん勢いを増して止めどなく溢れてくる。

 管理センターが自分達に課した任務はセーバルを捕獲し、その“特別”を奪うこと。それは同時にセーバルの消滅を意味していた。

 最初はそれでいいと思っていた。それでこの世界が救われるのならセーバルの、セルリアンの命など惜しくはない。

 だが彼女達と旅をするうちにその気持ちが揺らいでいる自分がいた。

 彼女はセルリアンじゃない。セーバルという名を与えられた一つの個体だ。自分らと同じアニマルガールだ。ただ生まれた境遇が少し違うだけの、仲間なのだ。サーバルや園長らと楽しげに話すセーバルを見て、いつしかそう思うようになっていた。

 仲間一人の命と引き換えにパークを救うか、それとも彼等のいう起こるかどうかもわからない不確定な奇跡を信じるか、板挟みになったフェネックの苦悩は筆舌に尽くしがたいものだった。

 パークは何て残酷な試練を自分に課したのだろう。こんなにもパークが好きなのに、どうしてこんなに辛い選択をしなければならないのか教えて欲しかった。自分の不幸を呪っても心は晴れず、その日が来るのをただひたすら怯えながら待つしかなかった。

 そして自分達の味方だと思っていたギンギツネが園長側につくと宣言した時、フェネックは決意した。

 ――自分だけは、非情になり切る。

 そうだ、その為にここまでやってきたのではないか。パークの為なら喜んで嫌われ役も買って出よう。

 ありもしない奇跡を心のどこかで期待しながらフェネックはそう心に固く誓った。いや、正確にはそう思い込むことで自分を律してきた。

 でも――。

 本当は園長を信じたかった。

 サーバルを信じたかった。

 セーバルを信じたかった。

 皆を、彼等のいう奇跡を信じたかった。

 その葛藤の中必死で考えて考えて考えて考えて――。

 わからなくなった。

 何が自分にとって最善で、パークにとって最善で、何を救って何を犠牲にして、どれが自分の気持ちなのか何もわからなくなった。

 頭の中の本棚を全て倒してぐちゃぐちゃしたようなやり切れない思いが胸を衝く。もうどこに何があるのかもわからず、溜め込んだその感情という本だけが重く自分の心にのしかかり蓋をしていた。

 それが、彼の一言で全て吹き飛んだ。

 彼が言う。『信じて欲しい。大丈夫、絶対になんとかしてみせる』と。

 彼そのものが自分にとっての輝きになったのはその頃からだろうか。

 あぁ、この人になら自分の全てを捧げられる。安心して身体を、心を預けられる、と。

 自分は彼ほどよくできた人間ではないし、人望もない。もし仮に似ているというのであれば、それは紛れもなく彼を敬愛し憧れにしてきた証なのだと思う。


「………ほんとのきもち、ねぇ」

 いつの間にか戻ってきたアスレチックにもたれかかりながら独りごちるように呟く。少し喋り過ぎたからだろうか。声が掠れていた。

「いやぁ捻くれて生きてると本当の気持ちとかそういうの分からなくなるよねー……。参っちゃうな」

 本当にこれで良かったのかという声が心のどこかで聞こえている。まるで壊れたラジオのように同じフレーズを繰り返し流し、尋問されているような気分だった。

「………ほんとに参っちゃうよ」

 グチグチ考えるのは自分の悪い癖だ。

 ほんの少し他より頭がいいからってつい余計な事まで考えてしまう。

 きっとこれは自分に嘘をついた罰なのだ。“彼女”とは違い、これは自分の気持ちに素直になれなかった報いなのだと。考えれば考える程よくない方向へ思考が傾倒していく。部屋の灯りを消したように視界が狭まり何も見えなくなる。あの時と同じだ。答えの出ない自自問自答を繰り返すことほど苦痛なものはない。

 自分は頭がいいと言ったが、それは嘘だと思う。現に答えがないという答えが出てる問題すらこんなに考え込んでしまうのだから。

「……ほーんと、私って馬鹿だよねー」

「今の言葉、訂正するのだ」

 不意に頭の上から投げかけられた言葉に上を見上げる。見るとアスレチックのてっぺんにアライグマが立っていた。

「え……?アライ、さん?」

 暗がりからでもわかる大きな尻尾と耳、頂上でも風の抵抗を物ともせずふんぞり返って腕組みをする様はまさしくアライグマそのものだった。

「フェネックは馬鹿じゃないのだ!フェネックを馬鹿にするやつは、このアライさんが絶対に許さないのだー!!」

 そう叫びながら彼女は慣れた手付きですいすいとアスレチックを下りてくる。

 まずい。今こんな顔を彼女に見られるわけにはいかない。目に溜まった涙を咄嗟に拭い、どうにか彼女が下りてくるまでに平静を装う。

「あ、あははー。じゃあ私も許さないってことになるねー」

「あ、あれ??そうじゃないのだ!アライさんが許せないのはフェネックを馬鹿にするやつで、フェネックは大好きだから許せて、でもフェネックが自分を馬鹿にするから……」

 あーもうよくわからなくなってきたのだー、と頭を抱えのだのだと地団駄を踏む。

 そんな彼女を見ていたら、急に何もかもどうでもよくなった。何てちっぽけなことを考えていたんだろうと、自分とその問題のスケールに笑いそうになる。

「ともかく――――悩んでることがあるなら全部話すのだ、フェネック。本当の気持ちだとか、これで良かったのかだとかグチグチ言ってないで、もっとアライさんを頼って欲しいのだ」

「あ、あれー……?もしかして私、心の声漏れてた……?」

 顔が赤くなる。

「そんなもの聞かなくても顔を見れば分かるのだ!フェネックはいつもそうやって難しい顔してアライさんの分からない事を考えているのだ」

 だから、と彼女が続ける。

「全部聞かせるのだ。どんな大変な悩みだって、アライさんが絶対に全部まるごとなんとかしてやるのだ」

 何だ。

 最初から自分は素直だったじゃないか。

「………………。やー……うん、やっぱりアライさんには、かなわないなー」

 そう――。

 何も輝きは一つじゃない。

 太陽の沈んだ空には、今は月が顔を出している。 その光に照らされるように、フェネックはアライグマの手を取った。

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