Garden 〜深窓千一夜物語〜 中編

 サイレンが鳴りやんだ。自宅の前に救急車が停まっている。

 南千住の2階建てアパートの前には人だかりができていた。近所の住民が餅でも喉に詰まらせたのだろう、我関せずを決め込んで救急隊員たちの間を縫って外階段を上がったところで、湊は違和感に気づいた。

 202号室。

 小此木家のドアチェーンが謎の工具で切られている。


「え、なんしてんスか……?」

「通報した水野紫苑しおんさんですか? 小此木さんと交際中と聞いていますが」


 海斗の彼女はエアではなかった。

 海斗は彼女ができたことも、その子と将来を約束していたこともいっさい話してくれなかった。それどころか、いっさいの痕跡を消して愛を育んでいた。実の姉なのに、唯一の家族なのに。


「い、や違います。姉で……」


 言い終わった直後にドアがこじ開けられ、隊員が部屋に突入していった。担ぎ込まれた担架を横目に見て、湊は事態をようやく悟った。


「か、海斗……?」


 隊員が、海斗へ呼びかけを続けている。彼岸から呼び戻そうと賢明に仕事をしている。その肩越しに見えた海斗の体は、呼んでも肩を揺すっても、肋骨を潰さんばかりの勢いで胸元を叩いても、だらりと垂れたまま魂の抜けた人形のように固まっている。

 耳に入るのは、無機質なAEDのナビゲーション音声と専門用語ばかり。まるで医療ドラマのワンシーン、嘘みたいな出来事。なのに、それがひどくリアルでめまいがする。


「海斗になんかあったんスか……?」

「電気ショックします、離れてください」


 どうにか歩み寄ったが、遠ざけられた。

 眼下には見たこともないくらいに青ざめた海斗が、口から泡を吹いて倒れていた。半裸の体に取り付けられた電極パッドが、カウントダウンの後に海斗の体を跳ねさせる。

 何が起こっているのかわからなかった。どうすればいいのか、どんな声をかければ、どんな反応をすればいいのか。ただ突っ立っているだけではいけないはずなのに、湊にできることは何もない。


 どうしてこんなことになってしまったのか。


 身に降りかかった嘘みたいな出来事が逃れようのない現実だと気づいたのは、救急救命室前の廊下だった。


「しんきんこうそく……?」

「ええ、まだ予断を許さない状態です」


 急性心筋梗塞。それが海斗につけられた病名だった。

 若者には比較的珍しい、突如心臓が停止してしまう病。原因は心臓冠動脈にできた血栓だと説明されたが、専門用語はするりと思考からこぼれ落ちる。


「な、なんでなんスか……?」


 「一概には言えませんが」と前置きして、医師は言葉を選びながら口を開いた。


「よく言われる原因はストレスです。弟さんを見て、何か気づくことはありませんでしたか?」

「…………」

「勉学やアルバイトで多忙を極めていたとか、私生活に変化があったとか。日常生活での大きな負担です」


 負担という言葉に、思い当たる節はひとつしかなかった。


「や、その……わかりません……」


 医師からも現実からも目を背けた。

 廊下の端に、駆け寄る女性が見えた。髪はボサボサで、コートの裾からのぞく衣服も乱れている。海斗の名を叫んでいるところからして、おそらくは通報した彼女。水野紫苑。


「あの、小此木海斗は!?」

「おそらく、今夜が峠かと」


 医師の手を握りしめ、紫苑は泣いていた。婚約しているとは言え、まだ家族でもない海斗の生死を心配して泣いている。湊は一滴も泣いていないというのにも関わらず。


「貴女は、お姉さんですか……?」

「あ、はい……小此木湊……」


 目が合った瞬間、頬を張られた。ひりつく頬の痛みで、出てこなかった涙がやっと顔をのぞかせる。


「貴女の……あんたのせいよっ!」

「2発目ーっ!?」


 直後、また頬を張られた。逆の頬を裏拳で。


「どうしてあんたみたいなクズが無事なの! あんたのせいで海斗は……」


 肩に爪が食い込んでいた。揺さぶられ、身を引き裂くような鋭い痛みが走る。

 医師に引き剥がされても、紫苑は聞き取れないほどの罵声を上げていた。何事かと出てきた看護師たちになだめられる紫苑を横目に、湊は立ち尽くす。


 海斗がどうなるか分からない。それはつまり、湊の問題だ。

 回復したとしても、しばらくはバイトができないだろう。となれば医療費がかかるし、おそらく保険も掛けていない。有事の際に取っておいた両親の遺産は、海斗に黙って使い込んでしまった。家賃も生活費も湊のタバコ代も、殖やすためのパチンコ代すらアテがなくなる。

