よふかしのうた 2話
*
六本木でタクシーを降りてしばらく歩いた。
街の明かりは、20時を回ろうとしているのにまだ煌々と灯っていた。不夜城という言葉はきっと、この街東京を指すものなのだと思う。渋谷に住んでいるくせに、夜はコンビニくらいしか出歩かないから、冷えた夜の空気が新鮮で。肺いっぱいに夜を摂取する。これは立派な、未成年者の深夜徘徊。補導の対象。すごくいけないことをしているのに、キャリーしてくれない社会に中指立てるのは気持ちがいい。
「そろそろ高校生は補導される時間ね。私が居るから大丈夫だけど」
「うん」
「ただ万全を期して、由依にはこれから私の妹になってもらいます。ハタチで、大学生になりたての2年生。できる?」
4歳読んでいた逆サバが2歳追加された。中2が、たった一晩でハタチになる。《れーちょん》さんの手を握りしめながら、私はとっさに年齢を聞かれたときのために用意していた生年月日と生まれ年から逆算する。
「2001年生まれで、干支は……」
「寅卯辰巳だから、
設定を用意するオトナの賢さに、そして《れーちょん》さんが姉になることに驚いた。こんな綺麗な姉がいたらと想像しそうになったところで、佐久間由依の実態を知ったら軽蔑されることに気づく。
第一、姉妹というにはあまりにも。
「私と《れーちょん》さん、全然似てないよ」
「腹違いってことにしたらいいから。私のことはお姉ちゃんって呼んでね。練習してみよっか」
六本木の路上に立ち止まって、《れーちょん》さんはそんなことを言う。やっぱりからかってるのか、マスク越しに覗く目元は笑っていた。意地でも言わないでいてやりたくなる。
「……《れーちょん》さん」
「お姉ちゃんでしょ?」
「《れーちょん》さん」
「お姉ちゃん」
「……」
「由依のいじわる」
くすくす笑われて、余計に言いたくなくなった。コドモ扱いする《れーちょん》は嫌いだ。オトナとして、対等に扱うって言ったのに。
「言えたら教えてあげるよ。私の本名。知りたくない?」
「別にいいし。《れーちょん》さんは《れーちょん》さん」
「ごめんごめん。お姉ちゃんやり過ぎちゃった」
自分だけ勝手にお姉ちゃん設定になっているのがムカつく。握ったままの手を離してしまいたかったけれど、この手が切れたら、この命綱がなくなれば、夜の街にひとり取り残されてしまう。
夜の街は、やはり怖い。補導されたら。妙な人に絡まれたら。誘拐されたら。幽霊とか出たら。さまざまな誘惑と恐怖であふれている。《れーちょん》さんがいるから、キャリーしてここに立っていられる。離れたらきっと、怖くて動けない。
「じゃ、いつも通り《れーちょん》でいいよ」
「……お姉ちゃん」
「由依!」
お望み通り呼んであげた途端、ガバっと抱きしめられた。温かで、落ち着く。芽生えかけた夜の街への恐怖はすっかり消え去る。マッチ中の落ち着いた《れーちょん》さんとは違う、明るい素顔。知らない顔を知れるのがとても嬉しい。
設定は、23歳の《お姉ちゃん》に、初めて連れられてやってきた二十歳の女子大生の由依。童顔で野暮ったい私には絶対に手の届かない世界だけど、今は違う。
《れーちょん》さんが可愛いと、似合うと言ってくれたコーデとメイクがキャリーしてくれる。オトナの世界で戦うための私の武器になってくれる。
「それじゃ、開けるよ」
《れーちょん》さん改め《お姉ちゃん》は、六本木雑居ビル3階の、重くて硬そうな扉を引き開けた。
入口入ってすぐの場所は、暗闇だった。いっさいの光が遮断されて、都会の夜なんて比じゃないくらい。同時に、漂う香りに鼻がひくつく。母さんが酔って帰ってきたときと同じ匂い。父さんが仕事から帰ったときにまとってくるのと同じ匂い。
