Garden 〜深窓千一夜物語〜 後編
「ウチは……いや。この物語の主人公は、小此木湊」
「ミナト、ね。かわいい名前ね。どんな女の子?」
「26」
「それだけじゃどんな話になるのか分からないわ。もっと詳しく教えて?」
「ニート……働いてないヤツ。弟に寄生してる人間のクズ」
「昼間、弟は難病だと聞いたけれど?」
いつもはいたって健康体の海斗を、筋萎縮性側索硬化症だと偽っていた。だが今、海斗には別の病名がついていて、賽の河原だかお花畑だかで立ち往生している。
「……難病だと嘘をついてたら、本当に病気になってしまった。ミナトがダメ人間だったせいで」
これは因果応報。物語の主人公に相応しい天罰かもしれない。
現実に追い詰められる。心臓が締め付けられ、息が浅くなる。もう甘い嘘でもタバコでも逃げられない。かき消せなかった不安、後悔、恐怖が湊の精神を覆っていく。
例えるならそれは真っ暗な夜の海。溺れている。街の灯は見えない。社会から必要とされていないから。近くに船もない。肉親にすら見捨てられたから。もがけどももがけども、自業自得。自己嫌悪の渦が湊を鷲掴みする。
いやだ、いやだ。誰か。助けて。
誰か、ウチを、認めて。
「ミナトのせいじゃないわ」
自己嫌悪の潮流に、浮き輪が投げ込まれた。
「ミナトは魔女で、弟に呪いをかけたなら別だけれど。普通の人間にそんなことはできない。それとこれとはミナトには関係のないことよ」
海斗の心筋梗塞は、お前のせいじゃない。
現実に、嘘の話というフィルターを通してはいても、お嬢様が直接言ってくれた気がして、自己嫌悪の潮流に飲み込もうとする現実がわずかに軽くなる。
「それで、ミナトには家族はいるの? 恋人は?」
矢継ぎ早に質問するお嬢様に、湊は咄嗟に答えてしまう。
「……親は三年前に死んだ、実家が燃えて。恋人は」
「あら。言葉が詰まったのは、ネタバレだからかしら?」
「ね、ネタバレってどういうこと……」
「他の使用人から聞いた言葉よ。私、お話を急かしてしまうきらいがあって、物語の重要なところに先に踏み込んでしまうのよ。困ったものよね」
メイド店長や先客から学んだのだろう。他の客にも詰問まがいのプレッシャーを与えて話を急かしているのだと思うと少し笑えてくる。
いや、なぜ笑えてくる。なぜ好意的に解釈している。
目の前で微笑む女は、ただのサイコパスお嬢様なのに。
「ねえ、教えて? もしかしてミナトは、恋愛物語の主人公なのかしら」
「……違うって。恋人はいない」
「そうなのね。ミナトはきっと、可愛らしい女の子だと思うのに」
正面きって、お嬢様はそんなことを言う。本人が目の前にいるというのにだ。普段なら白けて一笑に伏すような見えすいたお世辞なのに、何故か動揺してしまう。
「あ、いや……」
「どうしてミーナが照れているの? ミナトの話をしているのに」
楽しげなお嬢様を見ると、お前に褒められたからだとは説明できないし、したくない。彼女の用意してくれた逃げ道にすがって、湊はごまかしにかかる。
それは同時に、湊とミーナと切り分ける行為。
「そ、そうだったね。ウチはミーナ。湊じゃない」
「さっきからそう言っているのに。おかしなミーナね」
一瞬遅れておかしいのはお前だという感情が湧いて、すぐに立ち消えた。
徐々に思考が鈍ってきている。これまで湊自身がついてきた嘘の幻覚剤よりも強力な、現実を忘れさせてくれる嘘。
それは、ガーデンというもうひとつの現実。
「ミナトは恋愛物語の主人公ではない。ならどんな物語なのかしら?」
問いかけに唸った。ミナト……小此木湊は何をしている人間だっただろうか。逡巡して返答できない湊を、お嬢様が急かす。
「なら私が当ててあげるわ。そうね……。大冒険の物語とか?」
「どこを冒険すんの……」
「もちろん、世界よ。英国を飛び出して欧州各国、米国、アフリカ。アジアもいいわね」
お嬢様のガーデンはイギリス設定らしい。日本の首都東京でそんな話をされると思っていなくて、吹き出してしまった。
「そんな大それたことしないって。今はできないし」
「そうなの? きっと楽しいと思うけれど」
「まあー、行ってみたいけどね。それこそイギリスとか」
「いいわね、今度ふたりで倫敦へ買い物へ行きましょうか。ちょうどディケンズ先生の新作が出ているはずだもの」