 紫苑が落ち着いたのを見て、湊はおずおずと口を開いた。


「あの、水野さん……。海斗とは婚約してんだよね……?」

「……そうですけど」

「おめでとう! だから、その……ウチらはもう家族ってことで、ちょっと、おカネを」


 みるみるうちに紫苑の顔が真っ赤に染まった。感染防止のためのマスクすら脱ぎ捨てて、口角泡を飛ばさんばかりに激昂している。

 冗談のつもりだった、元よりダメ元の提案は、話すら聞いてもらえない。終いには医師からも救急救命室への入室を阻まれて、湊は無人の廊下に立ち尽くす。


「……なんで姉なのに、会えないんだよ」


 所在なく、ポケットの中に手を突っ込んだ。

 手持ちの現金は5万円しかない。脳裏を過ぎったのはパチンコのこと。元手に増やせれば家賃も払えるし、タバコ代も生活費も、海斗の入院費だってどうにかしてやれる。


「海斗……!」


 救急救命室の扉の向こうから、紫苑のものと思われる悲鳴が小さく聞こえた。


『お前いい加減にしろよ。パチやめるって言ってただろ……』


 そして幻聴が聞こえる。何度となく説教されても、湊は行動を改めることができなかった。借金の上一桁が増えるたびに、ギャンブルの頻度は加速度的に増していった。

 人生に一発逆転はない。誰も彼もが口を揃えて言うド正論が正しいことは、湊にだって分かっている。

 ただ、分かってはいてもそれ以外に方法が見当たらない。

 真面目に働いて稼げ? そんなのは桁を見て言え。

 パチンコをやめろ? ならその日勝てるはずだった分をよこせ。

 

 そしてカネは減り、友人も一人また一人と去っていき、最後に残った弟には愛想を尽かされ、おまけに生死の境を彷徨っている。


「……こんなの嘘だ、よ」


 こんな現実ありえない、認められない。

 すべては嘘だ。嘘で辻褄を合わせる。

 小此木湊が人生を棒に振っているのも、海斗が倒れたのも、すべては嘘だデタラメだ。こんなものが、こんな救いようのない主人公が現実であるはずがない。すべては物語、創作、作り話。単なる嘘に決まっている。

 だからこれは嘘だ。現実じゃない。

 だって見たことがあるじゃないか、読んだことがあるじゃないか。

 救急活動も救急車の中の光景も、誰だって一度は空想したことのある虚構の一ページじゃないか。


「そうだよ、嘘に決まってる……」


 現実から目を背け、感覚を麻痺させる、自分に対しての甘い嘘。

 嘘は薬だ。都合のいい嘘をついているということすら忘れられる幻覚剤。だからもう忘れて、5万円でパチンコを打ちに行こう。目を背けてしまうほどの不運を積んだ今ならきっとジャンジャカ出るはずだ。

 それだけあれば、海斗がいなくても。


「いや、だ……。ひとりに、なりたくない……」


 幻覚剤は効かなかった。唯一の肉親が死ぬかもしれないという認識だけは麻痺させられない。

 ポケットの中で、万札を握りしめる。紙幣に混じった硬い感触。それは昼間に出会った謎の清楚女の名刺だ。勤め先と思われるガーデンは、南千住からひと駅行った三ノ輪にある。


「おカネ……稼がなきゃ……」


 ポケットに手を突っ込んだまま、名刺に印刷された住所を目指して歩き出す。電車やタクシーを使う気分にはなれなかった。


 *


 三ノ輪。雑居ビルが立ち並ぶ区画の奥まった場所に、清楚女の店がある。

 店名をGardenガーデン

 庭なんて名がついているくせに、住所は薄汚い雑居ビルの5階だ。エントランスには黄ばんだ壁と、ビリビリに破かれた感染防止のポスター。そして何もかも塗りつぶすような消臭剤の強烈な臭いが、年代物のエレベーターの中に広がっている。