酒と煙草。
「いらっしゃいませ。ようこそアンティッカへ」
「2名です。以前、琴音と——」
「ええ、覚えていますよ。ご来店ありがとうございますね」
暗闇の中で親しげにやりとりすると、軽やかな笑い声が生まれた。どこか含みのある店員に「妹です」と告げた《れーちょん》さんに手を引かれ、入口そばのカーテンをくぐる。
薄暗い、オレンジ色の暖色光が5席しかないカウンターを照らしていた。
ここはバーだ。
ドラマやアニメで見たことがあるような。むしろ、創作の世界から飛び出してきたようなオトナの世界。本当にこんな場所が実在するなんて思わなかった。
「おかけになってくださいな」
「ど、どうも……」
声の主は金髪の外国人。白と黒のツートンカラー、きっとバーテンダーなのだろう。おっかなびっくり席に着いて、ぐるりと店内を見渡す。
客は私たちの他に壁際に2人の女性。すらりとした長身と、私よりも小柄。何やら難しそうな仕事の話をしていて、その会話に混ざってバーテンダーが時折ころころ笑っている。
高級感あふれる、落ち着いたお店だ。オトナの隠れ家とはこういう場所のことを言うのだと感心したけど、店内に静かに流れるオペラが背筋と緊張を張り詰めさせる。
きっとお値段も相当高いに違いない。持ってきたお小遣いだけでは絶対に足りないから《れーちょん》さんだけが頼りで、離してしまった手を再び握りしめる。握り返してくれる手の強さと温かさが、私の命綱だった。
「緊張してる?」
「そうでもないけど」
裏返りそうな声を殺して、《れーちょん》さんを見つめた。これまでマスクに覆われていた顔が露わになる。童顔の私とは比べ物にならないくらいに整った輪郭。目元だけでもオトナびていたのに、口元が合わさると見惚れてしまうほど。そんな人の隣に居るのが申し訳なくなってきて、握りしめていた手を緩める。
「私が選んだんだから、大丈夫だよ」
なんて言う《れーちょん》さんは、まるで私の考えを読んでしまっているようで。今度は指と指を絡め合わせて、カウンターの下で手を握る。思考を読まれたのが悔しかったけれど、バーテンダーにも壁際の女性客にも見えないふたりだけの秘密が嬉しくて、指を絡める。
「ご注文の前に。失礼ですが、妹さんの年齢をお伺いしても?」
ただ、私を読めるのは《れーちょん》さんだけじゃなかった。
すぐに正体を見抜かれそうになって口を噤む。なるべくオトナびた顔に見えるよう、精悍な面構えをイメージして表情筋に力を入れた。
「ハタチになりたてなんですよ。だからオトナの世界を教えてあげたくて」
「あたしに犯罪の片棒を担がせるおつもりかしら? 悪いお姉さん」
ギロリ、と。口調も表情も微笑んでいるのに、バーテンダーの琥珀色の瞳だけは笑っていなかった。正体を見透かされる。実は18歳どころか、14歳のコドモだとバレてしまう。
手を握りしめるだけの無力感が嫌になって、私はどうにか声を上げた。
「私がお姉ちゃんに頼んだんです。だからその……」
そこから言葉が出なくなって、品定めでもするように見つめられた。視線を外したら負けだと直感して、バーテンダーと根比べに挑む。
普段の佐久間由依ならきっと一撃で負けてしまうランク帯だけれど、今は《れーちょん》さんが選んでくれた武器がある。勇気を振り絞った。
「貴女はオトナですか?」
「……はい」
「年齢を確認できるものはお持ちです? 免許証とか、学生証とか」
「お財布は、家に置いてきたから……」
食い下がる。《れーちょん》さんのためにも負けたくない。