意地悪な質問にもいっさい動じることなく、お嬢様は無邪気に微笑み返す。途端、底意地の悪い自分が嫌になってくるのだから、彼女は恐ろしい。
試すようなことをしてはいけない。何故だかそう思えてくる。
「恋愛でも冒険でもないとすれば、何かしら。ゲーテ先生がお書きになったような悲劇?」
「ゲーテが何者かわかんないけど、まあ……悲劇かな……」
「そう……」
あれだけ興味津々だったお嬢様は、急に興を削がれたのか消沈した。悲劇は嫌いだと顔に書いてある。
「でも、いいわ。聞かせて。オコノギミナトの物語。唯一の肉親である弟が病気になったミナトは、どんなことをしていたの?」
ここから先は、たとえ嘘のフィルターがかかっていたとしても、そうそう口に出せるものではなかった。
あれほど話を急かしていたにも関わらず、お嬢様はミーナが口を開くのをじっと待っている。
「いや、それは…………」
「すべては嘘のお話よ。下手な語り口でもいいわ。私が聞いてあげるから」
優しい声だった。まるで嘘とは思えないもうひとつの現実が、湊とミーナと切り分けていく。
「ミナトは、何をしている女の子?」
「……パチンコ」
「それは何?」
「ギャンブル、で、おカネを……」
「稼いでいたの?」
「稼げてるときもあったけど、でも……」
「うまくはいかなかった?」
「…………」
会ったばかりの人間に、何を話しているんだろう。こんな自分の恥部をどうして、自ら進んで告白しているのだろう。
否定されるに決まっているのに。真面目に働けと口汚く罵られるだけなのに。
「ミナトは苦労したのね」
だから、言葉が染み込む。
誰にも理解されなかった辛さが、誰も相手にしてくれなかった苦しみが、初めて同情される。共感される。むず痒い。それでいいのかと思ってしまう。パチンコに明け暮れるクズなんて、常識に照らせば否定されるべき存在なのに。
「どうして、否定しないの……」
「ミナトは否定されたい女の子なの?」
「違う、けどだってクズだよ!? こんなヤツ許しちゃいけないって!」
「私は許すわ。だってミナトは駄目な人間じゃないもの」
「なんでそんなことが分かんだよ!? ミナトは……!」
「許されないと思っているのは、いけないことだと自覚しているから。違う?」
どきりとした。奥底に眠っている何かが掘り起こされる。
「私が思うに、ミナトは苦労して疲れているだけ。自分を許されない人間だと思えているうちは、駄目じゃない。むしろ苦境にあってもそう悩めることは、素晴らしいことよ」
その共感は、弟を難病指定して友人知人からカネをせびっていた時とはまるで違うもの。
「……このままじゃダメなことは、わかってるんだよ。わかってるけど……」
「うまくいかない?」
「……は、い……」
図星を撃ち抜かれた。息が詰まる。
何度となく立ち直ろうとして、元の木阿弥に戻る。湊の人生はそれの繰り返しだ。「これで最後」「もうやらない」と宣言しては失敗してしまっている。
お嬢様は突然ひとつ手を叩き、話を断ち切った。
「話してくれてありがとう、ミーナ。物語の舞台設定は理解できたわ」
黙すしかなかった。お嬢様に対してかける言葉が、湊からもミーナからも見つからない。
冷えた紅茶をわずかに口にして、お嬢様は落ち着いた口調で切り出した。
「ミーナ、ひとつ教えてあげるわね」
静謐な語りかけ。柔らかく微笑んだベルフラウお嬢様が、出来損ないのメイド、ミーナにも分かるように諭す。
「私は物語を……いいえ、嘘を愛しているの。絹のように優しく、砂糖菓子のように甘く、新雪のように真実を包み込んでくれるから」
「あんな嘘を愛するなんて、趣味悪いよ……」
「それは私が決めること。私はミナトを許すし、ミナトが変わろうとする気持ちを認める。がんばり屋さんだものね」
誰も湊を許してはくれなかった。人々は口々に働けと、姉らしくあれと、現実から逃げるなと罵ってきた。
それでも、嘘偽りない本当の辛さを苦しさを、嘘の塊のようなガーデンとお嬢様は肯定してくれる。
「そんなの現実逃避でしょ……」
「ふふ、物語の中に逃げたいだなんて、面白いことを言うのね」
お嬢様は本当に面白いとばかりに笑って、ミーナを見つめた。