 ガーデンはおおよそ、怪しい店。違法風俗店か、霊感商法。

 弱味のひとつでも握れば、カネをせびれるかもしれない。そんなよしなし事を考えながらエレベーターを出た湊は、想像だにしない光景を目撃して声をあげてしまった。


「ここ、どこ?」


 そこは、まさしく庭だった。

 黄ばみと落書き、吐き捨てられたガムだらけだった階下とはまるで異なるのどかな庭園。床には人工芝、ベンチ。蔦の絡みついたラティスの飾り付け。さらに壁には、なだらかな田園風景の壁紙が貼り付けられている。小洒落たカフェでしか見たことのないアートボードには、流麗な筆記体でガーデンの名が踊っていた。

 庭園と化した5階フロアには、瀟洒な洋式の小屋が建っていた。お屋敷の離れといった趣きだが、もちろん本当に建っている訳ではない。壁を飾り付けて小屋のように見せているのだ。それが周囲の、雑居ビル5階に広がる景色に違和感なく溶け込んでいて、どこでもドアで英国に来てしまったのかと錯覚するほどだった。

 その小屋の壁、レースのカーテンが引かれた出窓に、昼間に会った女の横顔を認めた。

 謎の清楚女。

 どうやら誰かと話し込んでいるようだが、話し相手の顔も、何を話しているのかも窺えない。


「あーっと、お客さんごめんなさい! 今日はもう終わりなんです。また明日来てくださいマジでマジで」


 とりあえずとベンチに座ったところで、小屋の外、ラティスで目隠しされたスペースから声が聞こえた。視線をやると、メイド服を来た長身の女性が立っている。やけにフランクだが、口ぶりからして従業員だろう。


「あ、や、客って訳じゃなくて、この店の……店長? さんに来いって言われた、っつか……」

「店長は私なんだけど」

「は……?」


 えっへんとばかりに鼻を高くして、メイド店長は思う存分調子に乗っていた。ノリが軽い典型的な陽キャだ。湊が苦手なタイプである。

 しばし間を空けて、メイド店長は何かに思い当たったのか、納得したような声を上げた。


「もしかしてお嬢様に声かけられた人? 出窓の奥の」

「そ、そっス。一応……」

「ならちょっと待ってて。もうすぐ空くから」


 店は終わりだったはずだが、対応が変わった。例のメイドはラティスの奥に引っ込むと、今度はメイド服を持って湊の前に立ちはだかる。


「うちはコンカフェなんですよー。お客様はみんな、メイドか執事のコスプレをするって決まりになってまして」

「は、あ……? ウチ、呼ばれただけなんスけど」

「それとも執事にしときます? かわいい執事って感じでマニア受けしそうですよねー?」

「や、その……着なきゃ3千円……」


 言いかけた3千円の話は綺麗に流された。陽キャ特有の押しの強さとメイド店長の腕力のままに引きずられ、湊はラティスの奥の女子更衣室に閉じ込められる。電話ボックスほどの更衣室にはハンガーと姿見、銭湯にあるような鍵付きのロッカーがあるだけ。

 おまけに、メイド店長が数秒ごとに明るくハキハキした声でサイズは合っているか、着方がわかるかと気を回してくる。陰キャにはツラい。着替えなければいけないという強制力に満ちていた。


「わかったよ、着るよ……」


 これも3千円のためだ。あの清楚女と適当に喋れば、手持ちは5万と3千円になる。危うい店かもしれないという懸念も忘れて、湊はいそいそと着替えを終えた。


「はい、ということで貴女はお嬢様にお仕えするメイドさんです。リピートアフターミー。失礼します、お嬢様」

「うぇええ」


 「似合ってる」「かわいい」と褒めそやすメイド店長の背後を、最後の客が着替えを終えて出て行った。本来ならこれで閉店のはずだ。メイド店長もオープンの札を裏返してクローズに変える。


「じゃ、一名様どうぞ。ドア開けて『失礼します、お嬢様』。これ合言葉ね」

「は、あ!? う、ウチ客だぞ? なんで客のほうから挨拶とか」

「コンカフェですから。んじゃ、行ってらっしゃーい」


 湊の文句には無視を決め込んで、メイド店長はラティスの奥に消えていった。コンセプトカフェのくせに、事前にあったのは着替えと簡単な感染防止対策だけである。コンセプトすら分からない。