するとバーテンダーは小さく嘆息して、強張っていた肩を下ろした。認めたというよりは諦めたのかもしれない。カウンターに白いコースターを置いて、ついでに灰皿を出す。
「まあ、ご家庭の教育方針に口を出す権利はありませんものね。ただ、愛らしい妹さんが悪の道に走らないことを祈っております」
「保護者がいるから大丈夫ですよ。ね、由依」
「う、ん……!」
バーテンダーはようやく納得してくれたのか、注文を聞いてくる。バーというくらいだからお酒を出すんだろうけれど、メニューはないし、お酒のこともよくわからない。ビールとチューハイくらいしか見聞きしたことのない私は、《れーちょん》さんの横顔を見る。
「飲んでみたい?」
お酒は別に飲みたくない。酔ってヘロヘロになる両親のだらしないオトナぶりが嫌いだった。だけど、それがオトナになるということなら、知りたい。お酒の味じゃなくて、お酒の奥にあるオトナが知りたい。
「ちょっとだけ……」
「じゃあ、由依には軽めのものを。私は《ジン・トニック》で」
呪文みたいな注文に「かしこまりました」と告げて、バーテンダーはグラスを2脚出して、瓶からお酒と思われる液体を注ぎ始めた。その手元を注意深く観察していると、《れーちょん》さんが微笑む。
「心配ないよ。ここは変なお店じゃないから」
「れ——お姉ちゃんだから心配してない」
「ホンットかわいい……私の妹……」
バーテンダーに笑われてバカにされても、《れーちょん》さんは怒らなかった。やりとりの奥の奥にある本当のことを見つけ出すのがオトナなのかもしれない。だとしたら私には、まだまだオトナは遠い。
コースターの上に、注文したお酒が並ぶ。呪文みたいな名前はもう思い出せないけれど、グラスの中身は薄いビールのような琥珀色。炭酸の泡が、透き通ったグラスの底からふつふつとのぼっている。
「ハタチのお祝いに」
《れーちょん》さんがグラスを上げる。一拍遅れて、それが乾杯の合図だと気づいた。やおら自分のグラスを持って、慎重にグラスを重ねる。
あとは飲むだけ。ハタチになれなければ嗜んではいけないお酒。飲んでいいものかと今さら思う。けれど知りたい。お酒を飲みたくなるオトナの気持ちを。
グラスの縁に口づけして、猫のように舌で液面に触れる。しゅわしゅわの炭酸の刺激のあとで、にがあま。後からくるのは生姜みたいな辛味。
「初めてがあたしの作ったカクテルだなんて光栄です。初モノ、奪っちゃいましたね?」
「妹に手出さないでくださいよ?」
バーテンダーとやり合う《れーちょん》さんの隣で、私はカクテルと向き合う。オトナの気持ちはまだわからない。舌先で触れただけだから当然だ。飲まないとオトナになれない。せっかくキャリーしてくれた《れーちょん》さんにいいところを見せられない。
グラスを傾け、カクテルを流し込んだ。
「どう? 飲めそう?」
口の中で炭酸が暴れる。にがあまと舌先を熱くする辛味。苦手な味ではなかったけれど、吐き出した方がいいなんて心の声が聞こえてくる。オトナになりきれないコドモの私。《ゆーさく》じゃない、中2の佐久間由依の声。
そんなヤツは。何者にもなれない佐久間由依は嫌いだ。
「美味しい?」
ごくり、と。琥珀色の喉を液体が通った。途端、喉がかきむしりたくなるくらいにカッと熱くなる。父さんのビールを少しだけくすねたときみたいな、口の中に残る苦さ。こんなものを飲むオトナの気持ちが知れない。
「……うん、結構イケる」
「ちょっとちょうだい?」
嘘をついたグラスに《れーちょん》さんが口づけする。間接キスなんて気にしないオトナがカッコよくて、どきりとするコドモな私が恥ずかしい。
《れーちょん》さんは琥珀色の液体を飲んで、くすっと笑った。
「このカクテル、なに?」