「貴女の世界はここ。ガーデニア家の、ベルフラフに仕えるお喋りな新人メイド。嘘が得意で、私をいつも楽しませてくれる」
「ウチ、は……」
「私からは、目を背けてはいけないわ」
瞳に見入られる。目を背けることができない。嘘を塗り固めた粘土みたいな存在ベルフラウお嬢様が告げている。
嘘から目を背けるな。それは暗に、見たくもない現実からは目を背けてもいいということ。
「名乗りなさい。貴女の名前はミーナ? それとも、ミナト?」
ベルフラウ・ガーデニアは許すと言った。ツラい現実からは逃げてもいいと、変わろうとしている気持ちを認めてやると、そう言った。
「ウチの名前は……ミーナ」
「物語に登場する女の子は?」
「……ミナト」
「いい子ね」
ベルフラウに頭を撫でられる。微笑んだ彼女の顔に、なぜか安心してしまう。彼女は嘘の存在なのに。この世に存在しない、ベルフラウ・ガーデニアなる人物を演じているに過ぎないのに。
いや、違う。もしかしたら。
ベルフラウお嬢様は本当に、存在するのかもしれない。
「ミーナ、続きを聞かせて?」
「続き、っスか……?」
なぜか、丁寧語になってしまう。まるで洗脳でもされてしまったかのように、メイドのように振る舞ってしまう。
だけどそれは、自ら望んだこと。
現実から目を背けた先にある、自分を見つけただけのこと。真実を嘘、嘘を真実として、切り離して考えられるようになった証。
「ミナトの話の続きよ。ミナトはこれからどうなるの? 聞かせて?」
私は小此木家の長女、湊ではない。
ガーデニア家の、ベルフラウお嬢様を楽しませることが仕事の、お喋りと嘘が大好きな新人メイド、ミーナ。
「わ、かりました……」
*
それでは、ベルフラウお嬢様にお話します。
この嘘物語の主人公は、オコノギ・ミナト。
彼女は26歳にもなって働かず、弟に寄生して毎日パチンコに明け暮れる、人間のクズです。
「パチンコ、と言ったかしら。どんなものだったか、もう一度教えて?」
平たく言えば、ギャンブル。
自分の……いいえ、両親の遺産や弟の財布から抜いたおカネを賭けて、もっとおカネを増やそうと企むことです。
「うまくはいかなかったのよね?」
……はい。総額で言えば、負けています。
たまに勝つことはあっても、数日後にそれ以上負ける。損失を取り戻そうと賭けて、勝って、また負ける。それの繰り返しです。
「どうして続けてしまうの?」
分かりません。言わばそれは魔法、呪いとでも言いましょうか。
一度魅入られてしまえば、呪いを解くことは難しいのです。
「困ってしまうわね」
そうですね。
「それには何か、キッカケがあったの?」
キッカケ……。
「言ったはずよ。物語の主人公には理由や動機が必要。なんとなくで行動するなんて三流の作家がやることだわ」
……おカネがなかったからです。
ミナトは仕事をクビになって、それで……。
「それで充分よ。あまりミナトの設定を深堀りすると、情報が錯綜して読者が混乱してしまう。だから今は、話さなくていいわ」
……ありがとうございます。
「いいのよ。ギャンブルは、おカネがなかったから?」
そうです。ビギナーズラックという言葉があります。
ミナトはたまたま、それに恵まれた。初めて数日間のうちは連勝して、向こう3ヶ月分の家賃を払えるくらいに稼ぐことができた。
「その時のことが忘れられないの?」
……いいえ、正しくは、そうじゃありません。
「正しくは?」
……もう、何もかも嫌だった。
借金で首が回らないのも、両親が死んだのも、弟が生死の境を彷徨ってるのも、嫌だった。
ツラい現実から逃れられるなら、なんでもよかった。
「ミナトにとって、現実は苦しいものだったのね」
とても、苦しいものでした。
誰からも頼られず、相手にされず、信用もなく。
家族も、友人も、誰もミナトを認めてはくれませんでした。
「とても悲しい女の子ね」
…………。
「ミーナは、ミナトのことをどう思う? 好き? 嫌い?」
……嫌いです。
「どうして?」
…………。
「ふふ。今は貴女の意見を言っていいのよ? 答えてみて?」
…………ミナトは、逃げているから。
向き合わなきゃいけない現実から逃げて、社会から逃げて、のうのうと暮らしているから。
「それで、ミーナはどうしたい?」
どう……?