 小屋、ガーデンの扉の前で湊は逡巡した。

 この後、何が起こるか分からない。扉の向こうはお嬢様こと清楚女との密室だ。


「……3千円!」


 しかし、必要なのはカネだ。カネがなければ立ち行かない。恥も外聞もカネには劣る。相手は嘘を楽しみに待つような悪趣味な女だが、人に貴賤はあっても、カネに貴賤はない。


「しっ、失礼しまっス! お嬢様!」


 木製の扉を軋ませて、湊はガーデンへ足を踏み入れた。

 そこは、お嬢様の寝室だった。


 *


 少女趣味と笑う人も居ることだろうが、甘美で感傷的な夢の世界への憧れは、いくつになっても捨てられないものである。特に、欧米とは縁遠い日本人には、根強い欧州伝統信仰を持つ者も少なくない。

 コンセプトカフェ《ガーデン》は、その欧州伝統の粋を集めたような、夢みる少女趣味のための空間だった。


「うへえ……」


 少女趣味を理解しない湊ですら、思わず舌を巻くほどのインテリアの数々。テーブルや椅子、ワードローブばかりかベッドに至るまで、家具は重厚感と温かみのある木製アンティークで統一されている。

 普通のテナントならどこかにはあるコンセントの穴すらも見当たらず、天井照明とテーブル上の燭台が、蝋燭の炎を抱いて周囲を照らしている。

 電気という概念が存在しない世界。

 一瞬で数百年前にまでタイムスリップしてしまったかのような幻覚を見せる異空間。ここまで徹底しているコンセプトカフェはそうないだろう。

 部屋をぐるりと見渡して、出窓に腰掛けている清楚女と目が合った。


「ご主人様を待たせるなんてたいした度胸だけど……。まあ、約束の時間を伝えていなかった私にも非はある。この件は不問にするわ」

「そりゃ、どもっス……」


 赤みがかった照明に照らされた黒髪は艶めいていた。どれだけヘアアイロンを当てても毛羽だつ湊とは真逆の、サラサラしたストレート。凛と整ったつり目気味の目元には、薄めの化粧。質素で飾り気のない姿が店内の内装に溶け込んでいて、彼女は本当にこの部屋の主人なのかもしれないと勘繰ってしまう。

 そんなはずはない。ここはコンセプトカフェであり、店長は押しの強いメイドだ。となればこのお嬢様はただのバイト店員のはずである。


「てか、なにここ?」

「私の部屋よ。口の聞き方を知らないのね、メイドの分際で」


 汚いものを見るような視線をよこし、清楚女は手のひらでふたりがけのアンティークテーブルを指した。


「まあいいわ。メイドとしての立居振る舞いはおいおい覚えてもらうとして、お喋りをしましょう。それが貴女の仕事だものね」

「し、仕事!? ウチは働くなんて聞いてないけど!?」

「貴女の仕事は、私に話をすること。昼間会った時と同じよ」


 会話の齟齬が激しいのは、独自の設定で接客するコンセプトカフェだからだろうか。

 メイド店長は教えてくれなかったが、この内装と清楚女の口ぶりからして、ガーデンはメイドか執事の設定を守って、お嬢様とお喋りをする店なのだろう。

 カラクリを理解すると、清楚女の芝居に笑ってしまう。


「何がおかしいの?」

「やだって、いい歳こいてお嬢様とかウケるって。リアルでもあのしゃべり方なの? それ疲れない?」

「何を言っているのか判りかねるわ」

「はは、お芝居くっさいなー! ネズミの国のキャストみたい。嘘臭くて笑っちゃうんだよね。なに気取ってんの? みたいな」

「ネズミが国を作っているの?」


 きょとんとしたお嬢様の表情に、湊は一瞬真顔になった。この女は本当に、あの舞浜のクソデカテーマパークを知らないのかもしれない。アナ雪も知らないほどだ。


 まさか彼女は本当に、深窓の令嬢なのか?