「特製の《シャンディ・ガフ》です。うちは健全なお店ですので」
「由依、私の《ジン・トニック》飲んでみる?」
差し出されたグラスを受け取ろうとしたら、バーテンダーの白い手が割り込んできた。ムカつくオトナだ。邪魔をしないでほしい。
「よき道標にならないといけませんよ。
「ケチ」
唇をすぼめて、《れーちょん》さんは《ジン・トニック》のグラスを傾けた。
それよりも、バーテンダーの呼んだ名前が脳裏を反響する。
《れーちょん》さんは、玲奈さん。予想が当たって嬉しかった。イメージ通りの名前で安心する。
その後、玲奈さんは《ジン・トニック》を、私は特製の《シャンディ・ガフ》を飲み干した。にがあまだけど飲めないことはなかった。そしてお酒を飲んだからか、どこか体がぽかぽかしている。
玲奈さんがカウンターの下で、手を恋人繋ぎしてくれていて、細い指が私の手をくすぐっている。気持ちよかった。オトナがお酒を飲む気持ちが少し分かる。
「なら、もうひとつオトナの世界を」
玲奈さんはバッグから、名刺入れのような小さな箱を取り出した。二つ折りの中身は、父さんのものより細い煙草。それを取り出す左手薬指——指輪はない——の爪にだけ塗られた青のマニキュアに視線が釘付けになる。
どういう意味なんだろう。左手薬指の指輪の意味は分かるけれど、ネイルの意図は分からない。
視線を上げると、玲奈さんは細身の煙草をふかしていた。立ち登る煙が、オレンジの間接照明の中で玲奈さんの髪の毛みたいなカーブを描いている。綺麗だった。
「煙草って美味しいの?」
「煙草は味じゃなくて、時間を味わうものなの」
「時間?」
「煙草を吸っているという時間。忙しい人生に打つ小休止。長い文章の中に句読点を打つような感じ」
よく意味はわからないけれど、カッコよかった。煙草なんて、辞めたくても辞められない、だらしないオトナの典型的な代物だと思っていた。なのに玲奈さんは煙草にしっかり役割を見出している。途端にチョコレートっぽい香りも、副流煙の煙たさも愛おしいものに思えてきて。
「私も」
「煙草の喜びを味わいたいのなら、自分のおカネで買うべきですよ」
ちくりとバーテンダーに釘を刺された。さっきから私がコドモだと疑わず、邪魔ばかりしてくる。悪いオトナだ。それも最悪の部類。誰が作ったか知らない規則や法律に縛られた、社会の歯車。
「教育方針に口出ししないんじゃなかった?」
バーテンダーはそれ以上口出しはしなかったけど、視線は雄弁に物語っていた。微笑んでいるのに目が笑っていない。玲奈さんは煙混じりのため息を吐いて、まだ吸える煙草を灰皿に押し当てる。
「オトナにも厳しいね」
「オトナになりきれないオトナには、特に」
ややあって、2杯目のカクテルを干した。私がカーテン奥のトイレに立った間に、玲奈さんは支払いを終えていた。お財布を出すフリすらさせてくれないのも、出したところできっと足りないことも悔しかった。
悪くて厳しいバーテンダーに見送られて、六本木の空気を吸う。淀んだバーとは違う、また別の冷たい淀み。夜が体に染み込む。
「渋谷まで歩こっか。由依と話したいし。楽しいよ、夜の街歩くの」
「知ってる」
時刻は0時を回っていた。土曜の夜から日曜の深夜。さしもの不夜城も日付が変わるとネオンサインは消えて、街灯とまばらな車列が、大通りに光の轍を描いているだけ。
静かだった。そばを過ぎる車の音と、玲奈さんの低いヒールの音がコツコツとアスファルトを揺らすばかり。
夜は好きだ。少し怖いけれど。日の光のように、何者でもない中2の私を明るく照らし出して正したりしない。何も言わず、見向きもせず、無視して放っておいてくれる。