「この物語は……貴女の話す嘘は、ミナトが変わろうとするお話。ミナトの再生物語。私はそう思っているのだけれど。違う?」
*
涙が出ていた。止まらない、滝のような潮流が両眼からとめどなくあふれている。
ベルフラウお嬢様から手渡されたハンカチで、ミーナは目元を強く抑えた。そうでもしなければ、この涙を堰き止めることはできない。
「ミーナ、貴女にもう一度問うわ。貴女の話した物語は、ミナトが変わろうとする話ね?」
「……そう、です……」
「主人公の女の子、ミナトは変わりたいのね?」
「変わり、たいです……!」
目元のハンカチを離すと、テーブルにはティーセットが現れていた。湯気を立てる紅茶と、皿にはショートケーキ。匂いすら気づかなかったのは、鼻が詰まってしまっているから。
「ご主人様に給仕させるなんて、悪いメイドね?」
「す、すみません……」
「まあ、いいわ。今日は初めてだったもの。緊張しているでしょうによく頑張ってくれたわ。だからご褒美よ」
「おあがりなさい」と言われ、ケーキにフォークを突き立てた。ふわふわしたスポンジにまとわりつくクリームは、まるで嘘のように甘く、そして少ししょっぱかった。
「ありがとう、ミーナ。楽しい話を聞かせてもらったわ」
「あんなのぜんぜん、楽しい話じゃ、ない……」
「ああ、でも、やってしまった……。結末を聞き忘れてしまったわ! 続きが気になって夜も眠れなくなってしまいそう」
「続き……?」
お嬢様は絵本を読んでくれとせがむ女の子のように、目をキラキラと輝かせていた。
「結末を聞いてしまうのはネタバレだから、よくないことだとはわかっているの。でも、せめて、あらすじだけでも話してくれないかしら」
「あらすじ、って言われても……」
「難しく考える必要はないわ。どんな苦境にあっても、変わりたいと願って、変わろうとするミナトはどうなるの?」
お嬢様は微笑んだまま続けた。
「私ね、悲劇は嫌いなの。どんなに荒唐無稽でも、結末は幸せに終わるものがいい。話して? 笑顔で、楽しそうに」
鼻を盛大にすすり上げて、ミーナはどうにか笑顔を作った。
そして、ベルフラウお嬢様を満足させられる嘘の物語を創作する。
「……ミナトは、きっと苦労します。でも、苦労しても……」
「変わりたいと願ったものね」
「はい……。変わりたいと、逃げたくないと……思っているから……」
「変わるには、時間がかかると思うわ。大長編になるわね、本棚を整理しておかないと」
「そう、ですね……」
「だけど、ミナトは気づいたわね。自分の気持ちに」
「……がんばります」
「がんばり屋さんだもの。ベルフラウが認めた、お墨付きの主人公よ」
「……はい」
「それで? 《めでたし》は? 物語は終わらなければ。結びの言葉で、締めくくらなくてはならないわ」
理想の結末は、現実的な大嘘。
「……オコノギミナトは、人並みの幸せを、手にします」
「ああ、やってしまった……。いちばん大事な結末を先に知ってしまうだなんて」
「お嬢様は少し、ドジですね」
「次からは気をつけるわ。なら、ミナトの物語はこれで?」
「めでたし、めでたし……」
結びの言葉をおまじないのように唱えて、ミーナは大きく息を吐いた。途端、ベルフラウお嬢様がまばらな拍手をよこす。
「貴女の物語の主人公、ミナトに幸せが訪れることを願っているわ」
「こ、んな話で、よかったんですか……?」
問いかけに少し間を置いて、ベルフラウは苦笑してみせた。
「もう少し、突然幸運が降りかかるような展開があってもよかったわね。だって嘘なんだもの、ご都合主義と言われようとも、私が楽しめたらそれでいいのだから」
「……がんばってみます」