 嘘みたいな可能性が思い浮かんだが、すぐに否定する。

 いくらなんでも無理がある。ディズニーに興味がなくとも、あるいは嫌っていたとしても、存在くらいは知っているはず。とぼけた演技をしているだけだ。

 湊は「いやいや」とあらぬ想像を払いのけた。


「スッとぼけんの上手いねー。さっすがお嬢様カフェ」

「お話してくれる?」


 「座りなさい」と指示されて、湊はお嬢様の向かいに腰をおろした。アンティーク調のテーブルの上には、カフェだというのにメニューがない。

 いくらなんでも不親切極まりない。ここまで徹底しなくてもいいはずだ。メイド喫茶のような似たコンセプトカフェに行ったことのある湊だが、ここまで現実との間に境界線を引く店は知らない。

 そして、その最たるものが眼前のお嬢様である。

 統一された調度品。一切の妥協を許さないお嬢様の芝居。あくまでも喫茶店でありながら、メニューも水すらも出てこない、お約束すら排除してしまう空間づくり。

 異質な空間ガーデンでは、逆に自分が異質だ。居心地が悪い。

 お嬢様は、頬杖をついて興味深そうに湊を覗き込んでいた。


「ネズミが国を作るだなんて、どう考えても嘘だもの。聞きたいわ、貴女が語る、嘘の話」

「……ディズニーランドの話したらおカネくれんの?」

「それがネズミの国の名前ね。どんなところ?」


 夢の国の話なんて大したトークテーマじゃない。

 今の湊は、ピンクに染めたショート髪のメイド。そんなメイドの風上にも置けないようなファンキークソメイド姿のまま適当に喋るだけで3千円になるならボロ儲けだ。何度でも足繁く通ってやりたい。

 沸き起こる笑いをこらえられなかった。湊はガーデンのコンセプトに沿って、半笑いで付き合ってやることにした。


「ネズミの国には、ミッキーってネズミがいてねえ? あとその恋人だかなんだかわかんないけど、ミニーがいるわけ。あと他にもドナルドとかグーフィーとか。昼間話したアナ雪とかね」

「そこが物語の舞台なのね。主人公はネズミの国へ出かけた。いつ?」


 主人公という言葉が引っかかったが、無視して続ける。


「ずいぶん昔に家族と。ウチさ、ああいう嘘くさいの見るとうへえってなっちゃうんだよね」

「ネズミの国には家族で行くものなの?」


 お嬢様は、自分が気になるところだけを食い気味に尋ねてくる。湊の抱く感想には興味がないということかもしれない。


「や、家族だったり友達だったり。あとあれだ、カップルで行くと別れるらしいよー」

「ひとりで行ってはいけないの?」

「ソロでもいいだろうけど、そういうの寂しくない?」

「どうして?」

「へ?」

「どうして、ひとりでネズミの国に行くのは寂しいの?」


 このお嬢様は何を言っているんだろう。世間擦れしていない、純粋無垢な深窓の令嬢を気取っているにしても、程度というものがある。


「いや、一緒に行くヤツ居ないんだって思われそうじゃん」

「だから行かないの? 誰もそばにいてくれないから」


 わずかに言葉が詰まった。ランドへ連れて行ってくれた両親はもうこの世にはいないし、借金を繰り返して友達は去った。唯一の家族である弟からは信頼されず、生死の境を彷徨っている。