その恐怖も、暗闇の不安も。今は隣で手を握る玲奈さんがすべて、安心に変えてくれる。
胸は高鳴っていた。お酒のせいで。
「……《れーちょん》さん、玲奈さんって言うんだね」
「ね。バーテンダーに先を越されちゃったよ。私の名前当てられるか、せっかくの
はあ、とため息をつく玲奈さんが、コドモみたいで可愛かった。見惚れていると視線が合って、背筋が伸びる。
「初めてのお酒はどうだった?」
「美味しかったよ。オトナがハマる気持ち分かる」
「そっか。あれが美味しかったかー」
玲奈さんはくすくす笑っていた。道行く人はほとんど居ないから、マスクを取った横顔はとても楽しそうに綻んでいる。綺麗な笑顔。
おかしなことを言ったつもりはないのに、なぜ笑われるのだろう。
「実はね、由依が飲んだのはお酒じゃないの」
「嘘だよ。喉がカッてなったし、体もポカポカするし、頭もボーッとしてる」
「《シャンディ・ガフ》はね、ビールとジンジャーエールのカクテルなの。喉がカッと熱くなるのもポカポカするのも、生姜のしわざ」
「え……」
確かに、ジンジャーエールの味がした。喉がカッとする感じも温かさも、そう言われれば生姜に似ている。
「でもビールの味はしたよ。父さんのと同じで、苦くて!」
「ノンアルかビール味のジュースだよ。スーパーに置いてあるでしょ? 《こどもビール》」
あのバーテンダーは、私をオトナだと認めてなかった。年齢確認も諦めたフリをしていただけで、特製のカクテルを出して、玲奈さんの《ジン・トニック》や煙草を私が味わわないように見張っていた。
中指立てた社会の仲間。私が嫌いなオトナ。
「あの女、嫌い」
「ね。お高く止まってる感じ」
だけど、あれがお酒じゃないのなら。体のポカポカが生姜のしわざなら、どこか心が騒つく気持ちはなんだろう。玲奈さんと一緒に夜の街を歩きながら。交通標識の渋谷までの距離が減るごとに、着かないでほしいと願っている気持ちの正体はなんだろう。
会話が続かなかった。玲奈さんが話す内容が学校のことになったから嘘をつくしかなくて。そんなことを話したい訳じゃないのに、他に話題が見当たらないのがもどかしくて。何度となしに服を買ってもらったことに感謝したり、バーテンダーの悪口を言ったりして間を埋める。
本当に知りたいこと、聞きたいことがあるのに、ビールのように喉に絡まって出てきてくれない。
「……あ、ここから知ってる道」
「もうひとりで帰れる?」
頷きたくないのに、結んだ手を離したくないのに、時間は残酷だった。
知っている道。渋谷の、自宅の近所。近くにある公園に、なんとなく気持ちが吸い寄せられて。ふたつ並んだ公園のブランコに座って、玲奈さんがそばに来てくれるのを待ってしまう。コドモじみていて嫌だったけど、そうでもしないと引き留められない気がしたから。
「ブランコとか何年ぶりだろう」
「私も久しぶり」
玲奈さんは隣に来てくれた。面倒臭いコドモだと思われても、それが嬉しかった。
「《れーちょん》さんは……」
名前で呼びたくなる。チームメイトの《れーちょん》さんと《ゆーさく》じゃなくて、玲奈と由依に。
「玲奈でいいよ。正直、リアルでその名前呼ばれると恥ずかしくて」
へへへとはにかんで、玲奈さんはブランコを揺らした。長い髪が街灯の下で踊る。
「玲奈さん」
「なに? 由依」
見つめ合うと素直におしゃべりできないと歌ったおじさんは誰だったか。時折父さんが口ずさんでいるそのフレーズしか知らないけれど、いい歌詞を書くと思う。
絞り出すように、私は本当に聞きたいことを口にする。
「私、きょうすごく楽しかった。こんなに楽しいのは、初めてってくらいで。服も買ってもらったし」