「ええ、素敵な時間だったわ。もう夜も遅いから気をつけて。お給金はメイド長に頼みなさいね」
今の今まで、3千円の約束を忘れてしまっていた。元々ここにはパチンコの軍資金を調達しにやってきたのだ。昼間にもらった5万円と合わせれば、大きく稼げるかもしれないと考えて。
だが、ミーナから戻った小此木湊は、わずかに違う。
「また、来てもいいですか……?」
何の意図なく、言葉が出た。
ただ、なんとなく。ベルフラウお嬢様曰くの、動機なき三流作家がすなるという作劇上の悪手。それでも、そんなものは違うとミーナは、小此木湊は思う。
また来たいという意志は、嘘偽りなく確かに実在する。
嘘だらけのガーデン。お嬢様の寝室での経験は本当のもの。
現実から逃避した先にあるもう一つの現実。
ツラい現実と向き合うための、やさしい嘘なのだと。
「当たり前でしょう? 貴女は私のメイドなんだから」
お嬢様は呆れたように、くすりと笑ってみせた。
*
小屋の外、女子更衣室で着替えを終えて5階へ出ると、窓の外には夜の帷が下りていた。ロッカーに預けていた割れたスマホの表示した時刻は午後8時。知らない番号と海斗から不在着信が入っていて、「生まれ変わった気分だわ」と照れ隠しの生存報告が踊っている。
そのメッセージが、まるで自分のことのように感じられた。
「お仕事お疲れさまでーす。はい、これ本日のお給料ね」
メイド店長から、これまたアンティーク調の給料袋を手渡された。蝋封で閉じられたどこまでも凝り性な封筒だ。空けて中身を確認するのがもったいないと思えるほどに。
「なんなんスか? この店」
「お店じゃないよ、ベルフラウお嬢様のお部屋。あれ? お嬢様から聞かなかった?」
「そりゃあ、聞いたっスけど……」
「もしかして、なんかあった?」
メイド店長に店内での出来事を話すのはあまりにも恥ずかしくなって、湊は頭をブンブン振った。
弱味を握ってどうこうするなんて発想はなくなっていた。
現実逃避を許して、誰にも共感されない苦労を認めてくれた人、ベルフラウお嬢様を裏切るようなことはできない。
「現実に帰りまスわ」
「ほーい。夜道には気をつけて。あ、また来てくれる?」
「……メイドっスから」
エレベーターで階下へ。重力がミーナを湊へと引き戻す。
雑居ビルを出たら、ここは目を背けた現実の世界。
だけど、それは少しだけ違って見える。見え方が違っている。
所持金が3千円増えたからではない。
海斗が生きていたからではない。
理由は、ただ。なんとなく。
「……あー、喋り疲れて腹減った。なんか食って……や、カップ麺か何か、安いやつでいいや。カネ要るし」
足はなんとなく、駅近くのスーパーに向いた。
その道すがら、湊はなんとなく海斗のメッセージに返信した。
『姉ちゃんに任せとけ』
少しでも変わったミナトを語ったら、どんな反応をするだろう。嫌いな悲劇ではなく、大好きな喜劇で物語を結んだら、ベルフラウお嬢様は喜んでくれるだろうか。楽しんでくれるだろうか。気に入ってくれるだろうか。
その顔を見てみたい。彼女が喜び、驚き、微笑む姿を。
そしてありたい。彼女が認めてくれた、ミナトのような人間に。
なんとなく気分がよかった。嘘の幻覚剤なんかよりも、ベルフラウお嬢様の信頼が全身に活力を与えてくれているようで、なんとなく鼻歌を歌いながら、明るい暗闇を歩いて帰る。
人生は物語。だったら、オコノギミナトの物語を連載しよう。
ベルフラウお嬢様に仕えるミーナとして、ハッピーエンドを語れるように。
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