 考えてしまうのは、小此木湊に待ち受ける結末。嘘とタバコが足りない。


「いやいや、いるから。弟がさ」

「弟は生きているのね」

「まあ、それは……」


 あれだけ自分に嘘をついたのに。何本も嘘とタバコをオーバードーズして逃れたというのに、現実が湊を捕らえて沼に引きずり込もうとする。

 逃れたい。現実から、苦境から。

 せめてこの一瞬だけでも、クソみたいな自身を忘れたい。 


「じゃあどうして、もうネズミの国へ行かないの?」

「興味ないから行かないだけだって」

「そこは楽しいところ?」

「楽しいよ、楽しめる人なら」

「つまり、主人公は楽しめないのね? 興味がないから」

「そう、興味ない」

「どうして?」

「いや、興味ないことに理由いる?」

「理由は必要よ。それは物語の主人公が抱く動機なのだから」

「さっきから主人公って何? これはウチの話なんだけど」

「貴女自身の話に興味はないわ。私が聞きたいのは、貴女の語る嘘の物語。そう約束したはずよ?」


 意味が分からなかった。

 お嬢様が何を言っているのか意図がまるで図れず、返答に詰まる。


「確認しましょう。貴女の名前は?」

「お、小此木湊だけど……」

「いいえ。貴女の名前はミーナ。職業は私に仕えるメイド。違う?」

「あーはいはい設定ね。ただウチはミーナじゃなくて湊。メイドじゃなくてニート」

「ニートって何?」


 いくら3千円がかかっていると言え、いいかげん腹が立ってくる。湊はお嬢様を睨みつけた。


「バカにしてんの?」


 悪態をついたら、この臭い役者はどう出るのか。

 居丈高なお嬢様なようで、興味津々に話を尋ねる少女のよう。お高く止まっているようで、まるで世間を知らない愚か者。

 そんなよく分からない彼女の設定をあばいてやりたくなった。嘘臭いお嬢様芝居をどうすれば崩せるかと考えた末の結論だ。

 だが、想定とは大きく異なる反応が返ってくる。


「口の聞き方がなっていないわ」


 有無を言わさず、お嬢様に頬を張られた。本日3回目の頬への一撃。何度とない修羅場をくぐってきたおかげで慣れているとは言え、痛いものは痛いし腹立たしい。


「何すんだよ、客だぞ!」


 叫んだ顎先はお嬢様の指で掴まれた。視線を固定され、まなじりをキツく結んだお嬢様に睨みつけられる。海斗の彼女や、その他大勢の元友人たちと違うのはその怒り方。


「躾が必要かしらね」


 赤面して激昂する訳でも、侮蔑の表情を浮かべる訳でもない、凍りついたような無表情。静謐な怒りだ。思わず気押されて、言葉が出てこない。無音のお嬢様の部屋の中で、衣ずれの音だけが聞こえてくる。


「貴女はメイドのミーナ。ご主人様に逆らってはいけない」

「あんだよ、それ……!」

「貴女の仕事は、嘘の物語を語って、私を楽しませること」

「なんでそんなことしなきゃいけねーんだよ!」

「汚い言葉は嫌いよ」


 また頬を張られる。泣きそうだ。痛いのと、目的不明のサイコパスお嬢様に捕らえられて、お喋りを強要されている。

 店の弱味など探さなくても見つかった。暴行の事実をネタに、黙っておいてほしかったらとゆすればいい。


「へ、へ。いいのかな客殴って……警察に言っちゃうぞ……」

「何度言えば分かるの? 貴女はメイドでこれは躾。保安官の手を煩わせるようなことは起きていない」

「保安官!? 何時代だよバッカじゃねーの! マンガの読みすぎだろ!?」

「話が通じないわね」

「こっちの台詞だ! 保安官様に通報されたくなかったら、とっととカネ払え!」

「好きにしなさい。貴女はクビよ」

「ああ!?」

「お給金を払う価値もないもの。お嬢様に丁寧語も使わず、態度も悪い。約束した嘘の話すら満足にできないし、おまけに躾を不当だと駄々をこねる。メイド失格ね」


 さんざん言われてきた言葉が胸を打った。人間失格、人でなし、クズ、パチンカス、ニート、社会の底辺。そのどれもが、湊を打ち据えてきた。


「あーあー、どうせウチは人間のクズだよ! 小此木湊はクズでニートで社会の底辺でーす! 正真正銘のクソ女だから暴行をネタにしてテメーらをゆすりまーす!」

「いいえ、貴女はミーナ。オコノギミナトなどではない」

「いい加減にしろよ!? そんなふざけた設定守るか!」

「それは、ミーナがついている嘘なんでしょう?」

「あ!?」

「だって嘘でもなければ、自分で自分を傷つけるようなことは言わないわ。どうして汚い言葉で自分を罵ってしまうの?」

「あんた、は……」


 すべては嘘であってほしい、湊はそう願った。


「だからまずは、汚い言葉遣いをやめなさい。それから私の名前はベルフラウ。ベルフラウ・ガーデニア」

「いつまでやってんだよ!」

「もういいわ。ミーナ、早くオコノギミナトの話を聞かせて頂戴」

「誰が話すかよ、オメーなんかに!」

「嘘の話を聞かせてくれる約束なのに?」

「だからさ、あの話は嘘じゃねーの! 現実で」


 いや、違う。アレは現実じゃない。

 両親の死も借金苦も海斗のことも、過去にあったすべてのことも。それらはすべて現実じゃない、趣味の悪い嘘の物語だ。

 だってそう願ったじゃないか。嘘だと信じ込んで感覚を麻痺させたじゃないか。

 もしすべてが嘘じゃないとしたら。すべて真実だとしたら。

 こんな現実を直視して、こんな現実に逃げずに向き合って、小此木湊は生きていけるのか。


「……わかったよ。嘘、話すから。心して聞け」


 湊は、お嬢様が用意してくれた設定に則って、嘘だと思いたい現実を口にした。

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