「それ、きょう何度も聞いたよ? 嬉しいけどね」
同じことを言ってしまうなんてやっぱりコドモだ。せっかくキャリーしてもらっても、コドモに戻ったんじゃ意味がない。
「で、ね。なんか……不思議なんだよ。今までこんなこと感じたことなくて。玲奈さんは優しくて、カッコよくて。素敵なオトナで……ずっと一緒にいたいって思って……」
「一緒にいるよ? 《ゆーさく》がいないと、うちのチームはダメだから」
「ゲームの話じゃなくて」
「なんの話?」
わかってくれない。ここまで私の心をずっと読んできたのに、言いにくくて尋ねにくいことだけは、私の口から言わせようとする。
玲奈さんは意地悪だ。あのバーテンダーと同じ、意地悪なオトナ。なのに嫌いになれない。嫌いどころかそれは反対の感情。これまで体験したことのない、名前だけ知っているもの。
由依から、玲奈に向けた気持ち。
「……自分が分からないんだ。どうしていいか」
やっとのことで言えたのは、そんな言葉で。自分のコドモ加減に辟易する。結局玲奈さんに構ってもらわないと、気持ちを汲んでもらえないと言いたいことも言えない。何者でもない中2の私が居た。
「由依」
いつの間にか煙草に火をつけて、玲奈さんが目の前に立っていた。両足で揺れるブランコを止めて、逆光の中に浮かぶ玲奈さんのシルエットを見上げる。
「やっぱり、煙草を直接吸うのはまだ早いかもしれないから」
くわえた煙草の先端が赤く灯った。吸うと、酸素が供給されて煙草は燃える。チョコレートフレーバーの煙で、玲奈さんの肺が充たされている。
そのまま、玲奈さんは私に顔を近づけて。
「……よく味わって。オトナの味」
唇に、何かが押し当てられる。それが何かなんて、考えられなかった。こじ開けられ、空気が送り込まれてくる。チョコレートの香りの煙。わずかに吸い込んだ途端、肺が侵入を拒んだ。
むせ返りそうになるけど、咳き込んで吐き出したくない。冷たい、玲奈さんの唇の感触を手放したくない。
「お、オトナの味って……」
「吸えなかった煙草の味。分からないから知りたかったんでしょう?」
離された唇が恋しかった。恋しいなんて思ってしまう自分の感情が理解できない。まるで自分が自分でなくなってしまったように、心臓が跳ねる。
「私が知りたいのはそんなことじゃなくて、この……」
抑えられない胸のざわめきの正体を知りたい。
ボーッとした頭。煙にむせて霞んだ視界に、玲奈さんのシルエットが浮かんでいる。煙と闇に紛れて、気まぐれに消えてしまいそうな。何者でもない私の前に現れた、私を何者かにキャリーしてくれる人。
「なら、《れーちょん》から《ゆーさく》に
「問題なんて学校みたいなこと……」
煙を吐いて、玲奈さんは言った。
「《ゆーさく》が今抱いてる気持ちの正体を解き明かして?」
告げると、玲奈さんはくわえていた煙草を私の唇に挟んだ。火は消えていて、これでは吸えない。チョコレートの煙と、玲奈さんが飲んでいたお酒の風味が残っている。オトナの香り。
「待って」と引き止める甲斐なく、玲奈さんは消えた。公園から飛び出してあたりを見渡しても、まるで夜の闇が迎えに来たように、暗闇の中に紛れて。
「この気持ちの正体を、解き明かす……」
中2の佐久間由依にも、思い当たるところはある。
もし、玲奈さんに向ける気持ちが思った通りのものならば。
火の消えた煙草をくわえたまま、誰もいない家路を急ぐ。洗面所の鏡に映った自分の顔は、見たこともないくらいにオトナびて見えた。
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